立ち止まる愛
数年前に、アメリカのジョージア州アトランタに行く機会がありました。そのアトランタで、公民権運動で活躍し、39歳の若さで生涯を閉じたマルチン・ルーサー・キング牧師が働いていたエベニザー・バプテスト教会、そして教会の隣にある記念館と、近くにある生家を見学しました。その記念館に掲示されていたキング牧師の下記の言葉は、隣人愛に生きる上での愛と勇気を教えるもので、今も私の心に深く刻まれています。
「問題は、誰かが困っているときにその人にかかわったら自分の計画や予定はどうなるのかではなく、この人に自分がかかわらなかったら、この人はどうなるかと問うべきである。」
自分の都合や判断を優先させるのではなく、あくまでも相手の都合や必要を優先させること、相手の事情を自分のこととして受け止め、立ち止まることの大切さを教えるこの言葉を前にして、私はしばらくそこを離れることができませんでした。隣人愛に生きる者の覚悟と勇気を問うている、とても重い言葉であり、本当にその通りだと思ったのです。
私たちのまわりには、いろいろな重荷を抱えておられる方がいらっしゃいます。その重荷を抱えておられる方々に対して、私たちがどのようにかかわることができるのか、またかかわっていくべきなのか。その時の、私たちのまなざしが自分の都合や判断に向けられているのか、それとも相手の都合や必要に向けられているのか。これは大きな違いとなって表れてくるに違いありません。
隣人愛に生きることの大切さを心している者として、このことは忘れてはならないと思わされた経験でした。
1954年9月26日、台風15号により青函連絡船洞爺丸が沈没し、1155人の人が犠牲となった海難事故は日本海難史上最大の惨事となりました。その洞爺丸にデイーン・リーパー、アルフレッド・ストーン、そしてドナルド・オースという3名の外国人宣教師が乗り合わせていました。
その時のエピソードが伝えられていますが、台風の危機の中で、彼らは混乱する乗客を手品で和ませ、日本人の子供に自分の救命胴衣を譲り着せ、自分は海の藻屑となったのです。救命胴衣を着せてもらった日本人は生還し、救命胴衣を譲った二人の宣教師は命を落としたのでした。
聖書には「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。」(ヨハネによる福音書15章13節)と記されていますが、彼らはまさに、危機の中にあって、自分の身の安全よりも人の命を救うことを優先したのでした。
思えば、御子キリストはどんな時も立ち止まって人々に向き合い、その必要にお応えになったばかりか、敢えて十字架で命を捧げる道を選ばれました。それはまさしく、私たちを罪から救って下さるという究極の愛の業でした。この神の愛に感謝しつつ、少しでもそれに倣うもの