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メッセージ2017年1月1日

元旦礼拝 信仰と希望のまなざし

 神様にある平安の内に新しい年を迎えた。この新しい年がよい年となるように神様の祝福を祈りたい。

 

エレミヤ29:11 わたしは、あなたのために立てた計画をよく心に留めている、と主は言われる。それは平和の計画であって、災いの計画ではない。将来と希望を与えるものである。

 

このみ言葉は、主なる神様は、私たちそれぞれのために計画を立てておられる。そしてその計画は平和の計画であり、将来と希望を与える、という神様の約束の言葉だ。この約束を覚えて、私たちは、どんな祝福に与ることができるのか、どんな新しい出会いがあるのか、主にある希望をもってこの一年を歩みたい。その希望の内に歩む時、そこには新しい驚きと感動がある。神様の言葉を信頼し希望のまなざしをもって、この一年を歩むのと、不安な思いを覚えて歩むのでは、まったく異なる一年を過ごすことになるのではないか。願わくは、この神様の祝福の計画の約束を覚えて、この一年を歩みたい。

 

初心忘るべからず、という言葉がある。何か事に当たるとき、最初の志を忘れることがないようにと、私たちは自らを戒め、自らに言い聞かせる。

せっかく志をもって何かを始めても、いつの間にかこの志を忘れてしまうことがある。初心を忘れてしまうとき、おごりや高ぶりが鎌首をもたげ、過ちや的外れなことをしてしまうことがある。

だからこそ、この年の初めに、私たちは、神様の約束を、私たちの初心として、忘れないようにしたい。

神様が約束しておられる祝福、平和、希望を味わうために、どんなことがあっても、信仰と希望のまなざしを失わないようにしたい。この約束を味わう信仰と希望のまなざしを私たちが持っているときに、いつも喜び、すべてのことを感謝できるように、神様は私たちを導いて下さる。私たちの毎日を、神は輝かせて下さる。それはどんなに幸いなことか。どんなことがあっても、万事を神様は必ず益としてくださると、信頼できるからだ。何と有難いことか。

 

しかし、私たちのまなざしを惑わす出来事や思わぬことの成り行きは、少なからずあると思う。いやこの一年にも必ずある。だから、そのたびごとに、私たちはこの約束を思い起こしたい。

 

もちろん、どんな時にも、私たちの毎日を輝かせて生きることはたやすいことではない。ゲーテは不機嫌ほど罪深いことはない、と言っているが、何があっても不機嫌にならずに、いつも喜び、すべてを感謝し、また不安を覚えることなく、この一年を歩むことは容易なことではない。

 

何故なら、私たちの毎日の生活には思い通りにならないことがあり、様々な重荷があるからである。人間関係の重荷も私たちの毎日を悩ませるかもしれない。そして更に、過去の傷や未来に対する不安が絶えず私たちを悩ますからである。

 

 私たちのこれまでの歩みには、いつ思い出しても力が湧き出てくるようなこともあるし、喜びに心充たされる出来事もあった。

 昨年も、何度かバプテスマ式をさせていただいたが、独り立ちした秋田で、最初にバプテスマを決心してくださった方が与えられたとき、家内と抱き合い、飛び上がり、喜んだ。この時の経験は、その後も大きな励ましとなっている。希望が見出しにくい時に、神様が道を開いて下さった、私にとっては忘れることのできない経験である。

 

しかし、心を暗くする思いや困惑、あるいは愛憎の念を引き起こす出来事も少なからずある。 

更に、このことと勝るとも劣らずに私たちの心を悩ますのは、未来に対する思いわずらいである。思いわずらいは、私たちの生活を「もしこうなったらどうしよう」という心配でいっぱいにする。

 

「もしあの人が亡くなったらどうしよう」、「もし病気になったらどうしよう」、「もしお金が無くなったら、仕事が無くなったらどうしよう」。

 

 このような、様々な毎日の生活の重荷や過去の傷、そして多くの思いわずらいが私たちの心を占めてしまうと、今ここでの私たちの毎日を生き生きとしたものにすることはできない。

 

庭に咲く草花の美しさや道で出会う子供達の笑顔が見えなくなり、友の優しく励ましの嬉しい声も聞こえなくなる。何をやっていても落ち着きが無く、心に平安と喜びが消えてしまう。

 

そのようなとき、私たちは眠ることができない。食べることができない。誰かとあたたかく交わることができない。

 このように、現在抱える様々な重荷や過去の傷、そして、未来への不安や思いわずらいは、今この時の輝きを曇らす。

 しかし、だからこそ、私たちはこの約束のみ言葉を思い起こしたい。そして、様々な重荷を抱え、不安を覚える毎日の生活の中にも、神様は必ずや道を開いて下さると信頼する、信仰と希望のまなざしを取り戻したい。その時、私たちは前に向かうことができる。

なぜなら、神様が私たちのために立ててくださった計画は平和な計画で、災いの計画ではなく、将来と希望を与えるものだからである。

だから、今現在がどのようなものであっても、明日を見通すことのできる神様が、最もよきように私たちを導いて下さると受け止め、歩みたい。その時、そこに平安と感動が生まれる。

 

 私たちを取り巻く現在がどうであれ、私たちの過去がどうであれ、更に、私たちが向かわなければならない未来がどうであれ、平和の計画を立ててくださった神様が、万事を益として下さり、最も良きように導いて下さると信じ、踏み出すことができるなら、そこに新しい世界が始まるのである。新しい光が見えてくるのである。

 

 昨年12月、私は65歳になった。牧師になって36年。年末にそのための退職オリエンテーションをしていただいた。

つい先日、この働きに携わらせていただいたように思う。私が牧会に出たときに、岡藤先生から、子造り上手な東海林と紹介された言葉は、忘れることができない。しかし、いつの間にか、現役で最高齢になった。しかし、そのことが不思議でならない。

特に、何年もご指導いただいた歴代の名誉牧師の先生方がたくさんおられるこの教会では、その思いを強く感じる。いろんな経験をさせていただいて、この年を迎えさせていただいた。

19808月に天沼教会に牧師インターンとして働きを始めた。その半年後19814月に広島教会で、近藤先生のもとで牧師インターンの指導に与った。近藤先生からはいろんなことを教えていただいた。先生の説教にあこがれ、説教の質はその足元にも及ばないが、先生が説教の時に頭を振ることがあるが、私もいつの間にか頭を振っていて、家内からそこだけは近藤先生に近づいた、と指摘を受けたことがあった。

 

それから秋田教会、木更津教会、天沼教会、東日本教区、教団、そして千葉教会、そして亀甲山教会と導いていただいた。

 どちらの教会でもいろんな問題があり、苦悩もあったが、それ以上に主がめぐり合わせてくださったたくさんの方々との素晴らしい出会いと交わりがあった。そしてたくさんの祝福に満ちた体験をさせていただいた。

その経験から断言できることは、神様は確かに、私たちそれぞれのために立ててくださった計画があるということ、そして、私たちが考えている以上の祝福を備えていてくださっているということ。

 

神様は思えば、思ってもみない経験の中においてくださった。不思議な経験と出会いの歩みだった。そしてそれらは一つ一つ祝福だった。

 

エレミヤ29:11 わたしは、あなたのために立てた計画をよく心に留めている、と主は言われる。それは平和の計画であって、災いの計画ではない。将来と希望を与えるものである。

 

繰り返すが、主は、間違いなく、私たちのために立てた計画を心に留めておられ、それは平和の計画で災いの計画ではない。将来と希望を与えるものである。

しかし、もちろんその計画は私たちの都合のいいように定められた計画ではない。辛いこと、苦しいこと、思ってもいない試練の中に置かれることもある。

しかし、それらすべてを通して、主は最も確かな、揺らぐことのない平和と希望の根拠へと、この私たちを導いて下さると確信している。

 

 主を恐れることは知識の始めである。これこそ、私たちが生きていく上での、最も基本的で大切なことだと、聖書は告げている。

 神の国と神の議を求めなさい、そうすればほかの物はすべて添えて与えられる、とイエス様は約束してくださった。これこそ、私たちが心得ておくべき基本なのだと、聖書は告げている。

 そして、主は、私たちのために立てた計画を心に留めておられ、それは平和の計画で、災いの計画ではない。将来と希望をあたるものだと、聖書は告げているのである。

 

 このことこそ、私たちが、この一年歩んでいく上での基本的な心得、生きていく上で、忘れてはならない初心としてとらえたい。この初心を踏まえた歩みのもたらす豊かな祝福を、私たちは、希望のまなざしをもって味わいつつ、歩みたい。

 

 ニコデモがイエス様のもとに来て、「あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神が共におられるのでなければ、あなたのなさるようなしるしを、だれも行うことはできないからです。」と言った時、イエス様は「人は新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない」と言われた。

 

 

 つまり、私たちが神様を信じて生まれ変わり、万事を益としてくださる主を信頼し、希望のまなざしを持つことができたなら、そこがどこであれ、そこに神の国を見る、私たちの経験がどのようなものであれ、そこに神の恵みを見て取ることができると、言われた。

 

 ともすると、私たちの毎日は、昨日までこうだったんだから、これからもこうであるに違いない。昨日までなかったことはこれからもない。昨年までなかったことは、今年もない、と考えることが多いのではないか。しかし、昨日までなかったからと言って、これからもないとは限らない。

 

神を信じて歩むということは、今までは、確かになかったかもしれないが、しかし神にあるなら起こりうると、信仰と希望のまなざしを通して、物事をとらえることなのである。神様がかかわってくださるなら、その御手を伸べてくださるなら、ことは起こり得ると、受け止めることなのである。

 

マルコによる福音書の2章に、中風を患っている人を、イエス様がおられた家に、四人の人が運んできた話が記されている。何とかして直してもらいたいと願ったこの四人の人たちは、汗を流しながらイエス様のおられたところまでこの人を運んできた。その時イエス様は、その家に集まったたくさんの人に、神の御心について話しておられた。四人は、通してくれ、病人がいるんだと叫んだが、誰も通してくれず、仕方なく、彼らはその家に上がり、屋根をはいだ。そして、そこからこの中風の人をつり下ろしはじめた。その場に居合わせた人たちは誰もが、びっくりした。まさか、屋根がはがされ、そこから病人が釣り降ろされるとは思ってもいなかったからである。

 

その時、イエス様は、そこまでして中風の友の病いを癒してもらいたいと思った、彼らの信仰を見て、中風の者に、「子よ、あなたの罪は許された」と言われた。そのイエス様の言葉を聞いた時、神以外に罪を赦すことのできる人はいないと考えていた人たちは、「それは神への冒涜だ」と驚いた。そこでイエス様は、歩くことのできなかったその中風の人を立ち上がらせることで、イエス様が罪をお許しになることの、おできになる方であることを知らしめられた。イエス様がその御手をお伸べになったことで、この人の罪は許され、中風は癒され、彼は立ち上がることができたのである。その時、その場に居合わせた人たちは、あまりのことに驚き、神様をあがめて、「こんな事は、まだ一度も見たことがない」と言ったのである。

 

神様を信じて、神様と共に歩む信仰の歩みは、正に、「こんな事は、まだ一度も見たことがない」と、神様の祝福を味わい、神様を崇める歩みである。神様が係わって下さらない限り起こり得ない恵みの業を味わい、歩むことである。人間的に考えてみるなら決して起こり得ないことも、神様がその御手を伸べて下さるときに、起こりうることを味わい、驚き、賛美する歩みである。誠に不思議に満ちた恵みの世界、それがWONDERFUL. 不思議なことが一杯、という恵みの豊かさを味わう歩みである。

 

 この一年、私たちは、私たちのために、神様が立ててくださった平和な計画、将来と希望を与える祝福を味わうことができるように、神様から離れることなく、信仰と希望のまなざしをもって歩みたい。その初心を忘れることなく歩みたい。そのときに、必ずや、主にある喜び、平安と希望の道が開かれていくのである。