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メッセージ2016年11月5日

わたしに従ってきなさい

特別讃美歌への感謝。今朝松田兄がバプテスマを受けられる。どんなにこの日を奥様を始め、多くの方々が祈って来られたことか。嬉しく主の御名を心からたたえたい。

松田兄はご存じのように、現役中、そして引退されてからも外国での勤務が長かったと伺っている。様々な経験をたどられて、主イエスに出会われてこの日を迎えられた。本当に感謝したい。今日まで導いて下さった神の御名を讃えたい。又これからの歩みの上に神様の祝福が豊かに与えられるように心よりお祈りしたい。

バプテスマ、それはイエス様との出会いの中で、今までの自分を水に葬り、新しく生まれ変わるための儀式である。今までの生き方に別れを告げ、イエス様を主なる救い主として受け入れ、この方を見上げて、人生に旅立つための儀式である。

自分を立て、自分にこだわるのではなく、どんな時にもイエス様と共に歩み、イエス様に従い、イエス様についていくという信仰の旅立ちである。今朝、マルコ8章34節から38節の御言葉を通して主と共に歩むことの幸いを改めて学びたい。

34節 それから、群衆を弟子たちと共に呼び寄せて言われた。「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。35節 自分の命を救いたいと思うものは、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである。36節 人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。37節 自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。38節 神の背いたこの罪深い時代に、わたしとわたしの言葉を恥じる者は、人の子もまた、父の栄光に輝いて聖なる天使たちと共に来るときに、その者を恥じる。

御言葉には「神に背いたこの罪深い時代に」と記されているが、今のこの時代は、正に、罪深い時代と言っていいのではないか。道徳的退廃は目を覆うばかりである。政治が混迷し、教育が行き詰まり、宗教が揺れ、何が真実なのか、どこに希望があるのか、人々は迷い不安を覚えている。

そのような時代にあって、イエス様こそ真の救い主であることを見出し、神様のみ前に信仰告白することには本当に大きな意味がある。しかしこの「わたしが道であり、真理であり、命である。だれでもわたしによらないでは父のみもとに行くことは出来ない」と仰ったイエス様を見上げ、このイエス様と共に歩み、このイエス様についていきたいと思うクリスチャンの姿とは、そもそもどのようなものなのか。

イエス様は「わたしの後に従いたい者は、自分を棄て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」と仰った。それは、神様と共にどんな時にも歩みたいのなら、「自分を棄て、自分の十字架を負い、わたしに従ってきなさい」ということである。

私たちが旅に出る場合、こと改めて考えるまでもなく、次の三つのことが必要だと言われる。1.別れの挨拶。2.旅の荷物を持つこと。3.目的地への道を歩み出すこと。

信仰者として歩み始めるのにも、また三つのことがここで求められている。

1.自分を棄てること、自分に決別すること。バプテスマは古き自分を水の中に葬り、水と霊によって生まれ変わることを象徴している。

2.自分の十字架という荷物を持つこと。

3.イエスに従って、踏み出すこと。

このように、イエスと共に歩んでいくときに、そこがどこであれ、私たちは前に向かうことができる。希望に生きることができる。パウロはそこのことを次のように述べている。「物欲しさにこう言っているのではありません。わたしは、自分の置かれた境遇に満足することを習い覚えたのです。貧しく暮らすすべも、豊かに暮らすすべも知っています。満腹していても、空腹であっても、者が有り余っていても不足していても、いついかなる場合にも対処する秘訣を授かっています。わたしを強めてくださる方のお陰で、わたしにはすべてが可能です。」フィリピの信徒への手紙4章11節から13節

さて、イエスと共に歩み、このような経験を味わいたいものである。ところで、誰かが私たちに「ついて来い」と言われたとしても、誰もついて来てくれないこと、それはとても寂しく悲しいことに違いないが、そのようなことは、私たちの毎日の歩みの中では案外あるのかもしれない。

「ついて来い」と仰っる方が私たちにとって残念ながら魅力的でなかったり、尊敬できない人であったり、ついて行ってもあまり期待できそうにないと思われるとき、私たちは躊躇するのである。気がついてみたら誰もついてきていない。そのようなことは悲しいことであるが現実に少なからずあるのだと思う。

ところで、私たちがどなたかについて行こうとする場合、私たちはその方が信頼できる方であり、その方に何かしら魅力を覚え、ついて行こうと思わせる情熱や希望や何かがその方に感じられるからなのである。だから、私たちはその方の後に従ってついて行くのである。

今私たちは一体どなたについて行こうとしているのか。このような方ならばどこであろうとついて行きたいと思わせて下さる方、イエス様である。

彼が連れていって下さるのであるならそこがどこであっても行ってみたいと思わせる方、イエス様である。

こんな風にも生きることができるのだと、どんな時にも生きる希望と喜びを与えて下さる方、慰めと励ましを与えて下さる方、裁きではなく救いを与えて下さる方、このイエス様について行くのである。

そして、イエス様について行くということは、私たちのためにすべてを捧げて下さったイエス様に習い、イエス様の御後を踏み従うことである。イエス様が歩んだように歩んでいくことである。私たちを導いて下さるイエス様の後ろ姿を見て、背中を見てついて行くことである。決してイエス様の前を歩くのではない。

しかしイエス様は私たちをそもそも一体どこへ連れて行って下さるのか。イエス様が連れて行って下さるのだから、もはや場所は問題ではない。イエス様が連れて行って下さること、共に歩んで下さること、それ自体で確かに私たちは満たされる。

しかしイエス様はどこへ連れて行って下さるのか。神の国へと私たちを連れて行って下さる。私たちの知恵と力ではどんなに励んでみても、どんなに努力してみても、決して見ることも、味わうこともできない神の国へと私たちを導いて行って下さる。それは裁くのではなく、愛し合う国であり、愛が豊に実る所である。そこで私たちは愛し合い、許しあい、支え合うことが出来る。愛に生きることの豊かさと平安を味わい、どんなことがあっても、希望が失われず、神様の御名を讃えぬ訳にはいかない所なのである。

そのような愛がすべてを支配する所へと、私たちをイエス様は連れて行って下さる。そのような所へわたしと共に行きたいか、そのような所へ行くわたしについてきたいのか、とイエス様は私たちに問いかけておられる。

あなたはどうか。ついて行きたいか。

私たちの多くはこの問いかけに既に答えた。答えたはずなのである。しかし、私たちは本当に神の国のこの豊かさを味わい知っているだろうか。味わい知っているなら幸いだ。その豊かな実を更に実らせていただき、多くの方にその実を味わっていただこうではないか。祝福し合いたいものだ。多くの方がこの実を求めている。多くの方がこの慰めと癒しを求めている。そのひとり一人に命のパンをお分かちしていきたい。そして、ここにこそ希望があり、救いがあることを告げ知らしめることに、私たちの使命がある。

さて、そのような所へと歩みを進めて行くためには、しかし、自分を棄て、自分の十字架を負い、従って行かなければならない。これこそ私たちに求められている。自分を棄て、自分の十字架を負い、従って行かなければ、豊かに実を結び、この神の国に行くことは出来ない。

しかし、それは誠に厳しいことである。そのように果たして本当に歩むことが出来るのだろうか。このように生きることは何か特別の人だけに求められていることなのではないか。

しかしそうではない。御言葉には「群衆を弟子たちと共に呼び寄せて言われた」と記されている。特別の人だけに求められていること、としてここに語られているのではない。従いたいと思う人は誰であれ、このように歩まなければならない、というのである。

ではどうしたら、私たちは自分を棄て、自分の十字架を負い、従って行くことが出来るのか。いやそもそもそれはどのようなことなのか。

「自分を棄てる」。それはどのようなことなのか。私たちは誰であれ自分を大事にしたい。自分のことを優先させたい。ところがイエスはその自分を捨てよ、と仰る。自分を捨てるときに始めて本当の命を得ることが出きる、と仰る。「自分の命を救いたい思う者はそれを失い、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである」(35節)。

自分を捨てる、それは本当にどのようなことなのか。果たしてそのようなことが出きるのだろうか。

実は、この「捨てる」という言葉は、ペテロがイエス様を三度否んだときの言葉である。イエス様を否み自分を取るのか、それとも自分を捨てイエス様を取るのか、そのどちらかだという。自分を捨てるということは、言葉を換えれば、自分を第一としがちな私たちが、自分のすべてを主に委ねることである。どうしても自分にこだわる私たちが、その自分にしがみつかないことだ。自分の利益や自分の持ち物、自分の考え、自分の計画や願い、自分の価値観、そうしたものにしがみつかない。しがみつかじに、それを主に明け渡して委ねることである。

私たちは自分の幸福を求めて、いろんなものを得ようとする。しかし、たとえ全世界を得たとしても、それで満足できるわけでもない。得れば得るほど、私たちは更に欲しくなるものなのではないか。そして自分や自分の持っているものにしがみつく。そして、しがみつけばしがみつくほど、悲しいことだけれども沈んでしまう。それでも私たちがしがみつくのは不安があるからだ。藁をもつかむのは溺れているからだ。

また世界を手に入れたとしても命をなくしたらどうなるのか。36節37節。だから何とかして何かを得ようとするのではなく、その自分を「捨てよ」と仰って下さる方を信頼して、明け渡し委ねること。このことこそ、解放の道なのだと告げられている。だから自分を捨てることは恐ろしいことではなく、安心して委ねることなのである。神様に対する信頼の中で、私たちは自分を捨てるのである。主に委ね、己を捧げるのである。そのようにすることで、私たちは、神様に帰るのである。

神様が私たちを創造されたのは私たちが自分にしがみつくためではない。自分の利益を必死に追求するために神様は私たちを創造されたのではない。創造の目的は、私たちが愛し合い、神の栄光を表すためである。そのために、自分を捨て、委ねて生きよ、と求められている。その時、私たちは愛し合うことの豊かな解放と真の安らぎを味わう。生かされていることの喜びを味わう。そのために先ず自分を捨てるのである。

更に、「自分の十字架を負う」。それはどのような意味か。それは神様の求めておられる使命に生きることである。神様は私たちそれぞれに果たすべき使命、それぞれの負うべき十字架を与えて下さっている。私たちそれぞれに、私たちにしかできない何かを与えて下さっている。それを担うことこそ十字架を負うことである。教会としても私たちは神様が求めておられる御心を見極めて、その使命を全うすることが求められている。

自分の十字架はもちろん人によってそれぞれである。何らかの責任を担うことかもしれない。病の中に生きねばならないことかもしれない。困難な現実に立ち向かうことかもしれない。そしてこの十字架は決して私たちが喜んで負うことの出来るようなものではない。もしかしたら、逃げ出したくなるようなものかもしれない。

しかし、それがどのようなものであれ、主を信頼し十字架を負う時、神様は道を開いてくださり、神様がどんなに豊かな方でいらっしゃるのかを味わい知るのである。神様の励ましと導きの中で、自分の十字架を負いたい。神様が十字架を負わせて下さり、その使命を果たさせて下さる。

戸惑いの中で十字架を担がされたクレネ人シモンは、無理矢理十字架を負わされた経験の中で、イエス様との出会いに与っていった。私たちも戸惑いと不安の中で自分の十字架を負うことがあるかもしれない。しかしその自分の十字架を担っていくことで、神様にあることの幸いを改めて覚えていくのである。

更に「従っていく」。それはイエス様に完全に服従することである。クリスチャンの生活とは、常にイエス様に従い、思想、言語、行為においてイエス様の命令に服従するものである。イエス様に導かれるままに、イエス様の背中を見て、どこにでも従って行くことである。アブラハムは行方も知らず旅立った。彼はまたイサクを連れてモリヤの山に行き、イサクを燔祭として捧げようとした。ヘブル11章8節頁355.

さて今、イエス様と共に歩もうとする者に求められていることについて考えてみた。それは自分を捨て、十字架を負い、従うことであった。このことが求められている。私たちは、このことに、正直、当惑し、尻込みするかもしれない。イエス様と共に歩みたいと思いつつも、中々決心し委ねることができないかもしれない。しかし、主は私たちそれぞれに、ふさわしい時を備えてくださる。今朝バプテスマをお受けになる松田さんも、9月に奥様と行かれた旅先で思わぬ経験をされた。その出来事を通して、松田さんは夜中に目を覚まし、命の源である主に出会い、初めて奥様に共に祈って欲しいと訴えられた。その経験こそ、主の導きであった。

この経験を通して松田さんはイエスに従う決心をされた。「私どもは自分の心を変えたり、また自分で愛情を神に捧げることは出来ません。けれども神に仕えようと選ぶことは出来ます。意志は神に捧げることが出来ます。そうすれば神は私どものうちにお働きになって、神の喜びたもうように望み、また行うようにしてくださいます。」「キリストへの道」頁60.神が私どもを変えていって下さるのである。

信仰に生きるとは、主イエスの背中を見て歩むことである。決してイエス様の前を歩むことではない。私たちが行きたい所に、イエス様を連れていくのではない。それは自分の都合を優先させ、イエス様を利用し、操作しようとする自分中心な信仰に他ならない。そうではなく、イエス様に従って、歩んでいくことこそ信仰である。私たちが神様に従って歩んでいくと決心する時に、神は「私たちの内に働いて下さって、それを行うようにしてくださる」のです。

U2 ボノ エチオピアの孤児院での救済活動の経験を通して。150億ドル。隠された恵、頁169-170

主イエスについて行く時、私たちはどのような経験に与るのか、どこに行くことになるのか、私たちには分からない。しかし、そこがどこであれ、主にある平安と希望の内に歩むことができるように、神は導いてくださる。

「どんな時にも、どんな場所にも、どんな悲しみにも、どんな苦しみにも、前途が暗く将来が困難に見えて無力と孤独を感じる時にも、信仰の祈りに答えて、助け主が送られる。この世のすべての友から離れるような事情が起こるかもしれない。しかし、どんな事情もどんな距離もわれわれを天の助け主から離れさせることはできない。どこにいようとも、どこへ行こうとも、主はいつもわれわれの右にあって、力づけ、助け、支え、励まされる。」各時代の希望第三巻頁154.

今朝、松田さんの信仰の旅が始まる。いや随分前からその旅は始まっていた。今に至るまで主はその旅を道いて下さったように、これからも主が導いてくださるように祈りたい。

ジョン・ヒックという哲学者がいる。彼がジョン・バニヤンの天路歴程に絡めて、信仰者の歩みを次のように言っている。

二人の旅人がいる。二人の人生には共通点が多い。同じ試練に会い、同じ喜びを分かち合う。けれども、一人は自分が天の都に向かう途上にあると思っているのに対し、もう一人は目的など考えておらず、旅をただの遠足と思っている。結果的に同じ旅であっても、二人にとって別の体験となる。

私たちの人生の旅も、天の都に向かう途上にある。間もなくおいでになるイエス様のご再臨の朝まで、賛美しつつ信仰の旅を続けたい。