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メッセージ2016年12月17日

私たち一人ひとりのために

音楽礼拝 聖歌隊の皆さんによる讃美礼拝。

神様を讃美し、崇めることは、神様が私たちに求めておられる態度。主の祈り。み名をあがめさせ給え。どんな時にも、崇める。主を讃美することで、私たちを取り巻く事態がどんなであれ讃美したい。その時、私たちは励まされ、主の力と祝福にあずかることができる。

 

さて、イエス様のお誕生を祝うクリスマスほど、讃美にふさわしい時はない。何故、讃美にふさわしいのか。この美しい2千年前の出来事は、神様がどのような方でいらっしゃるのか、改めて味わい知ることができるから。

 

御子の誕生が、夜通し羊の群れの番をしていた羊飼いに告げられた。それはどんな夜であったか。深い闇が一面を覆う、静かな星の輝く夜であった。突然、光が輝き、み使いが現れ、その光はみるみる大きくなり、周りを照らした。

 

「その地方で羊飼いたちが野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていた。すると、主の天使が近づき、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた。」ルカ2:8,9

 

羊飼いたちはどんなに驚き、恐れたことだろう。そんな恐れ驚く羊飼いたちに、天使は告げた。

 

「天使は言った。『恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。』」10,11、12

 

このような喜びの知らせが羊飼いたちに伝えられた。驚き恐れている彼らの前で、この天使に天の大群が加わって、聖歌隊となって神を賛美した。

 

「すると、突然、この天使に天の大群が加わり、神を賛美して言った。「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ。」13,14

そして、このありさまを見て、羊飼いたちは急いでベツレヘムに向かい、イエスを拝したとみ言葉は告げている。クリスマスの旅にこの物語を私たちは聴きなおしたい。

さて、み使いが告げた喜びの知らせ、それは、「今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである」ということであった。この羊飼いに告げられた知らせは、しかし、羊飼いたちだけに告げられた知らせではなく、民全体に告げられる大きな喜び、と言われた。つまり、「あなたがたのために」とは、民全体のために、そして、ここにいる私たち一人ひとりのために、子供も大人も、ここにいる私たち一人ひとりなのだ。

この知らせが告げられた時、天使はそこにいた一人一人の羊飼いを指さしながら、「あなたがたのために」と言ったに違いない。

神様が、この知らせを最初に告げられたのは、この羊飼いたちにであった。それはこの羊飼いたちをどんなに神様は心にかけておられたかを告げている。私たちは嬉しいこと、悲しいこと、とにかく大事な知らせがあった時、誰に知らせるか。大事な人にだ。つまり、羊飼いにこの知らせが伝えられたのは、当時社会的地位も低く、決して裕福ではなかった羊飼いを、神様はどんなに心にかけ、顧みてくださっていたかを物語っていた。

そして、この知らせは、羊飼いたちだけでなく、どんな立場にいる人もいない人も、すべての人を主は顧みていて下さり、今ここにいる私たち一人ひとりに、天使が指さすようにして告げられた知らせとして聞き取るべきものなのだ。

 

告げられた物語は、あなたがたのための、私たちのための、出来事なのだと告げられている。私たちが誰であるかを問われていない。私たちが何人であっても、教会員であってもなくても、更にはこの知らせを理解している人であるかどうかも問われていない。つまり、ここにいるすべての人のために、ここにいないすべての人のためにも、赤ちゃんからお年を召した方のために、いやすべての人のための決定的な物語が告げられた。

 

ではその決定的なこととは何か。それは、救い主がお生まれになった、ということ。救い主が今日、あなたがたのために、そして私たち一人ひとりのためにお生まれになった。

救い主がお生まれになったのは、何のためなのか。私たちは知っている。

 

神の啓示、人の本来の歩み、御心がどのようなものか、私たちに対する愛がどれほど深いものであるかを知らしめるため。

 

「イエスは言われた『わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。」ヨハネ14:6

しかし、最大の目的であり、その使命は、救済者。

「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して下さって、わたしたちの罪のためにあがないの供え物として、御子をおつかわしになった。ここに愛がある。愛する者たちよ。神がこのようにわたしたちを愛して下さったのであるから、わたしたちも互いに愛し合うべきである。」(ヨハネ第一の手紙4章10節11節)

 

私たちを取り巻く事態は、喜びもあれば、今尚、様々な悲しみがあり、不安や戸惑いがある。しかし、その私たちのために、救い主がお生まれになった。だから、希望をもって、気を取り直し、勇気をもって、前に向かいたい。一歩二歩と踏み出したい。なぜなら、神様は私たち一人ひとりを、かけがえのない存在として顧みていてくださるから。この方が、今日ダビデの町でではなく、私たちの心の内に、明日ではなく、今日今ここで、救い主イエスとして、お生まれになる日こそ、クリスマスに違いない。

 

今から60年程前にアメリカで制作された映画、「素晴らしき哉、人生」をご存じの方も、いらっしゃると思います。

ジェ-ムス・スチュワ-ト主演のこの映画は、古き良きアメリカの姿を通して、私たち一人ひとりの人生が、また生かされているこの命が、どんなに価値あるものかということに気付かせてくれる名画です。初めてこの映画を観た時、本当に感動しました。

 

ジェ-ムス・スチュワ-トが扮するこの映画の主人公ジョ-ジは、将来に大きな夢を持っていましたが、父親が急死した為にその夢を断念し、父親の事業を引き継ぐことになった青年実業家です。誠実で優しい気質の彼は、自分を犠牲にして貧しい人たちに尽くしていましたが、叔父の不注意によって会社の資金を失い、悪徳実業家の策略によって追い詰められてしまいます。絶望したジョージは、ついに川へ身を投げてしまいますが、その時天使が現れて彼を救い上げるのです。

そして天使が彼を案内した所は、彼がこの世に生まれなかった場合の、見慣れた町や人でした。もし自分がいなかったら、今の家族や友達、そして町はどうなっていたかという、仮定の世界を見せられるのです。

それは同じ町とは思えないほどに荒れすさみ、ジョ-ジが助けて幸せになった人たちの生活はどん底のままでした。町の人たちの表情も一様に険しく、この有様を見せられたジョ-ジは目を疑いますが、次第に自分がこの世に存在する価値に気付いていきます。「生まれてこなければよかった」と思った彼に、彼が生まれてこなかった場合の世の中を見せることで、彼が如何に素晴らしい人生を歩んできたかを理解したのです。そして再び希望を取り戻して家族の元へ戻るのですが、そこへ町中の人たちが彼を支援するために駆け付け、失った額を補って余りあるお金が寄せられたという奇跡のストーリーです。思えば、聖歌隊の皆さんが、最初に讃美した「あめには栄え」はこの映画の最期にうたわれた讃美でした。

 

私たちも、仕事に失敗したり、取り返しのつかない過ちを犯して、自信を失うことがあります。また、思わぬ成り行きや思いもよらない災難の中で、立ち上がることさえできないことがあるかも知れません。しかし、「そんなあなたを必要としている人があなたの周りに必ずいるのです。あなたはこの世に無くてならない、掛け替えのない存在なのです」と、この映画は語りかけているのだと思います。

しかし、御子イエス様の誕生を祝うクリスマスが告げているメッセージは、正に、私たち一人ひとりはかけがえのない存在であること、そしてこの私たち一人ひとりのために、主なる神様は私たちのために天から降りて来て下さり、私たちのために命を捧げてくださったことを告げています。

 

聖書には、行くべき道や目標、希望を失っている人間を、「迷い出た羊」にたとえた有名な箇所があります。「百匹の羊の内、一匹でも迷い出たならば、九十九匹を残してその一匹を探しに行き、もし見つけたなら、その一匹のために喜ぶだろう」そして、「そのように、これらの小さな者が一人でも滅びることは、あなたがたの天の父の御心ではない」(マタイ18:14)と記されています。

 

神様が、私たち一人ひとりを掛け替えのない存在としてこの世に生まれさせて下さったことを改めて覚えたいと思います。

 

御子イエス.は一切を私たちに与え、私たち人間の罪の身代わりとなって十字架にかかって下さった。クリスマスはその御子イエスの誕生を祝うものだが、「今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった」という羊飼いに告げられた知らせを、今新たに聞き取りたい。あなたがたのために、私たちのために、私たち一人ひとりのために救い主がお生まれになった、という知らせを、今日ここで新たに聞き取り、私たちの心の中に誕生する御子イエスを祝い、み前にひれ伏したい。