Home » 礼拝メッセージ » メッセージ2017年3月25日

メッセージ2017年3月25日

永遠の贖い(成し遂げられたこと)

 

シャローム:イエス様が甦られて最初に呼びかけた言葉

どんなに弟子たちを励ましたことか。

主を裏切った後ろめたさを覚えていた弟子たちを励まし、力づけた言葉であった。彼らは改めてイエス様がどんなに素晴らしい方でいらっしゃるのかを思い知った。そしてそのイエス様が誰あろう自分たちの罪の身代わりとなって犠牲となられた、私たちの救い主であることを知った。その喜びと驚きはどんなであったろうか。その抑えることのできない喜びが彼らを満たしていった。その罪ゆるされた平安と喜びを、聖霊の注ぎを受けて彼らは世界に宣教するために遣わされていくのである。

 

しかし、イエス様がシャロームと呼びかけたその根拠は何か。

ヨハネ20:19,20. その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。そう言って、手とわき腹とをお見せになった。弟子たちは、主を見て喜んだ。

「手とわき」。それは何を告げているか。十字架。

ヨハネ19:28。 この後、イエスは、すべてのことが今や成し遂げられたのを知り、「渇く」と言われた。こうして、聖書の言葉が実現した。

そこで何が成し遂げられたのか。口語訳では「今や万事が終わったことを知って」とある。何が終わったのか。

 

終わりには二つの意味がある。

ひとつはことをやり遂げた、達成したという終わり。英語で終わりを意味するのはEND。映画の最後に出てくるこの言葉は、終わりであると同時に完結したという意味。走るべく行程を走り尽して、その責任と役割とをなし終える、成し遂げるという意味。

もう一つは、志半ばでの、いきなりの中断。突如として前途が断たれる終わり。

東大震災の時の震災後に発生した津波が押し寄せ、自分たちの街並み、故郷を呑み込んでいく様に、言葉もなく震えながら「あー、すべてが終わった。もうすべて終わりだ」と思わず叫んでいた撮影者のつぶやきのような悲痛な終わりもある。

一方は完全燃焼の終わりであり、他方は不完全燃焼の終わり。満足を伴う終わりと、絶望的な終わり。

十字架上でイエス様が了解した終わり、成し遂げたこととは何か。イエス様は十字架上で人生の終焉を迎えた。

歴史的に見れば、宗教指導者たちによる策動で犯罪者としてかけられた十字架で、死刑執行された人生の終わり。志半ばで慙愧の思いで「万事休す」と叫んだとしても、絶望の嘆きを訴えたとしても不思議ではない。

しかし、イエス様のこの言葉の意味はそうではない。言わば、志半ばでではなく、その志が成し遂げられた勝利の宣言であり、使命を果たしたという安堵の言葉でもあった。

 

ではイエス様が十字架上で成し遂げられたこととは何か。

へブライ9:11,12 けれども、キリストは、既に実現している恵みの大祭司としておいでになったのですから、人間の手で造られたのではない、すなわち、この世のものではない、更に大きく、更に完全な幕屋を通り、雄山羊と若い雄牛の血によらないで、御自身の血によって、ただ一度聖所に入って永遠の贖いを成し遂げられたのです。

 

キリストが成し遂げたもの、それは永遠の贖いだと告げている。動物の血によるのではなく、決して罪を犯すことのなかったご自身の血によって、私たち人類の罪の責任を負ってくださった。

神は、永遠の昔より救いの計画をお立てになり、キリストによってその計画を成し遂げられた。キリストが私たちの身代わりとなって十字架の上で体験した嘆き、苦痛、痛みのゆえに、私たちは自分の罪を嘆き、苦しみ続けることから解放された。「罪を負うお方であるイエスが、神の正義の怒りをしのび、あなたのために罪そのものとなられる。」(各時代希望下頁279)

 

イザヤ53章

 

キリストの十字架によって、私たちに救いの道が開かれた。しかし、十字架にはもっと広く、深い目的があった。それは何か。その何かが成し遂げられることを望まない反対勢力、神に背を向けさせようとする反対勢力は、十字架を最も恐れ、阻止しようと必死だった。

 

イエス様がご自分の死と復活を予言した時、ペテロはイエス様をいさめた。マタイ16:22 すると、ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた。「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません」。

 

ペテロはイエス様が十字架に向かうことを阻止しようとした。ペテロに神のご計画を阻止しようとする意志があったわけではない。しかし、十字架に向かうイエス様をいさめたことは事実。イエス様はそこにサタンの働きを見た。十字架で成し遂げられることを阻止しようとするものだと判断された。

そこで、イエス様は次のように言われた。

16:23 イエスは振り向いてペトロに言われた。「サタン、引き下がれ。あなたは私の邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている。」

 

また、十字架につけられたイエス様は、人々から「十字架から降りて自分を救ってみろ」とののしられた。

十字架に向かおうとされたイエス様をいさめたことがサタンの働きであるなら、「十字架から降りて自分を救ってみろ」と、神の力を発揮して十字架を回避するように救い主を挑発することも、サタンの働きであった。

イエス様にその力があることを知っていたサタンは、十字架のまわりにいた人たちを扇動して何とか十字架を阻止しようとした。

 

何故、サタンはこれほど執拗にイエス様の十字架を阻止しようとしたのか。

それはサタンの偽りが明らかになるから。サタンはエデンの園における偽りと惑わしによって、人類に神の愛に対する疑問を抱かせることに成功した。

しかし、神はそのようなサタンの計画を打ち破る贖罪の計画、つまり十字架の計画を用意していた。

 

「しかし、贖罪の計画は、人類の救済より、もっと広く深い目的を持っていた。キリストが地上に来られたのは、人間を救うためだけではなかった。この小さな世界の住民が、神の律法に対して当然払わなければならない尊敬を払うようになるためだけではなかった。それは、宇宙の前で、神の性質を擁護するためであった」(「人類のあけぼの」上頁61)。

 

十字架によって宇宙の前で擁護された神の性質、それこそ愛であった。愛がどんなに深く徹底したものであったかを示すものであった。

イエス様の十字架はサタンの偽りを打ち破り、神が愛であることが疑う余地のない事実であることを証明していた。

 

ヨハネ第一3:16 イエスは、わたしたちのために、命を捨ててくださいました。そのことによって、わたしたちは愛を知りました。だから、わたしたちも兄弟のために命を捨てるべきです。

私たちが誤解してはならないのは、十字架によって神の愛が完成したわけではないこと。不完全であった神の愛が十字架によって完全なものになったわけではない。

神が御子を世に遣わす前から、キリストが十字架の上で耐え忍ばれ、贖いの死を遂げる以前から、人間に対する神の愛は完全なものであった。神の愛は変わることのない永遠なもの。人間はそれをサタンの惑わしによって見失ってしまった。その愛を私たちも含め、すべての被造物に対して思い起こさせることが十字架の目的であり、意味。

 

イエス様は十字架によって私たちを贖い、罪から解放して下さった。救いを成し遂げて下さった。

しかし、それ以上に大切なことは、救いが成し遂げられることによって、私たちが神の愛を知ることができるということ。サタンの惑わしによって分からなくなってしまった人間に対して、神は十字架によって自分の愛がどのようなものであるのかということを示してくださった。それは、どんなに狡猾な敵対者であっても打ち破ることのできない完全な方法だった。つまり、神は愛であることを示す神の計画が、十字架によって成し遂げられた。

 

「人は、神の愛の高さと深さを知らなかった。神の愛を知る時に、人には望みがあった。神のご品性を見ることによって、人は神のみもとに引き戻されるかもしれなかった」(「各時代の希望」下頁288)。

 

私たちは聖餐式のたびごとに、この神の贖いの計画に現わされた徹底した神の愛を想い起し、この方の前に献身を新たにしたい。