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LAFORET 2017年3月

帰るべき家

「そこで立って、父のところへ出かけた。まだ遠く離れていたのに、父は彼をみとめ、哀れに思って走り寄り、その首を抱いて接吻した」ルカによる福音書15章20節。

昨年の11月、1年半年振りに実家に帰りました。92才の母がお煮しめや味噌おにぎりを作って待っていてくれました。私の実家は福島県と宮城県の県境にありますので、帰ろうと思えばいつでも帰ることができます。しかし、忙しさにかまけて滅多に帰ることなく今日まで来てしまいました。人生の終わりに備えて、少しずつ身辺整理をしている様子の母のことを思うと、親不孝な息子だとつくづく思わされます。

ヘンリー・ナーウェンの著書「今日のパン、明日の糧」の瞑想の言葉に、「一生の旅」という、次のような内容の文章がありました。「家に帰っていくことは、生涯をかけての旅です。私たちには、放蕩に道を踏み外したり、憤ったままそこに留まり続ける傾向があります。知らぬ間に想像の中で欲望のとりこになっていたり、怒りに満ちた復讐心にかられていたりして道に迷っています。夜見る夢や白昼夢は、私たちが道に迷ったことをしばしば気づかせてくれます。」

ナーウェンが言う「家」とは、この世の実家ではなく、真に帰るべき家、いわば父なる神の家のことですが、私たちそれぞれが、さまよう放蕩息子ではないかと問い掛けます。もちろん、私たちは既にイエスに出会い、キリスト者として歩ませていただいています。主にある兄弟姉妹のあたたかな交わりの中で慰められ、励まされながら歩ませていただいています。

しかしそれでも尚、私たちは帰るべき家への途上にある旅人なのではないかと言うのです。主に出会い、主と共に歩んでいるはずでありながらも、尚さ迷っているのではないかと言うのです。確かにその通りかもしれません。主がどんなに貴いお方でいらっしゃるのかを知ることが出来たにもかかわらず、迷い、後ろを振り向き、主ではなく、自分を選ぶことがなんと多いことでしょう。

しかし、ナーウエンは次のように慰めと希望に満ちた言葉で締めくくっています。「家に向かって歩き始めると、それがどれだけ遠い道のりであるかが分かってくることがよくあります。けれども、挫けないようにしましょう。イエスが私たちと共に歩いてくださり、私たちに道々話しかけてくださるからです。注意して耳を澄ませていると、途中なのにもうすでに家にいることが分かるでしょう。」

私たちは、今まさに旅の途上にありますが、ナーウェンの指摘するように、「注意して耳を澄ませるなら、すでに家にいることが分かり」、その豊かさ、あたたかさに勇気付けられるはずなのです。思えば、放蕩息子としての自覚を持つことが出来たということは、即ち、既に「家にいる」ということなのかもしれません。神の励ましの声に注意して耳を澄ませ、希望と祝福の内に、「家への旅」を続けたいと思います。