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Laforet 4月号

「富士の裾野で」

                       亀甲山教会牧師:伊藤裕史

4月1日に教会の墓地(冨士霊園)に行き、墓前礼拝を行ってきました。少し高地にあるせいか桜のお花見には少し早かったですが、静かに思うひと時を持つことができました。

日本人にとって「死」とはいとうべきもの、死は穢れです。人々は死者のたたりを恐れるがゆえに大きな墓石を置いて死者の怨念をこの世への未練を閉じ込めたのです。僧侶もこれに触れることを避けたそうです。昔は武士などの特権階級を除いて、僧侶が葬儀を行うということはありませんでした。今では葬儀をしていますが、帰りに清めの塩が配られます。死の穢れから身を清めるためです。

その発想はよくわかります。聖書の中にある有名な「よきサマリア人のたとえ話」で、聖職者である祭司やレビ人が死にそうな人を助けなかったのは同じ理由からだからです。襲われていた人が死んでいた場合自分たちが穢れに触れることになるから、わざわざ離れて通っていったのです。

ではなぜ日本で一般人の葬儀を行うようになったのでしょうか。一説によればキリスト教徒を弾圧するためであったといわれます。お寺などの檀家制度を創設し、すべての国民を寺の檀家とし、仏式での葬儀を行うことを義務づけたのです。キリスト教徒弾圧、この目的であれば穢れに触れることもいとわなかったのでしょう。

ではなぜそのようなことをしたのでしょうか。実は今から400年以上前、フランシスコ・ザビエルが日本にキリスト教を伝えてまもなく、キリシタンとなった者の葬儀が行われた際に見物人が3000人集まったという話が残っています。キリスト教の葬儀でこれまで行われなかったことをしたからです。人々を驚かせ、足を運ばせたのは何だったか。実はその葬儀で讃美歌が歌われたのです。死を「穢れ」「忌むべきこと」と考えていた当時の人々にとって、讃美をしながら人を弔うなどということは不思議に見えたのです。でもそれが魅力的に見えたのです。

今も初めてキリスト教の葬儀に出席した時に同じ思いを抱く人が少なくありません。

「教会で葬儀をするとき、敗北して立ち去る死の姿が見える」と言った人がいます。この言葉は真実でしょう。主イエスの十字架と復活の事実、来るべきキリストの再臨を信じる信仰は、愛する人を失った悲しみを持つ人が力強く歩むことを可能とするからです。そして、キリスト教の葬儀を見た人は、そのことを魅力的に感じるのです。これも信仰をもってその生涯を閉じた信仰の先達たちが私たちに受け継ぎ、残した遺産なのです。