一滴の水 亀甲山教会牧師:伊藤裕史
禅宗の言葉に「曹源一滴水(そうげんのいってきすい)」という言葉があります。一滴の水が山から流れると、そこから小川ができ、大きくなって川となり、大河となり、やがて天下を潤す、という意味です。もちろん禅語ですから由来があります。曹源とは、禅が広がるきっかけとなった慧能禅師の出身地が中国・曹渓の上流であったことから、その川の源流=曹源を指しています。その曹源から出た小さな教えが世界に広がったことをイメージしてこの言葉は作られました。
たった一滴の水が大河となっていく光景は、なんとも壮大です。私の大好きなイザヤ書の聖句にも同じような光景をイメージさせるものがあります。
「雨も雪も、ひとたび天から降れば/むなしく天に戻ることはない。それは大地を潤し、芽を出させ、生い茂らせ/種蒔く人には種を与え/食べる人には糧を与える。」(イザヤ55:11)
この聖句は神様のみ言葉の働きを示していますが、皆さんは何を想像されるでしょうか。私にはこれがイエス様の働きのように見えてなりません。歴史的、地理的に見れば聖書の真理は世界の中で「一滴の水」。しかし現在、世界に大河となって流れています。
また私自身の経験でも心に流れ込んだ神様の愛は本当に「一滴の水」でした。多くの場合、その一滴の水は途中で土に吸い取られ、蒸発し、なくなっていくように感じます。しかし、不思議なことにいつの間にか大きな川になっているのです。
何事も全て最初の小さな一歩があり、それが大きな流れとなる。最初から大きな流れはありません。一滴がなければ、大河は生まれないのです。
皆さんにとって「一滴の水」は何なのでしょうか。この一滴は皆さんが体験した神様の愛であり、皆さん自身もこの一滴かもしれません。この一滴は、聖書の中では一粒のからし種(マタイ17:20)であり、そこから流れ出る水は、イエス様の与える水(ヨハネ4:14、7:38)なのです。これはなくなるのでしょうか。それとも大河の一滴となるのでしょうか。
私達が行うべきことはこの「一滴の水」を自分のところでため込むのでなく、世に送り出すことです。停滞する水は腐ります。新鮮な水のまま流しましょう。もしかすると無駄のように思えるかもしれません。しかし神様はそれを流れのある大河にしようと計画し、望んでおられるのです。
皆さんのもとに水がなくなれば新鮮な水を送って下さるでしょう。魚は呼吸するために、いつも新しい水を自分の中に取り込みます。私たちもみ言葉で呼吸するために、いつも新しい水を頂きたいものです。
皆さん自身を、皆さんの持つ「一滴の水」を世に送り出しましょう。そして、全世界を潤す働きへ変えていただきましょう。