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Laforet 10月号

   「秋の夜長……」  亀甲山教会牧師 伊藤裕史

 キリスト教の信仰生活に欠かせないものに「祈り」があります。この「祈り」ですが、神様に気づき信仰を持つと、誰でもおこなっているため、改めて振り返る機会がないものです。信仰の先輩に倣い、主の祈りを覚え、祈りを繰り返すうちに、自分の祈りができてきます。この祈りを振り返ってみたことはありますか。

以前、韓国にある私たちの支部の祈祷院のプログラムに参加してきました。一週間以上、朝5時から夜10時頃までプログラムがずっと組まれ、祈りと瞑想、そして学びの時間を持つことができました。そこでまず最初に感じたことは、祈りを神様への要求と考えると祈り続けることができなくなる、ということでした。

ある人が「祈りとは神様との人格的な出会いである」と定義したのを聞いたことがあります。これによれば、私たちの祈りとは、愛する主と共に過ごす時間を楽しむということなのです。しかし、私が祈りをこのような人格的な出会いではなく、要求する場として使っている、そんな姿に気が付くことができたのです。

皆さんは大切な人と過ごす時、どのように過ごしておられるでしょうか。自分のことばかり話したり、自分の要求を押しつけることばかりしてはいないと思います。もし、そのようなことをしていれば、相手は疲れてしまい、あなたから離れていってしまうでしょう。相手の話を聞いたり、自分の感謝の思いを伝えたり、一緒に楽しもうとしないでしょうか。

しかし、私たちは神様との間で、何故か大切な人との間でやっていないこと、していないことを祈りの中でしているのです。確かに神様は皆さんを愛しておられ、必要なものは何でも与えたいと考えておられます。でも、本当に大切なのは、求めるだけでなく、感謝と讃美、そしてみこころを求めること、そういった神様との人格的な交わり、共に過ごす時間を楽しむことのはずです。

聖書は繰り返し言っています。「たゆまず祈りなさい。」(ローマの信徒への手紙12:12)「ひたすら祈りなさい。」(コロサイ4:2)「絶えず目を覚まして根気よく祈り続けなさい。」(エペソ6:18)この聖句が求めているのは要求だけだったり、苦行としての祈りではありません。共にいる時間を楽しんで過ごすための祈りのはずです。

このように考えると、目を閉じ、手を組み、頭を垂れてという形でなく、全ての時間を祈りに使うこともできる気がします。通勤の途中でも、台所の中でも、ウォーキングの最中でも、心の中で神さまを感じ、神様に語りかけ、そして神様に語って頂くことができるのです。

ちょうど今の季節、夜のひと時も神様との時間にすることができます。このようにしたら信仰生活が楽しくなる気がしてきませんか。もう一度、皆さんの「祈り」を見直してみましょう。