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メッセージ2016年12月24日

イエス様に愛された者

今月5日に大分県佐伯市で2歳の女の子 徳永暦ちゃんが迷子になり、翌日に無事に発見されたというニュースが流れた。その時、お母さんやおばあちゃん、そしてひいおばあちゃんは畑で野菜を収穫していたが、目を離した5分ほどのすきに、暦ちゃんがそこを離れていなくなった。どんなに家族の皆さんは慌て心配したことか。たくさんの人が捜索にあたった。その日の内には発見されずに、その翌日の午前、父親のお友達が山陰の窪地に座り込んでいた暦ちゃんが発見された。「暦ちゃん」と呼びかけたら、駆け寄ってきたという。どんなに心細かっただろう。どんなに嬉しかっただろう。家族の皆さんはどんなに安心したことだろう。

 

実は私も子供のころ、次のような助け出された経験がある。12月の年の瀬に、実家は米屋だが、そのお店の前に水が流れる側溝があった。その側溝にぼんやりしていた私は落ちてしまった。そして隣のお店まで水に流され、そこから出ることができなくなってしまった。真っ暗な中で、必死に叫んだ。おじさんが側溝に潜って助けに来てくれた。「人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである」ルカ19:10 と記されているが、このみ言葉に、そしてイエス様の降誕を祝うクリスマスに、いつもその時のことが思い出される。

 

今朝、野坂彩乃ちゃんが、このイエス様と共に歩むことを決心してくれた。とてもうれしいことである。ハレルヤである。

イエス様のどんなところが好きなのかと尋ねたら、私たちのために天から降りて来てくれて、十字架にかかってくださったことと、はっきり言ってくれた。神様は、悪い人でもどんな人でも愛して下さり、何があっても、助けてくださる方と、はっきり言ってくれた。

 

聖書のどの話が好きなのか。ルカ23章に記されている、十字架にかけられた犯罪人の一人が、わたしを思い出してください、と訴えたとき、あなたは今日私と共に天国にいる、と仰ってくださったところという。

 

そして、「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と言った。ルカ23:42

 

するとイエスは、「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言われた。43

 

どんな人になりたいか。まわりにいる人に、このイエス様を証できればと思う。将来の夢は、音楽家か画家になりたいとのこと。

 

聖書の中で一番好きな聖句 詩編36:10 命の泉はあなたにあり、あなたの光に、わたしたちは光を見る。

この聖句が一番好きだということに驚いた。もう少し、有名な聖句を好きなのかなと思ったが、この詩編のみ言葉が好きだという。改めて読み味わってみたが、とても素晴らしいみ言葉だなと教えてもらった。

 

8節から10節までのみ言葉を通して、多くの人が、慰めと励ましを受けたことだと思う。神との深い交わりにおいて、すべての命は新しくされ、力づけられる。神の光によって、この世界と人生を見直すことになる。

どんなに闇が深くとも、どんなに世界が混とんとしていても、あなたの光を通して、世界をとらえ直すことができる、直さなければならないと呼びかけられている。力強いみ言葉あり、希望の根拠がここにこそあるんだなと改めて教えてもらった。

 

ところで、使徒ヨハネは、自分のことを、イエスに愛された者、と表現した。

 

ヨハネ13:23 イエスのすぐ隣には、弟子たちの一人で、イエスの愛しておられた者が食事の席に着いていた。 19:26、20:2、21:7、20

弟子たちのひとりで、イエスの愛しておられた者が、み胸に近く席についていた。

 

イエス様は確かにヨハネを愛された。だからヨハネは、繰り返し、主に愛された者と、自分を紹介している。

 

自己紹介する時に、私たちは出身がどこで、どのような経歴で、家族は何で、仕事はどうかと、いろいろと話すに違いない。

しかし、彼は何よりも、主に愛された者と、イエスの愛しておられた者と、自分を紹介した。

 

私たちが、もしもヨハネのように、自分の第一の身分を、主に愛された者と、見られるようになったら、どうなるのだろうか。私たちの人生は、風景はどうなるだろうか。

 

心理学者は、「人は、自分の人生で最も重要な人物から思われているような人物になる」と言っている。鏡の自分という理論。妻、父、上司、子供等、

 

しかし、考えてみるなら、私たちは全員、イエス様に愛された者、なのである。私たちは、誰であれ、今どこで何をしている者であれ、イエス様に愛された者なのだ。だからこそ、イエス様は天から降りて来て、誕生して下さった。

 

思えば、ヨハネが自分のことを、イエス様に愛された者、と受け止めたように、私たちが自分のことを、どんな私たちであっても、イエス様に愛された者と、受け止め、見ることができるようになることが、クリスチャンとしての成長を告げているのではないか。そして私たちが、自分のことをイエス様に愛された者と告白することを、主はどんなに喜び、嬉しく思ってくださることだろう。

私たちに、イエス様に愛されるにふさわしい何かがあるからではなく、イエス様ご自身が、愛のお方でいらっしゃるから、私たちを愛してくださり、私たちはイエス様に愛された者なのである。

 

詩編36:10 命の泉はあなたにあり、あなたの光に、わたしたちは光を見る。

 

このみ言葉は、図らずもそのことを私たちに告げているのではないか。

 

幸福の黄色いハンカチ。1967年春の週末のある日、シカゴの下町にあるバスタ-ミナルから、セントルイス経由で南部に向かう一台の長距離バスが出発しました。バスには、イ-スタ-休暇を故郷で過ごすために数人の学生達が乗り込んでいました。身軽な服装で、ギタ-等を抱えて、楽しい旅行に胸を弾ませていました。バスは軽快なスピ-ドでイリノイ州の豊かな穀倉地帯を南下していきます。

 

ところで同じバスに一人の初老の男が乗っていることに、若者達は大分前から気付いていました。いたんだ灰色の服を着て、荷物は薄汚れたボストンバッグ一つ。疲れ切ったその顔は、物思いに沈んでいました。

 

やがてバスは、とある小さな町の郊外のレストランの前に停車しました。30分間休憩です。その間に乗客達は昼食を食べるために皆、車を降りました。しかし、例の男は一人バスの中に残っていました。やがて時間が来てバスは再び走り出しました。車中は又賑やかになりました。そして再び休憩地について、皆なは冷たいものを飲み、ハンバ-グなどを詰め込みました。今度はその男も車を降りましたが、店の隅でコ-ヒ-をすすっただけでした。

 

学生達は、この男のことが少し気になり出していました。「あれでお腹が空かないのかなあ」「お金がないのかしら」。一人の女子学生が思いきって声をかけました。「おじさん、サンドイッチは如何ですか」。男は微笑ながら、一つ取り、礼を言いましたが、あとはどんなにすすめられても、取ろうとしませんでした。

 

こんなことがきっかけで、この口の重い男は手短に身の上話を始めました。彼は過去五年間刑務所にいました。三日前に仮釈放されたばかりでした。実は、五年前に彼は刑務所から妻に手紙を書いたのです。

「私のような男を待つ必要はない。良い機会があったら再婚しなさい。ただ子供達だけは愛してやって欲しい。今後、文通も必要ない」。

 

バスの中はし-んと静まり返りました。学生の一人が尋ねました。「それなのにおじさん、あなたは今、その奥さんの所へ帰ろうというのですか」。男はいらいらしたように言いました。「釈放され、私は何年ぶりかで、もとの住所宛で女房に速達を出したのです。今でもそこに住んでいるかどうかも分からないんですが、私はこのバスの時間を知らせてこう書きました。『もし迎えてくれなら、村はずれの樫の大木にハンカチを結びつけておいてくれ』と。もしハンカチがなければ、私はこのまま乗り過ごして行くつもりです」。

 

今やバスの乗客はひとり残らず、その運命の瞬間を、胸が押しつぶされる思いで待ちました。雑談する者もいなくなり、バスのエンジン音だけが快調に響いているだけでした。やがて男はぼつりと言いました。

 

「次の村です。教会の塔が見え始めたら、右側にやがて樫の木があるはずです」。乗客は皆右側の座席に移り、じっと外を眺めました。バスが小さなカ-ブを切ると、遠くに教会の尖塔が見えてきました。「ああ、私は見ることが出来ない」と、男はうめくように言いました。「おじさん、目をつぶってらっしゃい。私達が見ています」。男は目を閉じていました。それはまるで祈っているようでした。

 

二分後、バスの乗客は見ました。夕焼けに映える空を背景に、そそり立つ樫の大木を。その枝という枝に、何十枚、いや何百枚もの黄色いハンカチが、まるで黄金の花を満開に咲かせたように、結びつけられて、春の夕風に揺れ、輝いているのを。

バスの中には歓声とすすり泣きの声がわき上がりました。運転手は高らかにクラクションを吹き鳴らして、その木の前にバスを臨時停車させました。学生達がギタ-の伴奏で歌う「ゴウ-イングホ-ム」の歌声の中を、その男は涙でくしゃくしゃになった顔を振り向けて、「皆さん、有り難う」と繰り返しながら、バスを降りていきました。

 

愛、それは私たちを温めるものです、愛、それは私たちを慰めるものです。この男が、奥さんの待つ故郷に帰った時に、樫の大木に何百枚もの黄色いハンカチを見たように、つまりそれは、「あなた、私はあなたを待っていました。あなたを愛しています」という彼の奥さんからの愛のメッセ-ジであったように、イエス様の誕生と十字架は、いつでも、どこにいても、どんな私たちをも「あなたを愛しています。あなたは掛け替えのない存在です」という神の愛のメッセ-ジなのです。私たちは間違いなく、イエス様に愛された者なのです。

 

神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。ヨハネ3:16

 

今朝、野坂彩乃ちゃんは、イエス様を救い主として受け入れ、私はイエス様に愛された者と告白するように、私たちも改めて、私はイエス様に愛された者なのだと、告白したいと思う。イエス様はそのことを願っておいでだ。

 

イエス様は、失われた者を救うために来てくださった。誕生して下さった。そのイエス様は、インマヌエルと呼ばれる。それは、神われらと共におられる、という意味である。

神は私たちと共にいることを望まれた。私たちもまた、一人では生きていけない。共に生きること、これこそ人の本来の姿。

何故か。神が私たちを、交わりの存在として、共に生きる存在として、お造り下さったから。

その私たちと神様は共に生きることを願い、イエス様を与えてくださった。そしてイエス様は誕生された。この神様のみ心を知る者は、神と共に歩み、そして隣人と共に生きることを選ぶ。