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La foret 5月号

「かえって自分を無にして」     亀甲山教会牧師 平賀和弘

 イエス様は、わたしたちと共におられます(マタイによる福音書1章23節)。わたしたちもイエス様のように、周りの人たちと共にいることができたら、どんなに素晴らしいかと思います。しかし、それは難しいことなのかもしれません。
 今期のガイドの中に、次の質問がありました。「友人から次のような質問をされたら、どう答えますか。『もし神が私を愛しておられるのなら、なぜ私はこんなつらい目に遭っているのでしょうか。』」(『安息日学校聖書研究ガイド』2024年2期、17ページ)。あなたは、どう答えられるでしょうか。
わたしたちは、意識的、無意識的に自分の持っている価値観によって相手を批判し、裁く傾向があります。特にクリスチャンはその傾向が強いのかもしれません。聖書が示す高い倫理観、価値観をもち、それに従うことを求めているからです。ですから、もし、相手の考えや発言が、聖書の価値観にそぐわず、間違ったものであると思えるような場合、「それは違います。」と言って相手の間違いを否定したり、「讃美歌を歌ったり、祈ったりしたら、そんな時でも神様への信仰が強められますよ。」とアドバイスしたりすることが起こります。また、口では否定しなくても心の中では強い拒否感を覚えて、一致や共感などとても出来ないということも起こります。他者と共にいることができないのです。
先程の質問に答えて、ある方が次のように言われました。「わたしは、そんなとき、神様を弁護しないようにします。『そうなんですね。』と、うなずきたいと思います」。イエス様のように共にいることを願って、そう答えられたのです。
 聖書は、こう語ります。「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。」(フィリピの信徒への手紙2章6、7節)。神の子は、かえって自分を無にして、人に仕えられました。神様を弁護せず、自分を無にして、相手の立場に立ち、打ち明け話にうなずくことができたら、かえってイエス様の愛を証できるのかもしれません。
 聖書は、共におられるイエス様を知って、孤独から解放され、他者と共にいることができるようになったザアカイの話を伝えています(ルカによる福音書19章)。わたしたちも、イエス様を知り、共にいることができる、愛する人になりたいと思います。