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メッセージ2016年11月19日

互いに重荷を担いなさい

2016年秋

ご挨拶、早いもので、美しい季節を迎えた。季節と共に生きとし生けるものの表情が変わっていく。先日テレビで十和田湖奥入瀬渓流の紅葉が放映されていて、心洗われるような美しさに感動した。しかし、私たちの教会の紅葉も美しく捨てがたい。本当に美しい。しかし、しばらくすると、この季節を彩った欅や紅葉の葉が枯葉となる。この季節ならではの作業があることを感謝したい。

 

かつてマーチン・ルーサー・キングは、私には夢があると説教した。

私には夢がある。それは、邪悪な人種差別主義者たちのいる、州権優位や連邦法実施拒否を主張する州知事のいるアラバマ州でさえも、いつの日か、そのアラバマでさえ、黒人の少年少女が白人の少年少女と兄弟姉妹として手をつなげるようになるという夢である。

私には夢がある。それは、いつの日か、あらゆる谷が高められ、あらゆる丘と山は低められ、でこぼこした所は平らにならされ、曲がった道がまっすぐにされ、そして神の栄光が啓示され、生きとし生けるものがその栄光を共に見ることになるという夢である。

私たちの教会がみ言葉に忠実で、祈り合う教会となることが出来るなら

私たちの教会が愛し合い、喜びと思いやりに満ちた教会となること

私たちの教会が賛美と感謝に満ち、豊かに実を結んでいくなら

その時、続々と仲間が加わり、地の塩、世の光として、この教会に委ねられた使命を果たすことが出来る

 

そのような教会を目指したい。そのような教会に少しでも近づくことが出来るように祈りたい。教会に連なるお一人ひとりと力を合わせ、また、英語学校や、小学校、シャロームと力を合わせ、その実現に向けて祈りたい。

 

教会はイエス様を具体的に証しする神様の家である。主の家族として召された私たち一人ひとりは、イエス様を証するために、それぞれに何某かの役割を与えられている。神様の栄光のために私たちを神様は用いて下さる。

 

役員推薦委員会では次期教会役員としてご奉仕してくださる方々の推薦作業をしている。来週、来年度の教会役員の提案を皆様にお諮りすることができればと考えている。

教会は、他でもないが私たちの教会である。私たちが教会である。コリント第一の手紙12章27節には「あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人はその部分です」と記されているが、主の手となり、足となり、「キリストのからだ」であるこの教会の運営のためにご奉仕していきたい。教会役員となるか、あるいは、働きを支援するサポーターとしてご奉仕いただくかはともかくも、神様は私たち一人ひとりを神様の御業のために召しておられる。

 

そこで今朝、キリストの体である教会の働きを実りあるものとするために、私たちがそれぞれに与えられている賜物と教会での役割の関係について考えてみたい。

 

まず第一に、賜物は私たちそれぞれに与えられている。タラントのたとえにもあるように、私たちには、それぞれ何らかの賜物が与えられている。聖書には次のように記されている。

ペテロ第一の手紙4章10節 あなたがたはそれぞれ、賜物を授かっているのですから、神のさまざまな恵みの善い管理者として、その賜物を生かして互いに仕えなさい。

 

このみ言葉から分かるように、私たちにはそれぞれ賜物が与えられている。賜物の豊かか少ないかが問題ではない。どんな賜物かということも問題ではない。それぞれに神様が与えて下さった賜物を生かして互いに仕えなさい、と言われている。

私たちは、恵みの善い管理者として、その賜物をほかの人の賜物と比べてはならない。比べることで、私たちは上から目線になり、人を見下したり、あるいはまた、妬ましく思い惨めに思ったりする。

この教会には、様々な賜物を持った方々が主にある家族として召されている。様々な経験、知識、脳力を持った方々が主の家族として召されていることは感謝だ。その与えられ、授かっている賜物の善い管理者として、その賜物を生かして仕えていきたい。

 

イエス様が5千人もの人たちのお腹を満たした物語を私たちはよく知っている。5千人もの人たちを前にした時、イエス様はお腹を満たしてあげるように言われた。その時に、一人の少年がパン五つと魚二匹をアンデレに差し出した。そのわずかな食べ物をイエス様が祝福した時に、それはそこに居合わせたすべての人のお腹を満たして余りあるものとなった。そしてこの出来事はいつまでも弟子たちの心に強烈な印象を与えた。だから四福音書のすべてにこの物語は記されている。

 

この物語を私たちは幾度も読み味わっている。この物語から何を聞き取ることができるだろうか。この物語から、いろいろ考えてみることが出来るが、その一つは、私たちがそれぞれの賜物をどのように用いるべきかを告げているのではないか。

少年の持っていたものは、極わずかなものであった。しかし、そのわずかなものを、少年が主に捧げたときに、イエス様はそれを幾倍にも増し加えて下さった。

つまり、それがどんなにわずかなものであっても、その賜物を主に捧げる時に、主はそれを豊かに祝福してくださる、と告げている。

 

私たちに求められているのは、私たちの持っている賜物の大小でも、どんな賜物かでもなく、その賜物がわずかなものであっても、主にお捧げする時に、生かして用いる時に、主はそれを幾倍にも増し加えて下さるということである。

私たちも、与えられているそれぞれの賜物を用いて、神様にお仕えしていきたい。私たちは、恵みのよき管理者として、それぞれの賜物を生かして用いることが求められている。

 

ペテロ第一4:11 語る者は、神の言葉を語るにふさわしく語りなさい。奉仕をする人は、神がお与えになった力に応じて奉仕しなさい。それは、すべてのことにおいて、イエス・キリストを通して、神が栄光をお受けになるためです。栄光と力とが、世々限りなく神にありますように、アーメン。

 

第二に、賜物は他者の益となるように与えられている。周りの人々の祝福となるように与えられている。

コリント第一手紙12章7節 一人一人に〝霊〟の働きが現れるのは、全体の益となるためです。

私たちがそれぞれに与えられている賜物を、他者の益のために用いる時、神の栄光が現わされる。

 

今考えてみた、5千人もの人たちのお腹を満たした物語で、パン五つと魚二匹を持っていた少年が、それを差し出さずに、自分で食べてしまったら、そこにいた人たちはお腹を満たすことはできなかった。

しかし、そのわずかなものをイエス様に差し出した時に、イエス様は、そこに居合わせたすべての人のお腹を満たして余りあるものとしてくださった。

この物語は、私たちはそれぞれの賜物を、自分のためだけに用いるのではなく、他者の益のために用いる時に、如何に豊かな実を結ぶことになるか、またそのことを通して、如何に神様の栄光が現わされるかを如実に物語っている。

 

第三に、神様が何かの役割を与えてくださったなら、その役割を担っていく上で必要な支えと導きとを、神様は与えて下さる。

 

フィリピの信徒への手紙4章13節 わたしを強めてくださる方のお蔭で、わたしにはすべてが可能です。

 

モーセが神様にエジプトに行けと召された時、彼はどうしたか。ミデアンの地で羊飼いをしていたモーセに、主が現れた時のことを私たちはよく承知している。柴が燃えているのに、その柴が燃え尽きない不思議な光景を見たモーセが、柴に近づいた時、「モーセよ、モーセよ」と主が呼びかけられた。モーセは「はい」と答えると、「ここに近づいてはならない。履き物を脱ぎなさい。ここは聖なる地。私はあなたの神、私はエジプトの我が民の苦しみを見た。そこであなたをファラヲのもとに遣わす。そしてエジプトから我が民を連れ出せ」と言われた。

出エジプト3章

11節 モーセは神に言った。「わたしは何者でしょう。どうして、ファラオのもとに行き、しかもイスラエルの人々をエジプトから導き出さねばならないのですか。」

12節 神は言われた。「わたしは必ずあなたと共にいる。このことこそ、わたしがあなたを遣わすしるしである。あなたが民をエジプトから導き出したとき、あなたたちはこの山で神に仕える。」

 

モーセがその働きに召し出されたとき、モーセは誰かほかの人にと訴えた。しかし、神はモーセを捕らえ、その働きへと召し出された。モーセにとって、神の召しは大きな戸惑いであり、不安であった。どんなに大きな戸惑いであり、不安であったろう。

しかし、その戸惑いと不安の中で、彼は主に従ってエジプトに向かった。そして見事にその役を担い責任を果たしていった。

 

ケネデイー大統領 自分の賜物にふさわしい仕事役割を求めるのではなく、自分の置かれ立場にふさわしい能力を求めよ。

 

私たちも、何某かの働きが与えられる。神様がその働きをお与え下さる時、それがどのようなものであれ、その働きを担う上で必要な導きを神様は与えて下さる。

 

イザヤ41章9節 わたしはあなたを固くとらえ 地の果て、その隅々から呼び出して言った。あなたはわたしの僕 わたしはあなたを選び、決して見捨てない。

10節 恐れることはない、わたしはあなたと共にいる神。たじろぐな、わたしはあなたの神。勢いを与えてあなたを助け わたしの救いの右の手であなたを支える。

 

私たちが働きに携わる上で、困難がないわけではない。不安や戸惑いを覚えることがある。しかし、主は、私たちと共にいて下さり、神様の御業のために必要な支えと励ましを与えて下さる。

第四に、自分の能力や賜物ではない働きへ、私たちが情熱を注ぎにくい分野へ導かれることもある。そのような場合、当然のこと、私たちは当惑する。当然のこと、自分ひとりの力では、わずかなことしかできない。

しかし、賜物や情熱が十分ではないと思われる分野に導かれた場合、周りの方々と力を合わせて、その業を成し遂げるように、神様は私たちを一致することの美しさと豊かさへと導いてくださる。

逆に、自分に賜物や情熱が与えられている分野での働きに召される時、ともすると独断専行してしまうことがあるかもしれない。

それなりに経験のある場合や、賜物に恵まれている場合、誰かと協力してことをなすよりも、一人で気ままに事に携わることのほうが効率も良い場合も少なくない。

しかし、神が私たちに求めておられるのは、私たちが一人でことを進めることではなく、兄弟姉妹と心を一つにして、何某かの業を果たすことである。他者と力を合わせて、ことをなすことである。

そもそも、神は何某かを成し遂げることよりも、もちろんそのことは大切なことに違いないが、そのこと以上に、私たちが心ひとつになることをこそ、望んでおられるのではないだろうか。

そして私たちが、本当に主にあって心ひとつになるなら、大抵のことは実際なるのである。

 

思えば、エリコの城壁を崩した時、神はなそうと思えば、城壁をお崩しになることも、もちろんおできになった。

しかし、あえて、イスラエルの民を導き、6日間エリコの城壁を一日一回を巡らせ、そして七日目に七周させ、角笛を吹かせたことで、難攻不落と思われたエリコの城壁は崩れていった。

この時、ヨシュアに導かれたイエスらエルの民の中には、特別に賜物に恵まれていた人がいたわけではない。彼らに求められていたのは、神様を信頼して心を一つにしたことであった。その時、だれ一人、主の導きを疑わずに、彼らは心を一つにしてヨシュアに従い、七日目に七周を巡って、角笛を吹き、勝鬨を挙げた。そして難攻不落の城壁は崩れた。

 

求められていたのは、特別な賜物ではなく、誰もが主にあって心ひとつになることであった。その時、城壁が崩れた。同じように、心ひとつになる時に、大抵のことはなるのである。み言葉には、次のように記されている。

 

コリント第一の手紙12章12節 体は一つでも、多くの部分からなり、体のすべての部分の数は多くても、体は一つであるように、キリストの場合も同様である。13節 つまり、一つの霊によって、わたしたちは、ユダヤ人であろうとギリシャ人であろうと、奴隷であろうと自由な身分のものであろうと、皆一つの体となるために洗礼を受け、皆一つの霊をのませてもらったのです。

 

ガラテヤその信徒への手紙6章2節 互いに重荷を担いなさい。そのようにしてこそ、キリストの律法を全うすることになるのです。

私たちも、支えあい、励ましあい、神様のみ栄のために、互いの重荷を担いあいたい。

 

今、次期教会役員推薦作業がなされている。何度も話し合い、祈り合い、教会の働きを担っていただく方々を推薦させていただいた。様々な役があるが、推薦され、、そのお役をお引き受けてくださった方、祈りをもって支えてくださる方、共に心ひとつになって、教会が豊かに実を結ぶことが出来るように、互いに重荷を担いたいと思う。

ある方とお話をした際に、その方はあるお役の推薦をいただいて、二日間休むことが出来なかったと言われた。それだけ真剣に考え、祈ってくださった。感謝したい。

 

各時代の希望に、次のような力強い約束が与えられている。Ⅲ、頁377-8「心と体と魂を神に捧げるものは誰でも体力と知力の新しい賜物をたえず受けるであろう。天の尽きることのない補給は彼らの思いのままに与えられる。キリストは彼らにご自身の霊の息吹、即ち、ご自身の命をお与えになる。聖霊は心と思いに働くためにその最高の能力を注がれる。神の恵みは彼らの能力を幾倍にも大きくし、神の性質のあらゆる完全さが、救霊の働きにおいて彼らの助けとして与えられる。キリストとの協力によって、彼らはキリストのうちにあって完全であり、人間的な弱さの内にあっても全能者の行為をなすことが出来る」。

 

手のないキリスト

「第二次世界大戦の時、連合軍の飛行機は、ドイツの町々を猛爆撃した。ある町の古いカトリック教会も、その爆撃によって、すっかり破壊されてしまった。

やがて戦争が終わり、人々は教会の復興に取りかかった。崩れ落ちた煉瓦や石の柱、粉々になったステンドグラスの破片を取り除いていくと、下から大理石の彫像が出てきた。それは有名な彫刻家の作ったキリストの像で、この教会の名物になっていたものだった。あの爆撃で建物の下敷きになってしまっていた。「あまりひどく傷ついていなければいいが」と心配しながら、注意深くそれを掘り出した時、人々はがっかりしてしまった。キリストの頭の部分と胴の部分は、ほとんど損傷を受けていなかったが、両手は完全にもぎ取られて、しかも粉々になっていた。

教会の人々は集まって、これをどうしたらよいかを相談した。ある人は言った。「こんなみっともないキリストは、新しい教会堂には置けない」。他の人は言いました。「何といっても由緒ある芸術作品なのだから、補修しておくことにしよう」。又別の人は「同じ彫刻家に頼んで、新しい像を造ってもらおう」。議論はなかなか尽きない。今まで無言のまま、みんなの意見に耳を傾けていた一人が、こう言った。「私は、この手のないキリスト像をそのままの形で、教会の中に置くのがいいと思います。教会に集まる時、わたしたちはこのキリストを見る度ごとに、誰がキリストの手となり、足となって働かねばならないかを考えさせられるでしょう。この教会が、御旨を行う主の手とならないならば、キリストは手のないままで、立ちつくされるに違いありません」。手のないキリスト像は、そのままの形で、教会の中に置かれることになった。

 

神様は今私たちを「キリストのからだ」を担う、掛け替えのない、大事な一人一人として招いておられる。神様の招きに答え、互いに重荷を担いあいたい。

今祈祷会で人類の曙を読んでいる。今週アブラハムの召しの個所を読み味わった。その時次のような箇所が心に残った。

 

神がお語りになったのであるから、神のしもべは従わなければならなかった。

彼にとって、この地上で最も幸福な場所は、神が彼にいるようにお望みになるところであった。人類の曙上頁122、希望への光頁61

私たちにとって、この地上で最も幸福な場所は、神様が私たちにいるようにお望みになるところである。

私たちにとって、この地上で最も幸福な役割は、神様が私たちに担うようにお望みになる働きである。

 

今年も残すところ、あとわずかである。敷地内の木々も色づいている。それぞれの季節を潜り抜け、役割を果たした葉は、今、枯葉となり風に舞い始めている。思えば、生きとし生けるすべてのものを支え導いている命の風が、今も絶えず吹き渡り、私たちを支え導いて下さっている。私たちも、肩の力を抜いて、この神様の風、聖霊の注ぎに与ることさえできれば、この神様に委ねさえすれば、私たちもそれぞれの役割を担っていくことが出来るように、神様は導いて下さる。聖霊の風に導かれて歩みたい。