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メッセージ2016年12月31日

命の泉はあなたにあり

挨拶 一年最期の安息日。洗足聖餐式を通して、み前に献身を新たにしたい。

 

この一年どんな一年であったか。国の内外で様々なことがあった。終末の様相がますます色濃くなっている。そのような中で数々の恵みと守りがあった。出会いがあり、交わりがあった。しかし、また一方では、思わぬことの成り行きの中で戸惑うこと、不安に襲われたこと、痛みや悲しみを覚えたこともあった。そしてまた、私たち自身の弱さのために犯した過ちがあったことも認めなければならない。いろんなことのあった一年であったが、改めて、数えてみたい、主の恵み。ともあれ、万事を益としてくださる神の憐れみの内に年の瀬を迎えることができたことを感謝したい。

 

さて、この一年の終わりに私たちは、忘れてはならない、思い起こすべき数々のことがあると思うが、今改めて思い起こすべき最大のことは、何だろう。

神の贖罪の愛の業である。

み子が私たちのために人の子となられ、私たちの罪をあがない、私たちの罪の身代わりとなって、十字架にお掛になっていのちの道を開いて下さった。そして、その主が三日の後に蘇られ、今天の聖所で私たちの執り成しをされ、間もなくおいでになる。

この恵みの業を思い起こさなければならない。今朝は聖餐式だが、この式を通して、今一度この恵みと憐れみを思い起こし、献身を新たにしたい。

 

「だから、あなたがたは、このパンを食べこの杯を飲むごとに、主が来られるときまで、主の死を告げ知らせるのです。」コリント第一の手紙11章26節

 

聖餐式に、私たちは、イエス様のおからだを象徴するパンをいただく。また、イエス様が流された血潮を象徴するブドウ汁をいただく。このことを通して、十字架で亡くなられたイエス様を思い起こしたい。

イエス様がどのような思いで自らを捧げてくださったのか。

どれほどの苦しみと痛みを伴うものであったか。

それはどんなに深い私たちへの痛みを伴う愛であったことか。そのイエス様の死こそ、私たちの罪をあがなう死であり、生贄として捧げられたものであることを、私たちは改めて文字通り確認したい。神がわたしたちを無条件に愛しておられることを確認したい。

 

「神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました。わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。」ヨハネの手紙第一4章9節10節

 

聖餐式は、神が私たちの犠牲となられたこと、それは神の私たちを愛し、お救いくださろうとする神の深く強い意志であることを告げている。愛されるために何をしなければならないのではない。神が愛のお方であるから私たちを顧みていて下さる。

 

また、この聖餐式を通して、十字架のイエス様の死こそ、私たちの救いの根拠であることを確認したい。

私たちが救いに与るのは、私たちが完全であるからではなく、一生懸命に生きているからではなく、愛の人として生きているからでもなく、私たちをあるがままに愛し、掛け替えのない存在として顧みてくださったからこそ、ご自身を犠牲とされ、御子は十字架に自らを捧げられた。この十字架のイエス様の死こそが私たちの救いの根拠である。私たちの神への献身は、救われるためではなく、救いに与ることのできた感謝の応答である。

 

このことを改めて思い起こしたい。私たちは何度となくこのことを学んでいる。救いは私たちの業ではなく、神の恵みであることを。それほどに、わたしたちを愛し、自ら犠牲となって救いの道を開いて下さったからこそ、私たちはそのイエス様に習いたい、少しでも神のみ心を歩んでいきたいと願っている。

 

「すなわち、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です。そこには何らの差別もありません。人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。」ローマ3章22節から24節

聖餐式は、救いの根拠はイエス様の贖いの業によることを想起したい。

 

また、聖餐式は、わたしたちの希望の源がどこにあるのか、そのことを改めて思い起こすべき儀式。この一年、やり切れないことが一杯あった。シリアの問題もどこに解決策を見出すことができるのか。

そのような中で希望はどこにあるのか。聖餐式は、その希望がどこにあるのか、そのことを告げている。詩編36:10 命の泉はあなたにあり、あなたの光に、私たちは光を見る。

聖餐式は、再臨の朝まで繰り返し守られるべきもの。既に勝利された、インマヌエルの神である主は、いついかなる時にも私たちと共にいて下さる。しかし、再臨の朝まで、私たちの人生には尚、苦難がある。私たちを取り巻く現実は、尚厳しく、不条理に満ちている。まるで神がいないかのような、希望を見いだしにくい現実がある。しかし、それにもかかわらず、いやそれだからこそ、聖餐式は不条理な現実の中に生きねばならない私たちが、繰り返し希望を見いだすために守るべき儀式。それは私たちが希望を失わないため。

 

「これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」ヨハネ16章33節

 

「そのとき、わたしは玉座から語りかける大きな声を聞いた。『見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである。』」ヨハネ黙示録21章3節4節

 

「それゆえ、あなたがたは、心から喜んでいるのです。今しばらくの間、いろいろな試練に悩まねばならないかもしれませんが、あなたがたの信仰は、その試練によって本物と証明され、火で精錬されながらも朽ちる他ない金よりはるかに尊くて、イエス・キリストが現われるときには、称賛と光栄と誉とをもたらすのです。あなたがたは、キリストを見たことがないのに愛し、今見なくても信じており、言葉では言い尽くせないすばらしい喜びに満ちあふれています。それは、あなたがたが信仰の実りとして魂の救いを受けているからです。」ペトロの手紙第一1章6節から9節

 

「どんな時にも、どんな場所でも、どんな悲しみにも、どんな苦しみにも、前途が暗く将来が困難に見えて無力と孤独を感じるときにも、信仰の祈りに答えて、助け主が送られる。この世のすべての友から離れるような事情が起こるかもしれない。しかし、どんな事情もどんな距離も、我々を天の助け主から離れさせることはできない。どこにいようとも、どこへ行くとも、主はいつもわれわれの右にあって、力づけ、助け、支え、励まされる。」各時代の希望下頁154

 

私たちを取り巻く闇がどんなに深くても、夜は間もなく明ける。聖餐式は私たちの希望の根拠がどこにあるのか、そのことを確認するために守るべき儀式。

「聖餐式は、キリストの死の結果達成された大いなる救済を記念するために与えられたのであった。主が力と栄光の内に再びおいでになるまで、この儀式は守られる。それは、われわれのためのキリストの大いなる御業が、われわれの心の内に生き続けるための手段である。」希望への光頁 1018、各時代の希望下頁130

 

そして最後に聖餐式は、この恵みに与る私たち一人ひとりが、信仰共同体の一員であることを示している。一致と分散のシンボルである。

 

私たちは、私たちのために捧げられたイエス様の体を象徴するパンをいただき、流された血潮を象徴するブドウ汁をいただく。それは、イエス様のお体を裂いて食べるが、もともとイエス様のお体を象徴している。同じように、ブドウ汁はイエス様の血潮。これをいただくことは、私たちが兄弟姉妹でありひとつであること。しかし、いまその私たち一人ひとりが、それぞれの役割と使命を果たすべく遣わされていく。一致し、分散していく中で御業がなされ、教会はその使命を果たしていく。

 

「あなたがたはキリストの体であり、また、一人ひとりはその部分です。」コリント第一の手紙12章27節

 

「キリストにより、体全体は、あらゆる節々が補い合うことによってしっかり組み合わされ、結び合わされ、おのおのの部分は分に応じて働いて体を成長させ、自ら愛によって造り上げられてゆくのです。」エペソ4章16節