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メッセージ2017年1月21日

真夜中の訴え

1月11日から11日間の特別祈祷が始まった。毎日短いテキストを通して学び合い祈り合った。

この特別祈祷を通して、改めて祈りの大切さを学んだ。

どんなことがあっても、神様の平安に満たされるように

神様の御心にかなった歩みをすることができるように

イエス様を証することによって人々の祝福となるように、祈りの大切さを学んだ。今朝は、ルカによる福音書の11章のみ言葉を通してそのことを学びたい。

 

ルカ11章5節から8節「また、弟子たちに言われた。『あなたがたのうちだれかに友達がいて、真夜中にその人の所に行き、次のように言ったとしよう。「友よ、パンを三つ貸してください。旅行中の友達がわたしのところに立ち寄ったが、何も出すものがないのです。」すると、その人は家の中から答えるにちがいない。「面倒をかけないでください。もう戸を閉めたし、子供たちはわたしのそばで寝ています。起きてあなたに何かをあげるわけにはいきません。」しかし、言っておく。その人は、友だちだからということでは起きて何か与えるようなことはなくても、しつように頼めば、起きて来て必要なものは何でも与えるであろう。』」

 

祈りの大切さを私たちはよく承知している。祈りの人を目差したいと思う。このたとえは、粘り強く祈ることの大切さを教えている。真夜中に旅をしている人がその友の所に立ち寄った。しかし、友を迎えた人は何も分けてあげるものがない。そこで、彼は自分の友達の所に行って、パンを三つ貸してほしいと訴えた。この友を迎えた人は、真夜中の突然の訪問に当惑し、面倒をかけないでくれ、と最初は退けた。しかし、尚も訴え続けたことで、ついに彼は必要なものを手にすることができ、旅をしている友にそれを分け与えることができたというたとえである。

「面倒をかけないでくれ」と最初に訴えを退けた人は、友だちだからということで、その叫びを聞き入れたのではなかった。その必要を分けて与えるまでは、その訴えはいつまでも続き、うるさくて眠るどころではないことがはっきりして、仕方なくその訴えを聞き入れたのである。真夜中に訴えられた人は、仕方なくその訴えを聞き入れたが、しかし、主なる神様は、この友のような方ではない。

神様は、私たちの訴えや叫びを退けることは決してないことを覚え、祈り続けたい。神様はむしろ、私たちが執拗に祈り、訴え続けることを願っておられる。

しかし、このたとえは、単に祈りの大切さ、主なる神様を信頼し、執拗に祈ることの大切さを教えているだけではない。深い闇に閉ざされたこの時代に、私たちがどうあるべきなのか、そしてこの教会がどのようであるべきなのか、教会の使命と責任がどのようなものなのかを教えた、たとえなのではないか。今朝はそのことをしばらく考えてみたい。

 

このたとえの時間設定は真夜中だが、私たちを取り巻く事態も、今や真夜中とも言える深い闇で覆われているように思われてならない。その闇は深く、私たちの行くべき方向もなかなか見えない。なかなか希望を見いだしにくい時代を迎えているのではないか。

アメリカの新大統領が就任した。国際社会がどんなことになるか、多くの人がかたずをのんで見守っているのではないか。深い闇が世界を覆っているようにも思われる。

道徳の退廃も目を覆うばかりだ。

私たちの心も闇で覆われ、不安や緊張を覚えている人が少なくない。

たくさんの人が人生の真夜中で迷い、不安を覚え、戸惑っているのではないか。

先日NHKのテレビで「それでも生きていこう」という特別番組を見た。東日本大震災の後、五年経過して原発で各地に避難している人たちの中で自殺者が急増しているという報告だった。彼らの痛みを忘れてはならないと思った。様々な形で、深い人生の真夜中で、途方に暮れている人たちがいる。

 

しかし、どんな真夜中の闇も、叫び、戸をたたく音によって打ち破られる。教会は、そのような真夜中の不安と混乱の中で、世の光、地の塩としていのちの灯りをともすために、建てられている。真夜中にさまよい、旅する人が訪ねるべきいのちの家として教会は立っている。そこに私たち教会の使命があることを覚えたい。

 

旅人に三切れのパンを与えたいと、この人は三切れのパンを求めた。人生を旅する私たちも、三切れのパンが必要だ。

どんな人生にも意味があると確信できる信仰のパン

どんな時にも神は共にいらして下さり、道を開いて下さるという希望のパン

そして互いに励まし合い、赦し合う愛のパン、このいのちのパンである。

何があってもこの命のパンがあれば、「四方から苦しめられても行き詰らず、途方に暮れても失望せず、虐げられても見捨てられず、打ち倒されても滅ぼされない。」

人生を旅する私たちも、このいのちのパンを求め、さまようのではないか。そして、真夜中に三切れのパンを求め、叫び、教会の戸を叩く。

私たちの教会は、この期待に応えることができているのだろうか。正直に言えば、私自身大きな痛みを覚え、反省をしないわけにはいかない。いや許しを請わぬかけにはいかない。

 

み言葉は告げていた。「面倒をかけないでくれ。戸は閉めたし、子供たちもそばに寝ている」。友人の家の戸をたたいた時に受けた答えは、苛立ちの返答だった。

真夜中に叫び、教会の戸を叩いた時に、このような苛立ちの返答を耳にして、残念ながら失望した人もいるに違いない。もしかすると、如何にしばしばそのような失望を与えて来たかもしれない。教会はその必要に応えることができずに、人々はせっかく戸口まで足を運びながら、何も得ることができずに、むしろ失望感を募らせて、教会に背を向け立ち去ってしまう。そして、教会とは、このように無力なものだといった思いを抱かせてしまうことがあったかもしれない。

 

秋田にいた時のエピソード。30年前のことである。ある晩、一人の女性がお祈りしたい、と尋ねて来た。会堂に案内した。なかなか出て来ないので心配になり、会堂を覗いたところ、彼女は講壇にうずくまっていた。意識がもうろうとしている彼女に、呼びかけ、聴けば、すぐ近くの実家に戻っていた30代の女性で、睡眠薬を飲んだという。すぐに、救急車を呼び、近くの実家に連絡した。ご両親がすぐに駆けつけてくれた。幸い、命は取り留めたが、その半年後、悲劇が起きた。新聞に秋田駅前のホテルで親子心中、という見出し。不吉な衝撃を覚えて、この方の実家に連絡をしたところ、間違いなく本人だった。お子さんと心中を図った。二人のお子さんは助かったが、本人は残念ながら亡くなった。忘れることのできない痛みと悲しい出来事。

 

彼女は、ご主人が浮気をしたことに大きなショックを覚え、二人の子供を連れて実家に戻っていた。たまたま彼女に実家に配布した教会新聞を見て、教会に来てくれた。救いを求めて教会まで足を運んでくれた。彼女は、正に人生の真夜中に教会の戸を叩いて、いのちのパンを求めた。それは間違いなく、信仰と希望と愛のパンであった。しかし、私は何もできなかった。

 

私はこの出来事を忘れることができない。また、忘れてはならないと思っている。彼女が求めたいのちのパンを、もし提供することができていれば、このような事態にはならなかったのではないかと思われてならない。人生の真夜中にパンを求めて教会で叫び、戸を叩く旅人に、私たちはこの三つのパン、いのちのパンを差し出さなければならない。そのために、私たちはどれほど祈らなければならないだろうか。

 

み言葉は、旅人を迎えた人は、自分には分けてあげるものがないので、直ちに、パンのある友の家に向かった。私には、何もないと分かった時に、彼はパンを持っている友に、パンを分けて欲しいと訴えた。面倒をかけないでくれと言われても、訴え続けたことで、パンを手に入れた、と告げていた。

 

2000年7月に開催されたトロントでの世界総会の際の安息日学校の証

有名な雑誌社の副社長が体調を崩し入院した。入院中、ふと教会に行ってみたいと思った。何年も教会に行っていなかったので、昔彼女が所属していた教会に行った。華やかな交友の中にいることに慣れ、それを当然と思っていた彼女が教会に行った時、教会ではけんもほろろの扱いを受け、教会には二度と行くものかと悪い印象を持った。しかし、しばらく時間が経つ内に、また行ってみたいという思いが鎌首をもたげた。そこで入院していた病院の一番近くの教会に行ってみた。おそるおそる教会に行ってみると、同じ世代の女性が、まるで旧友にあったかのように、にこやかに迎えてくれ、一日エスコートしてくれた。とても慰められ、彼女は心が満たされた。それからその教会に毎週通うことにしたが、その教会がセブンスデーアドベンチスト教会だった。最初、安息日学校の聖書の学びも、説教もチンプンカンプンだった。しかし、自分をエスコートしてくれた姉妹との出会いを通して、いのちにパンに与ることができたという証。

 

だれが叩いているのか。

先ず、人生を旅して途方に暮れている人。思わぬことの成り行きの中で悩み苦しみ、不安を覚えている人。人生の様々な問題を抱えている人が叩いている。彼らにとって真夜中とは、人生の行き詰まりである。その行き詰まりの中で解決を求め、希望を求め、戸を叩いている。

面倒掛けないでくれと、苛立った応答を受けたことで失望を覚えながらも、み言葉は、しかし、執拗に訴え続けたと、記されている。このことは、今も尚、失望しながらも戸を叩き、訴え続けている人がいることを告げている。

教会は多くの人に失望を与えながらも、そして多くの人が教会の戸口まで足を運び、尚も主の祝福にあずかることができずにいながらも、それでも尚、教会の戸は叩かれている。

人生の不確かさに困惑し、日々の生活に失望し、戸を叩いている人に、教会は希望のパンを提供しなければならない。

また、様々な人間関係の中で味わう、葛藤や軋轢の中で味わう自責の念に苦しんでいる人に、ゆるしと愛のパンを提供しなければならない。

更に、年を重ね、人生の夕暮れにさしかかった多くの人に、永遠の命への信仰のパンを提供しなければならない。

 

しかし、彼らが求めているのが、私たちが生きていく上で欠かすことのできない、いのちのパンであるなら、私たち自身のもので与えることのできるものは、私たちには残念ながら何もない。だから、いただかなければならない。私たちを豊かに充たしてくださる方のところに行って、満たしてもらわない限り、与えることのできるものは何一つない。

 

「受けていないのならば、誰も与えることはできない。神の働きにおいて、人間は何も自ら始めることはできない。絶え間なく光り輝く聖所の燭台の黄金の灯皿に導くために金の油は天のみ使いによって金の管に移された。それは光を分け与えるために人々に永続的に伝えられる神の愛である。よき働きにおいて、真の心のこもった神への奉仕において再び輝きだすために、信仰によって神と一つとなるすべての者の心に、愛の金の油が無償であふれる。」TO BE LIKE JESUS P.261

 

真夜中、それは人生を旅する者にとっては、人生の行き詰まりを告げている。しかし、旅する者の求めに何とか応じようとした者にとって、真夜中とは、何とかしてあげたいという気持ちがあっても、材料を手に入れてパンを焼き、作るこのできない時間を意味していた。つまり、どんなに努力してみても、どうすることのできない現実を象徴している。

 

このたとえで、友の家に行ってパンを手に入れるまで戸を叩き続けた人は、自分の個人的な必要を求めていたのではない。他の人の幸福のために求めた。彼は、友を助け、祝福するために求めた。友を助けたいけど、自分には何もない。あったけれども、自分のは惜しんで他の人に求めているのではない。上げるものが何もない。いのちのパンは、努力すれば、私たちが精進すれば、パンを焼くことができ、与えることができるのではない。教会も同じである。

 

だから私たちはイエスのもとに行き、求めなければならない。何もないと思い知らされた時の、私たちの求めは自ずと真剣なものになるに違いない。

ドアを叩く。訪問伝道をしたことがあるか。ドアを叩き、ベルを押しても、どなたも出て来ないと、ほっとする、といった叩き方ではない。真剣に叩くのである。

 

「もし私どもがありのままの姿で、自分の力なさ頼りなさを感じて神の許にゆき、限りない知恵をもちたもう神にけんそんに信頼をもって私どもの必要を告げるをらば、万物をみそなわし、み旨とみ言葉をもってすべてを支配しておいでになる神は、私どもの叫びに耳を傾け、心に光を照したまいます。真心からの祈りによって、私どもは限りなき神のみ心に触れるのであります。その時、あがない主は愛とあわれみに満ちて私どもをながめておいでになるという特別な証拠が与えられなくても、それは事実であります。またかれのみ手の接触を実際には感じなくても、愛とあわれみにみちたやさしいみ手は、私どもの上に置かれているのであります」(キリストへの道頁132)。

 

「『もしわれわれが、受けるために信仰の手をさし出して、すべての力のみなもとであられる神のもとへ行くならば、われわれは、どんなに見込みのない事情の中にあっても、われわれの働きを支えられ、他人にいのちのパンを与えることができる』各時代の希望、中、頁114」。

 

教会がもし、互いに祈り合い、愛し合い、御心に適った歩みを始めるなら、私たちがそれぞれに私たち自身を真実に主に明け渡し、主が私たちの内にお住まい下さるなら、主は私たちを豊かに祝福し、信仰と希望と愛のパンを溢れるほどに充たしてくださる。そして求める旅人に、もれなく三切れのパンを差し出し、人々の魂に火をつけ、教会はその使命と責任を果たすことができるように、神は導いて下さる。