雑用
ノ-トルダム聖心女子大学の学長、渡辺和子さんの著書「美しい人に」という本の中に「雑用」という題のエッセイがあり、成る程と思わされたのですが、お読みになった方もいらっしゃることでしょう。
渡辺さんは2.26事件で非業の死を遂げた教育総監、渡辺錠太郎の次女で、男性と肩を並べて働くキャリアウ-マンでしたが、29歳の時にノ-トルダム修道院に入りアメリカに派遣され、ボストンカレッジ大学院で学んだ方です。
アメリカの修道院での生活を始めた頃のことです。そこでの生活は一日の大半を掃除、洗濯、アイロンかけ、繕い物といった家事全般に費やす単調なものでした。キャリアウ-マンの生き方に決別し、自らの意志で入った修道院でしたが、渡辺さんの心の中には、次第につまらない仕事に明け暮れる毎日への焦りが生じてきたのです。そんなある日、百人以上の修練女と呼ばれる人達が食事をする食堂で皿やナイフ、フォ-クを並べていた渡辺さんに、先輩のアメリカ人が次のような言葉を残して立ち去ったそうです。
「一つ一つ、音をさせないように静かにおいてご覧なさい。更に、そこに座る人が幸せになるようにと心を込めておいてご覧なさい」
この時、渡辺さんは「世の中にはつまらない仕事はない。雑用と呼ばれる職種もない。それは人間がつまらないものにしているのであり、人間が用を雑にしている時、生じるものなのだ」ということを教えられたと書いていらっしゃいます。
考えてみれば、修道院でなくても、私たちの日常はやりがいのあること、意味のあることばかりではなく、寧ろやりがいも報いもない単調な毎日の繰り返しがほとんどかもしれません。そのような毎日の中で、私たちも渡辺さんのように、焦りや無力感を覚えることがありますが、「世の中につまらない仕事はない」という視点は、日常の目立たぬ行為にも意味を見いだすことの出来る、大切な捉え方ではないかと思います。
聖書には「何をするにも人に対してではなく、主に対してするように心から行いなさい」(コロサイ3;23)と記されていますが、どんな行為もこのように心を込めて行ってみる時、同じ状況も輝いて見えてくるものなのではないかと思います。
私たちも、それぞれの人生を振り返ってみる時、善い人生だったと言えるのは、必ずしも能力のある人、成功した人とは限らず、寧ろ単調で変化のないことにも、心を込めて最善を尽くした人なのではないでしょうか。
人を羨むことなく、自分の置かれた状況の中で、生かされていることに感謝しつつ、どんなことにも心を込めて歩んでいきたいものです。その時、私たちの毎日が輝きを見せるだけではなく、周りの方々にぬくもりを感じてもらえる幸いな人生となっていくのだと思います。
新1年生・転校生(小学校)歓迎会
2015年4月11日(土)は新1年生と転校生の歓迎会が安息日学校とパトラック昼食会(持寄り)とが行われました。安息日学校では歓迎の集いとして、生徒と保護者が前に出て家庭毎に紹介が担任教師よりありました。1か月前は6年生(卒業生)の証しを聞いていましたので、1年生が何とも小さく初々しくうれしい時でした。ジュニア・チャーチより「キッズフレンズ」がプレゼントがありました。安息日学校の最後は東海林牧師の祝祷で終り、小学生はジュニア礼拝、大人は小グループに分かれて聖書研究ガイドの学びに移りました。その後10時45分頃にジュニアはセンターに移動して聖書の学び、大人は会堂で礼拝がありました。
昼食会は予定とおり12時30分から始まりました。出席者が持って来られたパトラックを新入生の家族以外の方に3つのテーブルに用意されました。新入生の家族の方でパトラックが初めての方もおられるので、きれいな弁当箱に子供用と大人用に用意されました。どれも美味しそうに盛り付けがされていました。開会のお祈りは寺内牧師がしてくださいました。1時まで食事の時間にしました。たくさんの出席者があり、賑やかな食事タイムでした。朝から女執事が準備して下さったおかげでたのしい食事になりました。その後もう一度、安息日学校の時間に出席出来なかった方のために、新入生と転校生・その家族が紹介されました。東海林牧師より歓迎の挨拶があり、子供達にはマグカップ、ご家庭には子育ての本が教会からプレゼントされました。最後にチャペルコワイヤー(横浜三育小学校保護者)が讃美してくださり、ひとりひとり歓迎の挨拶をしてくださいました。東海林牧師の終祷で閉会しました。私たちも生徒とご家族の上に祝福がありますようにと祈らせて頂きました。
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