「笑いが……満ちるであろう」 亀甲山教会牧師 伊藤裕史
「そのときには、私たちの口に笑いが、舌に喜びの歌が満ちるであろう。
そのときには、国々も言うであろう。『主はこの人々に、大きな業を成し
遂げられた』と。」(詩編126編2節)。 皆さんは「笑う」ことについ
てどのように思っておられるでしょうか。有名なお話に、神様がアブラハ
ムにイサクの誕生を予告した場面があります。アブラハムは「百歳の男に
子供が生まれるだろうか。九十歳のサラに子供が産めるだろうか。」と笑
ってしまいました。サラも笑いました。アブラハムもサラも疑いを持ちな
がら笑ったのです。そこで、「主に不可能なことなどあろうか」と神に怒
られてしまうのです。ここでの笑いは、どういった笑いでしょうか。
旧約聖書には二つの「笑う」という単語が出てきますが、どちらの単語
にも、「笑う」に良いイメージはありません。また新約聖書ではこの「笑
う」意味を持つものは、動詞でわずか2回、名詞で1度だけしか出てこな
いのです。
これには理由があります。聖書の時代の笑いは、「人々と一緒に」では
なく、「人々を笑うこと」をしていたのです。笑いは、軽蔑と嘲りの笑い
でした。だから神様の笑いは、地上の悪者、神を信じない者の生き方に対
する嘲りとして描かれるのです。新約聖書でも同じです。キリスト者の生
活を特徴づける喜びとうれしさを表現するところでも、そこで使われる言
葉は、爆笑の喜びよりも抑えられた表現になっています。だからイエス様
の「笑う」ことを福音書は伝えていません。福音書は、イエス様の涙につ
いては語っていますが、微笑みについては記録しないのです。初代教会で
は、イエス様が笑ったという記述がなく笑いについて沈黙していることか
ら、キリスト者は笑うべきではないとしました。指導者たちは、笑いでは
なく、涙がここ地上の巡礼のしるしであると考えたのです。「今笑ってい
る人々は不幸である。あなたがたは悲しみ泣くようになる」(ルカ6:25)
を文字通りに解釈して、「笑いは、罪ではないと思われるが、罪に導くも
のである」と考えていったのです。
しかし、冒頭の聖句は違います。神様の大きな御業が成就するときに、
私たちの不信仰の笑いが、信仰の笑いに変えられるのです。「そのときに
は、わたしたち口に笑いが…満ち」るのです。
5月は全日本マラナ・タ。今回の講演会で、神様の御心を、神様と私た
ち教会が一緒に行い、一致することで、心から喜び、笑いたいと思います。
皆さんのお祈りと、ご協力をお願いいたします。