「日々の輝き」
作家の高見順氏は、亡くなる約一年前に刊行した詩集「死の淵より」の中で「電車の窓の外は」という一篇を詩っています。
「電車の窓の外は光りに満ち、喜びに満ち、生き生きと息づいている。
この世ともうお別れかと思うと、見慣れた景色が急に新鮮に見えてきた。
この世は人間も自然も幸福に満ちている。 だのに私は死なねばならぬ。だのにこの世は実に幸せそうだ 。それが私の心を悲しませないで、かえって私の悲しみを慰めてくれる。私の胸に感動が溢れ、胸が詰まって涙が出そうになる。」
高見順氏は、ガンという病の中で、否が応にも限りある生命を自覚させられました。そして、迫りくる死を前にして、何気ない日常の風景が急に掛け替えのない貴重なものであると感じるに至った心境が謳われていて胸を打たれます。避けることのできない死を受け入れることは、容易なことではなかったことでしょう。自分の将来が閉ざされた無念さ、愛する家族への思い等が脳裏を駆け巡り、眠れない夜が続いたに違いありません。しかし、そのような苦悩の中で、生きていることがどんなに感動的なことかに気づかされたのではないかと思います。
通常私たちは、生命に限りがあることを、それほど意識することなく過ごしがちです。それどころか、生命があたかも永遠に続くかのごとく漫然と生きている場合もあるかもしれません。
しかし、死を現実のこととして意識させられた時にこの高見氏のような心境に導かれることはあり得るのだと思います。その時、当然のことかもしれませんが、一日一日が本当に貴重に思われ、どのように過ごし、どのように生きるかが真剣な問いにならざるを得なくなるのだと思います。いのちが陰り始めた時に、いのちが輝くというのは逆説的で悲しいことですが、そのような経験の中に置かれることがなければ、気づくことのできないこともあるのではないでしょうか。
昔、修道院では、朝「おはようございます」と挨拶をする代わりに、「メメント・モーリー」と言葉を交わし合ったといいます。その意味は「汝、死すことを覚えよ」ということなのだそうです。朝から縁起が悪いようにも思える挨拶ですが、そこには「今日が最後の日になったとしても悔いを残すことがないよう、一日を歩みましょう」という積極的な意味が込められていたということです。
また、聖書には「あなたがたには自分の命がどうなるか、明日のことは分からないのです。あなたがたは、わずかの間現われて、やがて消えて行く霧にすぎません。」(ヤコブの手紙4章2節)と記されています。
限りあるいのちであることを心にとめることによって、日常の中に感動やよろこびを見出し、悔いを残すことのないように歩んで参りたいと思います。
亀甲山教会牧師 東海林正樹
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