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メッセージ2017年3月11日

「石膏の壺を壊して」 2

 

マルコ14:3-9 「イエスがべタニアでらい病の人シモンの家にいて、食事の席に着いておられたとき、一人の女が、純粋で非常に高価なナルドの香油の入った石膏の壺を持ってきて、それを壊し、香油をイエスの頭に注ぎかけた。そこにいた人の何人かが、憤慨して互いに言った。『なぜ、コンナンイ香油を無駄使いしたのか。この香油は三百デナリオン以上に売って、貧しい人々に施すことができたのに。』そして、彼女を厳しくとがめた。イエスは言われた。『するままにさせておきなさい。なぜ、この人を困らせるのか。わたしに良いことをしてくれたのだ。貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるから、したいときに良いことをしてやれる。しかし、わたしはいつも一緒にいるわけではない。この人はできるかぎりのことをした。つまり、前もってわたしの体に香油を注ぎ、埋葬の準備をしてくれた。はっきり言っておく。世界中どこでも、福音が宣べ伝えられる所では、この人のしたことも記念として語り伝えられるだろう。』」

 

この御言葉は何度も学んだみ言葉。今一度学んでみたい。

ハンセン氏の病を癒してもらったシモンがその感謝の思いを現したく、イエス様を招き食事の席に着いていた。その時、一人の女の人が、3百デナリオンの高価な香油の入った壺を割って、イエス様の頭に注いだ。その場に居合わせた人々は、びっくりした。会食の席が騒然となったことは想像に難くない。また、この香油は、貧しい人に施すことができる高価なものであった。人々は彼女を厳しくとがめた。

 

彼女はどうしてこんなことをしたのか。この物語は何を告げているのか、今一度考えてみたい。

 

時々、私たちの周りでも突拍子もない行動を見聞きすることがある。大阪では、阪神タイガースが優勝したりすると、橋の欄干から飛び込んだりする人がある。

私たちの行動は、私たちの心の内を表現するものだ。

 

さて、イエス眞の頭に高価な香油を注いだこの女の人はどんな思いであったか。それは悲しみか、痛みか、怒りか、それとも寂しさか。

彼女の心を占めていた感情はどんなものであった。

それは、それこそ爆発するような嬉しさであり、居ても立っても居られないような喜びであった。あふれる感謝の思いであった。

 

どうしてそんな思いを彼女は覚えたのか。

それは彼女がイエス様に出会ったからの他ならない。人を分け隔てなく、あるがままに受け入れて下さったイエス様に、彼女は出会ったからに他ならない。彼女は、自分でもどうすることもできない罪の弱さを抱えていた。それは男の人との関係だったかもしれない。金銭的な弱さだったかもしれない。彼女の抱えていた弱さはともかくも、次第に、彼女は町の人から蔑まれ、誰からも相手にしてもらえず、寂しくしていた。孤独であった。

 

そんな悲しく寂しい思いを抱いて毎日を過ごしていた彼女の前に現れたのがイエス様だった。イエス様は彼女を蔑むことなく、彼女の弱さや悲しさをあるがまま受け止め、傍らに寄り添ってくださった。自分を、ひとりの人格として、一人の生きた人間として受け止めてくださった。それは彼女にとって、たとえようのないほど大きな喜びであった。飛び上がるほどの嬉しさであった。

 

インドでハンセン氏病のために長い間献身されたポール・ブランドという博士がいる。彼がこんな体験をされた。

ある聡明な、ハンセン病を患った若いインドの男性がいた。診察の途中でブランド博士が彼の肩に手を置き、通訳を介して、これから先の治療について話した時、博士が驚いたことに、男性は体を震わせながら、押し殺した声で泣き出した。「私は何か悪いことを言ったのか」。ブランド博士は通訳に尋ねた。通訳の女性は、懸命にタミール語で質問し、博士に伝えた。「いいえ先生、彼は、あなたが彼の肩に手をまわしたので泣いているのだと言っています。ここに来るまでの長い間、彼に触った人は一人もいなかったそうです。」

 

通常の社会生活の中で、肩に手を置いてもらっただけで、これほどの感情に襲われることはない。しかし、ハンセン氏病を患った人たちは、このような思いを抱えながら歩んでおられる。

同じように、この女の人も、誰からも相手にしてもらえず、自分でもどうすることもできずに、苦しんでいた。そんな彼女を、イエス様はひとりの人格としてご覧になった。それは彼女の心を満たすものであった。それが彼女に、壺を割り、香油を注ぐ行為へと駆り立てたものだった。

 

ところで、その行為に対して、人々はぎょっとして、なぜこんなっことをしたのかととがめた。そのことに、イエス様はするままにさせておきなさい、と言われた。そして、「わたしに良いことをした。できる限りのことをした」とあたたかくかばって下さった。

 

ところが、彼女のこの行為こそ、イエス様に「わたしに良いことをしてくれた。できる限りのことをしてくれた」と言わしめたこの行為こそ、実は、イエス様に従う私たち一人ひとりに求められているものではないか。イエス様への信仰告白とは、正に、このイエス様に従うことに他ならない。私たち自身の、それぞれの大事な壺を割って香油を注ぎ、できる限りのことをすることに他ならないのではないか。

 

しかし、私たちはなかなか壺を割ることができない。自分自身の生き方や価値観、時には富や地位と、イエス様とを天秤に掛け、自分を砕くことに、強いを是正 ためらいや迷いを覚えることがあったし、現に今でもあるのではないか。誰かの潔く壺を割るという行為を見て、「なるほど、それは素晴らしい。しかし、そこまではできない。しなくてもいいのではないか」と思うのではないか。

 

そんな私たちに、この女の姿は、いつも新鮮なのである。キリスト者であるとは、そもそもどういうことなのか、どのように生きることなのか、ということを改めて告げている。彼女はイエス様に出会って、壺を割った。そして麗しい香りがその部屋中に満ちていった。このイエス様への愛こそが、彼女にこの壺を割り、香油を注ぐという行為へと導いた。

 

40年前、私が、「牧師になりたい」と母に告げた時、現在92歳になる母は大きなショックを受けた。それは正に青天の霹靂であったと思う。教会生活を全く知らない母にとって、牧師というものがどのようなものか、見当もつかなかったに違いない。全く予想もしていないことであった。母の与り知らない遠い世界に、息子が行ってしまう、そんな寂しさと悲しみ、そして憤りを覚え、母は何故キリスト教なのか、何故牧師なのか、何故今の仕事を続けないのか、と戸惑い、涙ながらに叱りつけた母の言葉が今でも耳に残っている。

 

キリスト者になることは、もちろん牧師になることではない。牧師になる、ならないということは、神の計らいである。

私も、牧師生活37年間、何より神様に導いていただき、健康が支えられたこと、たくさんの方々と出会い交わりに与ったこと、心から感謝。オーストラリアでは、牧師としてその働きを全うする人は、四分の一ということ。

それはともかく、問題は私たちが壺を割ること。では壺を割るとは、さしずめどういうことなのか。いや、そもそも、壺とは何だろうか。

 

この「壺」、それは彼女にとって大事なものであった。この女の人が誰なのかについては、いくつかの説があるが、ある説によれば、彼女は遊女であった。当時パレスチナの遊女は香油の入った石膏の壺を丁度胸の下に来るように首からひもでぶら下げて、身体を香水で漂わせた。そしてその香水で客を引き寄せていた。いわばその石膏の壺は遊女の大事な商売道具であった。しかし、その壺を割り、香水をイエス様に頭に注いだ。もはや、その壺は必要でなくなった。なぜなら、彼女はイエスに出会い、罪の世界から離れる決心をしたから。

 

つまり、壺を割る、それは私たちが大事にしているもの、それがどんなものであれ、それを明け渡すことである。より価値あるもののために、それを積極的に砕くことに他ならない。

パウロは告げている。「しかし、わたしにとって益であったこれらのものを、キリストのゆえに損と思うようになった。わたしは、更に進んで、わたしの主キリストイエスを知る知識の絶大な価値のゆえに、一切のものを損と思っている」ピリピ3:7,8

 

私の母にとって見れば、私が会社を辞めて、(清水さんのご主人は会社の後輩になる方であるとこの教会に来て知った。不思議なご縁である)牧師になろうとすることは、とんでもないことであった。

さしずめ、この女の人が高価な香油の壺を割った時に、そこにいたある人々が感じたように、「何のためにそんなことをするのか、頭を冷やせ」と考えた。しかし、私には、そうしたいという喜びがあった。そのように踏み出したいという喜びがあった。

 

何のために生きるのか、人生にはどんな意味があるのか。どこに真実があるのか。何かいいことないかなと、どのように生きることが人として本来なのか、私は探していた。そのことを求めていた。そのような私にとってイエスとの出会いは、自分が求めていたものは、この方だったのだと知った時、本当に心が満たされる経験であり、貴重な出会いであった。新橋の夜。

 

今世界は混乱している。何だか世界は緊張をはらんでいる。真の平和が求められている。小学生の証。

2003年2月イラク・フセインとの戦いを前にして、国連ではイラク攻勢をめぐる攻防が激しかった。当時、仏の外相だったドビルパンが次のように発言した。「国連という殿堂において、我々は理想と良心の守護者でありたい。我々の責任と名誉にかけて平和的な武装解除を優先すべきだ。歴史と理想を武器に戦うべきだ」。期せずして拍手が起こり、しばらく鳴りやまなかった。極めて珍しいことであった。

 

理想が改めて示された時、期せずして拍手が起きた。人として、国としてどのように対応することが、本来なのか、その理想と良心が示されたとき、期せずして拍手が起きた。本来忘れてはならないものが示されたとき、本当にそうだと、深くうなずいたという。このことは、実は誰もが理想を求めていること、いや理想は示される必要があることを物語ってはいないか。

 

私もまた、どのように生きるのが本来なのか、見上げるべき人としての本来のあり方を求めていた。イエス様は、仕えられるためにではなく、仕えるためにいらしてくださった。そしてこの方が、私たちのために天から降りて来て下さった。その意味は、天の神様がまず最初に壺を割ってくださり、御子キリストという高価な香油を、人のイエスとして誕生させてくださった。そしてそれは私たちの身代わりとなり、救いを与えてくださるためであった。そのことを知った時に、私は、このイエス様に、私が求めていた理想の、人としての本来の姿を見出したように私は思えた。

 

丁度マタイ13章に出てくるたとえ、あの畑に隠してある宝を見つけた人のようなものであった。彼は宝を見つけたときに、それを隠しておき、喜びのあまり、持ち物を皆売り払って、その畑を買った。それほどに彼にとってその宝は貴重なものであった。しかし、彼の家族にとっては、持ち物を皆売り払うという行為はとんでもないことに思われた。

 

しかし彼は宝を知ったのである。それは何ものにもまして彼にとって貴重なものであった。私にとって、イエス様との出会いは、そのような経験であった。生きていく上での中心が何であるのかを自覚することが出来たという点で、大きな喜びであり、祝福であった。このイエス様に従っていきたい。このイエス様と共に歩んでいきたい。そう思われてならなかった。イエス様に出会う時、人はそのようにして、壺を割り、持ち物を売るのである。

 

では、どのようにして私たちはイエス様に出会うのか。聖書には「人の子が来たのは失われた者を尋ねだし救うためである」ルカ19:10と記されている。この御言葉は、人の子が出会うのは失われた者と出会うと告げている。つまり、私たちがイエス様に出会うのは、私たちが失われた者としてなのである。失われた者である私たちにイエス様は出会って下さる。

 

では失われた者とはどのような者なのか。どのような姿を指しているのか。それは、どのように生きるのか、何のために生きるのか、人生の意味や目的が分からなくなっている者かもしれない。

あるいはまた、すべては順調なようでいて、しかし何かしら心の張りがないということもある。かつて村上龍が言っていた。「日本にはすべてが揃っている。でも希望だけがない」。希望を見失っている姿なのかもしれない。

更には、何不気味な力に捕らわれ、自分でもどうすることもできない、自分でも何をしているか分からなくなっている者かもしれない。

私は正にそんな道をさまよう失われた一人だった。

しかし、どのような事態の中で迷い、悩み、さまよっているにしても、そのような失われた者にイエス様は出会って下さる。そのような私たちにイエス様は出会って下さる。

そこで私たちに求められるのは、正直であること。自分をごまかさないこと、エデンの園でアダムとエバは神との関係を歪めた時に何をしたか、いちじくの葉で裸を覆い始めた。私たちも様々ないちじくの葉で私たち自身を覆っている。人の目を気にして、自分をよく見せたいために葉で覆う。しかし、そのように様々な葉で覆っている内に、自分の裸の姿を見失うことはないだろうか。私たちは時に、クリスチャンとか、SDAとか、信仰という葉でさえ、自らを覆っていることがある。私たちは先ず、そのような私たち自身を覆う葉を取り除いて、正直に、ごまかさずに自分を見つめなければならない。

 

ところで、そこに見えてくる自分とはどのような姿をしているのか、それこそ正に、愛したくても愛せない、壺を割りたくても割れない、もしかすると、割りたくない自分ではないか。

自分に尚こだわり、自分の思いを優先させ、自分の正しさにしがみつく罪人としての私たちである。そして、このことこそ、正に失われた私たちの姿なのだ。「わたしは、なんというみじめな人間なのだろう。だれが、この死のからだから、わたしを救ってくれるだろうか。わたしたちの主イエスキリストによって、神は感謝すべきかな」ロマ7:24,25.

 

しかし、そのような私たちに主イエス様は出会って下さり、そこでこそ私たちは赦しの神に出会うのである。私たちの身代わりとなって下さったイエス・キリストの愛を知るのである。

つまり、様々に失われた私たちのために、何と、実は神が、もったいなくも、先ず、最初に壺を割って下さった。天から降りて来て下さったことを知るのである。私たちの神は、失われた私たちのために壺を割って下さったお方なのだ。これが福音なのである。

 

この女性は、自分ではどうすることもできない惨めな自分の姿に苦しんでいた。しかし、そんな自分を、あるがままに顧みていてくださる神の愛を、神がこのような愛の方であることを、イエスに出会ったことで知ったのである。このイエス様に出会ったことで、彼女は壺を割ったのである。

 

「キリストの品性の比類のない美しさが彼女の魂を満たしたのであった。あの香油は、ささげた者の心の象徴であった。それは天の流れを溢れるまで受け入れた愛が外に向かって表現されたのであった。」各時代の希望中頁389、希望への光頁966

 

そして私たちも、それぞれの壺を割ることが出来るように神は私たちを改めて導いて下さるのではないか。そして愛のかぐわしい香りを放つことが出来るように導いて下さるのである。

 

「大草原の小さな家」メアリ-の眼鏡

彼女は秀才で、学校の成績が良かった。ところが急に成績が落ちてきた。何故か。視力が衰え、黒板の字が読めなくなったのが原因ということがある日漸く分かった。貧しい農民の父にとって、眼鏡ひとつ買うのも容易ではなかった。しかし娘のために町へ行って眼鏡を手に入れた。メアリ-は視力を取り戻し、世界が新しく見えて、生まれ変わったようだと感激する。

 

ところが勉強ができるようになったのはいいが、クラスの生徒たちは彼女をからかった。特に答えたのは、眼鏡をかけていると、担任の先生のように、いつまでも結婚できないよ、という言葉だった。実際、担任の先生には結婚のうわさはない。とうとう彼女は自分で眼鏡を隠して、父には失くしたと嘘をつく。

 

ところが、試験の前日になって、その先生には許婚の素敵な男性がいることが分かった。それで気を取り直したメアリーは、眼鏡をかけて試験を受け見事一番になった。妹のローラは喜んでそのことを家族に知らせるが、喜びいさんでいいはずの当の本人は、ひどく打ちひしがれて父のところに行く。その娘の姿にいぶかしく感じている父に彼女は、自分の犯した罪を告白する。父が貧しい暮らしの中で買ってくれた眼鏡を隠し、嘘をついていたことが、どんなに深い罪であるかを告白した。涙ながらに自分の罪を告白する娘を、父は「成績で一番を取ることも大切なことだけれども、自分の過ちを勇気を持って告白することはより大切だ」と話し、喜んで彼女を許す。父に許された時、メアリーは愛されていることが、どういうことなのかが分かり、今まで以上に父を愛した。

 

メアリーはどんなに嬉しかったことだろう。メアリーの心を満たしたのは、父の愛であり、そして父への愛であった。彼女はできる限りの良いことをしたいと思った。私たちも毎日の信仰の歩みの中で、イエス様がどんなに尊い方なのかを想い起し、このナルドの香油の出来事を覚えていたい。日毎に、このイエス様に出会い、心の中にある「壺」を神様の光の中で砕いていただき、豊かな愛の人として歩みたい。私たちの罪がどのようなものであれ、ごまかさずにそれを告白する時に、主は喜んで赦し受け入れて下さる。その主から目を離さずに歩みたい。