「なぜ怖がるのか」 亀甲山キリスト教会牧師 小林勝
マルコ4章に「種を蒔く人」のたとえが書かれています。たとえの中である種は道端に落ちます、他の種は石だらけで土の少ない所や茨のなかに落ち実を結べません。良い土地に落ちた種だけが、育ち実を結びます。
イエス様の説明によると、このたとえの中の種は神様の言葉で、種は落ちたのはなく蒔かれたことがわかります。そして、種が蒔かれたそれぞれの場所は人であり心です。興味深いことに実を結ぶ人と結ばない人の心に共通していることは、み言葉を「聞く」という点です。しかし、聞くだけだとサタンが来て、み言葉を奪い去ります。気くだけだと「思い煩いや富の誘惑、その他の欲望」が成長を妨げてしまいます。実を結ぶ人たちはみ言葉を聞いて受け入れる人ですが、同じく聞いて喜んで受け入れるのですが、み言葉のために患難や迫害に合うとつまずいてしまう人たちがいます。実を結ぶ人たちと結べない人たちとの違いはいったい何なのでしょうか。
イエス様はたとえの意味を説明するにあたり、「このたとえが分からないのか。ではどうしてほかのたとえが理解できるだろうか」と言っておられるので、違いを理解することは重要なことです。4章を読むと後半にこのたとえを語られた日の夕方、弟子達と船で向こう岸に向かわれたことが記されています。しかし、舟が激しい突風にあい舟は水浸しになり、弟子たちはイエス様が一緒におられたのに恐れ助けを求めました。イエス様は「黙れ、静まれ」と風を叱り風はやみました。その時、イエス様は弟子たちに「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか。」と優しく問いかけました。
わたし達は人生の歩みにおいて、この世の煩いや富の誘惑、その他いろいろな欲望、患難や迫害を経験しない人はいません。神様の言葉の約束を聞き、受け入れるだけではつまずいてしまいます。イエス様が一緒にいてくださることを信じ、従う人たちが30倍、60撥、100倍の実を結ぶと教えているのです。イエス様の言葉を聞き、受け入れ、どんな時でも信じ、従うものでありたいと思います。