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La foret 3月号

「私が主であることを知る」     亀甲山教会牧師 平賀和弘

 「私を離れ去る淫行の心と、偶像を慕う淫行の目を、私は打ち砕く。そして彼らは、自ら行った悪のゆえに、また自分のすべての忌むべき行いのゆえに、自分を嫌悪するようになる。こうして彼らは、私が主であり、理由もなくこの災いを下すと言ったのではないことを知るようになる。」(エゼキエル6章9−10節)

イスラエルの人々を、根本から揺るがす出来事が起こりました。バビロン捕囚です。このことは、勢力を拡大するバビロニア帝国に反して、イスラエルが反乱を企てたことによって起こりました。反乱は成功せず、かえってエルサレムの神殿は焼き払われ、イスラエルの多くの人々は、捕囚としてバビロンに連行されることになりました。
戦争に負けて、強制的に敵国に連行されて捕囚生活を送る。そのこと自体も耐え難いものです。しかし、さらに人々を苦しめたのは、「約束の地」から離れることでした。昔イスラエルがエジプトで奴隷であったころ、神様は人々の叫びを聞かれ、約束の地へ導いてくださいました。その場所であるイスラエルから離れることは、神様の救いから追放されるようなことであり、不安を覚えることでした。
この出来事が起こる前、預言者は繰り返し、イスラエルの罪を指摘し、神様に立ち帰るよう呼びかけました。しかし、人々は神様の御言葉に従わず、自分中心に生き、神様の望まれない悪いことばかりを行なっていました。その当然の報いを受けるように、バビロン捕囚が起こったのです。それは神様の裁きと言えます。人々は、神様の祝福が取り去られ、自分たちは神様から見捨てられたと、自分の存在を根底から揺るがす不安を覚えるのです。
しかし、神様のあわれみは消え去ることはありません。神様の怒りは憎しみから生じるのではなく、あわれみから生じます。神様は罪の恐ろしさを知っておられ、一人ひとりの命に無関心ではありません。だから、怒ります。神様の裁きは、人を救おうとする愛に裏打ちされているのです。
預言者エゼキエルは、神様の裁きに目的があることを告げています。それは、神様が主であることを知ることです。災いは人間の罪の結果として起こりました。しかし、神様は、その災いさえ用いられ、ご自身が主であることを知る機会としてくださるのです。災いのときも、恐れずに、主の御名を呼び求めてまいりましょう。
豊かな恵みと平安が、皆様と共にありますように。