一日一生
米国のリンカ-ン大統領が、「40歳になったら人間は自分の顔に責任を持たなければならない」と言ったことをご存知の方はいらっしゃるかと思います。
40歳といえば、人生観がおおかた形成される年齢ですから、自分の顔に責任を持つ必要があるということなのでしょうが、リンカーン大統領の言葉にはそれ以上の深い意味があるように思われます。私たちの顔は、言うまでもなく一夜にして出来上がるものではありません。毎日の生き方の中で少しずつ形成された結果として、それぞれの味わいのある顔となっていくからです。つまり私たちの顔は、私たち自身の生き方、更には、私たち自身を表しているからこそ、人間は自分の顔に責任を持たねばならないということなのだと思います。
ところで、英語で、性格とか人格、あるいは品性を意味する言葉は、キャラクター(character)という言葉ですが、この言葉の語源は、石に彫り込むという意味なのだそうです。石に少しずつ彫り刻まれて彫刻が出来上がるように、性格や品性、そして私たちの顔も、私たち自身の手によって毎日彫り刻まれた結果として出来上がるものなのではないでしょうか。
明治のキリスト者として強烈な個性を放っている内村鑑三は、その著「一日一生」という本の中で「一日は尊い一生である。これを空費してはならない」と述べています。今日という日は二度と巡り来ることのない尊い一生なのだ。だから、この尊い一日に如何に向き合うか、どのように生きるか、それが私たちの一生を形作るのだから、大事に生きねばならないと告げているのです。また、米国の宗教者、エレン・ホワイは「思想を蒔きなさい。行為が実るでしょう。行為を蒔きなさい。習慣が実るでしょう。習慣を蒔きなさい。品性が実るでしょう。品性を蒔きなさい。運命が実るでしょう。」と述べていますし、聖書の中にも「人は自分のまいたものを刈り取ることになる」(ガラテヤ人への手紙6章7節)と記されています。どのように生きるかは私たちの自由ですが、確かに私たちはまいたものを刈り取ることになるのです。
私たちの毎日は、心穏やかに過ぎることもあれば、思わぬことの成り行きの中で戸惑いや失意を覚えることもありま
す。三十にして立ち、四十にして惑わず、五十にして天命を知る云々と表現した孔子の時代と比較すると、四十にしても尚立たず、五十にして尚惑うことの多いのが、今の時代を生きる私たちの実態のような気もしますが、困難の中にも希望を与えて下さる神を見上げて歩むことによって、温かな深みのある顔に整えていただきたいものです。そして、たとえ思わぬ事態の中に置かれることがあっても、希望を見失うことなく穏やかな心で人に接し、一日一日を大切に歩んで行くことが出来ればと思います。
亀甲山教会牧師 東海林正樹
横浜三育小学校
戦後、教育制度は六・三・三制となり、小中学校は義務教育制となって各地に小学校、中学校が設立されました。亀甲山三育小学校は、当時「福音社」の職員、教会員の方々がご自分の子供たちを神様のもとへ導き、信仰に基づいた教育を施したいとの強い熱意をもたれ、昭和32年(1957)4月、教師1名、児童6名をもって開校されました。開校当時には信徒子弟を中心とした教育が行われていましたが、徐々に入学希望者への門戸を広げ現在に至っており、学校名も横浜三育小学校となりました。
もともと信徒子弟のための学校であったので、亀甲山教会と学校は常に共同体でした。現在は学校にチャペルがあり入学式や卒業式は学校で行われていますが、以前は教会をお借りして行っていました。卒業生たちにとって、学校生活における亀甲山教会は特別な思いをもっているのではないかと思います。それは教会堂だけでなく、そこでの教会員の方々の暖かいおもてなしであったり、楽しい教会プログラムだったと思います。また、教会にとっても児童伝道は大切な働きでそれは今も同じです。どのくらいの児童が小学校時代、また卒業後にバプテスマを受けたかの記録は残っていませんが、おそらく相当数いるのではないでしょうか。また小学校に子供を通わせたことがきっかけで保護者がバプテスマを受け、今も教会生活を送っておられる方もいらっしゃいます。
このように亀甲山教会と小学校が隣接していることは宣教にとっては素晴らしい環境です。学校は今年、創立58年を迎え、卒業生の数は約750名を数えます。卒業生の中には牧師、教師、医療従事者をはじめ、各方面の働き人となり、教会でも中心となって活躍されている方が多くいます。これからも学校という多くの救われる魂を抱える教会として、教会と学校が協力して福音を宣べ伝える働きを共にしていければと思います。
百聞は一食に如かず
寺内三一
亀甲山教会といえば皆様は何が浮かんでくるでしょうか。森の教会と言われる木々と緑でしょうか。水の絶えることのない池でしょうか。また、森の教会にふさわしい木の教会堂でしょうか。礼拝堂で見上げる十字架でしょうか。礼拝説教を、教団本部のお膝元である教会として、教団総理や全国、全世界の牧師、機関の方々、教会員の方々によって聞く事ができることでしょうか。このような神様との交わりだけでなく、多くの個性豊かな、味わいある人生?を歩んでおられる方々との主にある交わりでしょうか。
そして、亀甲山教会といえばもう一つ・・・が「愛餐(あいさん)」の時である「パトラック(持ち寄り会食)」ですね。3月21日の安息日、午前中は、安息日学校と安息日礼拝で「霊の糧」をいただき心と魂を満たしていただきました。そして、昼食時には教会員の皆様の持ち寄りのご馳走により「肉体の糧」をいただきお腹を満たしていただきました。3箇所のテーブルの上には、女性執事の方々が作って下さった「さあ~たっぷり召し上がれ・・」とばかりに大きなお皿に盛られた、ちらし寿司とゼリーが並んでいます。また、焼きそば、スパゲッティ、グラタン、フライ、から揚げ、煮物、何種類ものサラダ、ケーキや様々なお菓子などなど・・教会員の方々が心を込
めて作られたご馳走が所狭しと並んでいます。大人も子供も110人、皆さん美味しそうに笑顔で召し上がっていました。教会に来て間もない方も食事をされながら楽しそうにお話をしておられました。「百聞は一見にしかず」の如く、「百聞は一食にしかず・・」とご馳走を味わう時、主にある兄弟姉妹の交わりの祝福の時をこれからも過ごしていきたいですね。次回のパトラックは、4月11日の、横浜三育小学校の新入生歓迎の時となっています。お食事を作って下さった皆様、女性執事の皆様ご馳走様でした。またどうぞよろしくお願いいたします。
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