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La foret 7月号

「どう祈るべきかを知りませんが」     亀甲山教会牧師 平賀和弘

「同様に、”霊”も弱いわたしたちを助けてくださいます。わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、”霊”自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです。」(ローマ 8:26)

 パウロは、御霊も弱いわたしたちを助けてくださいますと告白しています。「わたしたち」とは、すでにバプテスマを受けたクリスチャンのことです。クリスチャンになれば、すべての弱さを克服することができるのかといえば、決してそうではありません。例えば、病気になること、体力の衰えを感じることもあるでしょう。また、心においても弱さを覚えることがあります。バプテスマを受けて、以前よりは強くされたと感じることもあれば、相変わらず弱いと感じることもあるでしょう。むしろ以前よりも弱くなったとさえ思うこともあるかもしれません。
 この手紙を書いたパウロ自身も病を抱えていました。また、「自分が望むことは実行せず、かえって憎んでいることをするからです。」(ローマ7:15)と心の弱さも抱えていました。しかも、「わたしたちはどう祈るべきかを知りません」(同8:26)と、祈りにおいても弱さを自覚していたのです。
 もちろんパウロは祈ることはできました。祈り方は知っていたのです。パウロがここで指摘している弱さとは、もっと本質的なことです。あなたは祈るけれども、その祈りは真実な祈りになっているか。自分の願いや心の思いを並べれば、祈っていると信じているかもしれない。しかし、神様はお願いごとを叶えるための都合の良い機械でも、不平不満をぶつけるためのストレス解消の道具でもない。あなたは神を神としているかと問うのです。弱さを罪と言い換えることができるかもしれません。パウロは、祈りさえも自己中心、罪のために神様の御顔を仰ぐことができない弱さを、ここで告白しているのです。
 しかし、み霊はそのような絶望的なわたしたちを助けてくださいます。神様と人の真ん中に立って、その仲を取り持ってくださるのではありません。御霊はどこまでも人の側に立ってくださいます。そして、そもそも弱く、祈ることすらできない私たちのために、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるのです。そのおかげで、わたしたちは神様を「アッバ、父よ」(ローマ8:15)と呼んで、祈ることができます。
 御霊の助けと執り成しによって、私たちの信仰が守られ、祈ることができることを感謝します。