「止まった時計」 亀甲山キリスト教会 牧師 伊藤裕史
皆さんは止まった時計をどう思いますか。そんなの役に立たない。そう思うはずです。しかし私は止まった時計に衝撃を受けたことがあります。それは小学校の修学旅行のことでした。私の出身は山口県。小学校の修学旅行は隣の広島県でした。この旅行で、現在では世界遺産となった宮島、厳島神社なども周りましたが、私の一番心に残っているのは平和記念公園と原爆資料館(広島平和記念資料館)でした。原爆については小学校の授業で事前学習として教えられてはいたのですが、それは知識だけ。展示で見たものは私の想像以上のものでした。そこに展示されていたものに、止まった時計があったのです。
8時15分で止まった時計。この時計が何故時を止めたのか、それは言うまでもありません。今から75年前の1945年8月6日8時15分に広島に落とされた一発の原子爆弾のせいです。この一発の原爆のために、おそらく10万以上の人が一瞬で、そしてその後すぐに命を落とし、たくさんの建物が壊れ失われたのです。その後も、どれだけ多くの人を苦しめていったか。原爆資料館にはそれを伝えるために色々なものが展示されていました。強烈な熱線により残った人の影、溶けてしまった瓦、黒い雨の痕。しかし小学生の私の心に残ったのは、8時15分で、時間を止めてしまった時計が一番印象的だったのです。
聖書の有名な十戒の第6条に「あなたは殺してはならない」があります。この「殺す」の意味は命を奪う、ということだけでなく、相手を尊ばない、存在を無視する、など広い意味も持っています。今の日本ではこのことを考える方が大切なのかもしれません。いじめや自殺が絶えない社会の中ではこのことの方が身近で大きな意味を持ちます。しかし、戦争や原爆は文字通り命を奪う行為です。そして命を奪うということは、この時計に象徴されるように、その人の持っている時を止めてしまう、その人の時を奪うこと、ということであると言えるのです。この時、小学生の私はこの動くことのない時計を見ながら、いろいろなことを考えさせられました。
私たちの時計は幸いなことに今動いています。そして、わたしたちは今生きています。誰もが、それぞれに夢や希望を持ち、大切な未来があるのです。この夢や希望を打ち砕き、未来を奪い去っていくようなことを、これから起こしてはいけないのです。どんな形であっても、その人の時計を止める権利は私たちにはないのです。
75年の節目に、そして世界がコロナで苦しんでいる今、皆さんも物言わぬ止まった時計をぜひ見て下さい。