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Laforet 4月号

「神様の自己紹介」 亀甲山教会牧師 平賀和弘
 出エジプト記には、自己紹介をされる神様のお姿が記されています。
 神様は、モーセに言われました。「わたしは、エジプトにいるわたしの民の苦しみをつぶさに見、彼らの叫び声を聞き、その痛みを知った。それゆえ、わたしは降って行き、エジプト人の手から彼らを救い出す」(出エジプト3:7−8)。モーセは、ついに神様が天から降って来られイスラエルの民を救ってくださると聞いて嬉しくなったことでしょう。
 しかし、神様は、続けて、はっきりと宣言するようにモーセに言われました。「今、行きなさい。わたしはあなたをファラオのもとに遣わす。わが民イスラエルの人々をエジプトから連れ出すのだ」。神様は、モーセをご自分の働き人として召されるのです。
 モーセは、驚き、恐れ、しりごみしました。「とんでもありません。昔エジプトに住んでいたと言っても40年前のことです。働くには歳をとりすぎましたし、エジプトの王から命を狙われてここまで逃げてきたのです。わたしは、羊飼いですし、もっとふさわしい人がいるはずです。天使ではだめですか」と、思いがけない神様の命令にモーセは、戸惑い、神様の召しを拒むのです。
 モーセは、神様に「わたしは何者なのでしょうか」と尋ねました。モーセは、この時、深く悩んだに違いありません。羊飼いとして働いている時には悩みませんでした。しかし、今、自分の能力を超える課題に直面し、一体自分に何ができるのか。自分の存在の意義や生きる意味を問うのです。
 神様は、モーセに「あなたは、〇〇ですよ」とは答えられせんでした。「わたしは必ずあなたと共にいる」と約束されます。すると、モーセは、では「イスラエルの人たちから、『その名は一体何か』と問われたら、何と答えるべきでしょうか」と、「神様、あなたの名前を教えてください」と尋ねました。
 そこで、神様は自己紹介をなさいました。「わたしはある。わたしはあるという者だ」(出エジプト3:14)。
 この「ある」という言葉は、ただ「存在する」という意味ではなく、「主体的な意志」を持つ言葉です。神様のご意志とは、イスラエルの民をエジプトの奴隷から解放し約束の地へと導くことであり、全人類を救うことです。神様は、過去、現在、未来にわたってわたしたちを救う意志を持ち続けられ、実際に行動されるお方なのです。その神様が、わたしたちと共にいてくださいます。これほど頼もしいことはありません。