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La foret 10月号

「愛をどう伝えるか」 亀甲山教会牧師 平賀和弘
  翻訳には、苦労がともないます。それは、聖書の翻訳においても例外ではありません。例えば、聖書の中に「愛」という言葉がでてきますが、16世紀以降、日本に来た宣教師たちは、今、日本語で「愛」と訳されている言葉をどう訳して、神様の愛を伝えるか苦労しました。
 当時、「愛」という言葉がなかったわけではありません。しかし、この言葉が人に対して使われる場合、親が子に、あるいは男が女に対する行為に限られました(女が男にはありません)。つまり、「愛」は、相手を対等な存在として認めて尊重するのではなく、目上から目下の者になされる行為であり、さらに、「離すまいとする」「かわいがる」「もてあそぶ」といった意味があり、自己本位に基づく行為として用いられていました。
 そのため、当時の人々のイメージする「愛」と宣教師たちが伝えたい聖書の神様のご品性は、異なっていました。また、当時の人たちが信仰していた仏教では、「愛」は悟りを妨げる「科(とが)」と考えられていました。ですから、「愛する」ことは「悪」であると認識されていました。
 宣教師たちは、原語主義の視点に立って「カリダーデ(charidade)」というポルトガル語を、そのまま使うこともできました。しかし、宣教師たちは、原語を用いませんでした。その代わり、「愛」という言葉を、「御大切」「大切に思ふ」と訳しました。神様にとってあなたは御大切な存在です。神様はあなたのことを大切に思っておられます、と神様の「愛」を伝えたのです。なかなか興味深い訳です。
  さて、神様ご自身は、わたしたち人間に、ご自身の愛をどう伝えられたのでしょうか。聖書は、こう語ります。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」(ヨハネ3:16)。罪のために死に定められた人間。神様は、その人間を大切に思い、大切な存在を失いたくないと、滅びるのではなく生きることを望まれました。そのために、ご自身の愛してやまない独り子であるイエス・キリストをこの世に遣わされます。そして、イエス様が、十字架についてくださったおかげで、私たちは、罪はゆるされ、滅びるのではなく永遠の命を得ることができるようになりました。これ以上に大きな愛はありません(ヨハネ15:13)。神様のご大切を感謝します。