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メッセージ2020年9月5日

ギデオン ヨハネの手紙第一5:19

皆さんおはようございます。今日のメッセージは7月18日の「ギデオンと勇者たち」の続きです。前回300人で立ち向かって勝利したお話をいたしました。でも、それでギデオンのお話は終わりではありません。今日取り上げようとする士師記8章はギデオンの物語の最後の部分となります。最初に士師記を読んでいきます。
まず8章10節。

8:10 ゼバとツァルムナは、約一万五千の軍勢を率いてカルコルにいた。すべて東方の諸民族の全軍勢の敗残兵であった。剣を携えた兵士十二万が、既に戦死していた。

この記述で、前回のメッセージでギデオンたち300人が戦ったミディアン人の兵士の数を13万5千人としました。300人でこの軍隊を蹴散らしましたが、300人でとどめを刺したのではありません。実は7章23節以下にその時のことが語られています。

7:23 イスラエル人はナフタリ、アシェル、全マナセから集まり、ミディアン人を追撃した。
7:24 ギデオンは、使者をエフライム山地の至るところに送って、言った。「下って来て、ミディアン人を迎え撃ち、ベト・バラまでの水場とヨルダン川を占領せよ。」エフライム人は皆集まって、ベト・バラまでの水場とヨルダン川を占領した。
7:25 彼らはミディアンの二人の将軍、オレブとゼエブを捕らえ、オレブをオレブの岩で、ゼエブをゼエブの酒ぶねで殺し、ミディアン人を追撃した。彼らはオレブとゼエブの首を、ヨルダン川の向こう側にいたギデオンのもとに持って行った。

これによると、最初にミディアン軍を自滅、混乱させ、敗走させたのは確かにギデオンの率いる300人。しかし逃げていくミディアン軍を迎え撃ち、滅ぼしたのは、その後に集まって来たイスラエルの人々です。その中にエフライムの人々がいました。エフライムはイスラエルの12の部族の一つです。彼らはここでギデオンの呼び掛けに応えて参戦、ミディアンの2人の将軍オレブとゼエブを捕らえ殺し、勝利を決定的にしたのです。
しかし8章に移り、この戦いが終わった後、エフライムの人々がギデオンに抗議をしています。8:1で彼らはギデオンに、「あなたはミディアンとの戦いに行くとき、わたしたちを呼ばなかったが、それはどういうことか」と文句を言ったのです。この「わたしたちを呼ばなかった」というのは、ギデオンがミディアンと戦うために最初に召集をかけた時のことです。

6章34、35節が最初の召集の時です。

6:34 主の霊がギデオンを覆った。ギデオンが角笛を吹くと、アビエゼルは彼に従って集まって来た。
6:35 彼がマナセの隅々にまで使者を送ると、そこの人々もまた彼に従って集まって来た。アシェル、ゼブルン、ナフタリにも使者を遣わすと、彼らも上って来て合流した。

とありますから、ギデオンの召集にまず応じたのはアビエゼルの人たちでした。これはギデオンに近い、一族や同じ仲間の人々です。ギデオンは「アビエゼルの人ヨアシュの子」、ギデオンに近い人々が、最初に助けに集まって来たのです。彼らはイスラエルの部族の中ではマナセ族、だから次に同じ部族であるマナセ族に使者が送られ、マナセの人々が集まったのです。さらにアシェル族、ゼブルン族、ナフタリ族にも声が掛けられました。この人たちはイスラエルの上の方、北側に住む部族です。
しかしエフライム族はマナセ族の南に位置する部族です。彼らにはこの時は使者が送られず、ギデオンの勝利が決定的になってから声が掛けられたのです。エフライムの人々はそのことに文句を言っているのです。
なぜ最初に声をかけなかったか。これは地理的な問題だけではなかったようです。
そもそもマナセとエフライムという2つの部族には微妙な関係がありました。イスラエルの12の部族は基本的に、イスラエルという名を神から与えられたヤコブの息子たちに起源があります。しかし特別な部族があります。ヤコブの息子で一族がエジプトに移住することによって飢饉から救われたことの立役者となったあのヨセフについては、その二人の息子マナセとエフライムが特別に独立した部族となりました。つまりマナセとエフライムだけはヨセフの息子たちから生まれています。2つの部族はまさに兄弟。だからこそ、両者の関係は必ずしもよくなかったようです。ヨセフは二人の息子たちがそれぞれ1つの部族の先祖となることを考えて、年老いた父ヤコブに二人を祝福してもらおうとしました。そのことが創世記第48章に語られています。
それを見ると、ヨセフは2人をヤコブの左右に立たせて、右手と左手を置いて祝福を受けさせようとしたのです。右手の方が左手よりも重要と考えられていたので、兄であるマナセをヤコブの右に、弟エフライムを左に立たせました。ところがヤコブは、祝福を与える手を交差させて、右手でエフライムを、左手でマナセを祝福しました。ヨセフはそれを間違っていると指摘までしたのです。しかしヤコブはそれを遮り、弟エフライムの方が兄マナセよりも大きな部族になると預言したのです。
ここに、マナセとエフライムの微妙な関係、対立が始まるのです。この時の対立が、2つの部族の間の対抗意識につながり、時を経てこのミディアンとの戦いの場面にも現れているのです。
この神の民イスラエルの中にもこのような部族間の対立があったのです。
私たちから見ると、マナセもエフライムも共にイスラエルの民、主なる神の選びと恵みを受けた神の民です。しかし、実際はねたみの思いをもち続けていた。マナセ族であるギデオンがミディアンを打ち破る素晴しい働きをした、そしていくつかの部族がその戦いに共に参加したのに、自分たちエフライム族は呼ばれず、参加できなかった、自分たちはのけ者にされた、そういうねたみが、このような抗議を生んだのです。これが神の民イスラエルの現実なのです。
これは部族だけではありません。誰もがこのような人間としての弱さや罪をかかえているのです。例えば、皆さんは兄弟がいらっしゃいますか。中がいいですか。わだかまりはありませんか。ちょっとしたことが、相続の時に大きくこじれる原因となる話をよく聞きます。早く解決しておいてください。表面的にはよくても、それがふとしたことで現れてしまう。それは仕方がないことかもしれませんが、このような対立は神様のみ心ではないのです。

さて、ここで私たちが見つめるべき大事なことがあります。
それは、神の大きな働きはこのような弱さや罪をかかえたイスラエルの民の中で行われ、前進していたのだということです。
それはこの教会の歩みにも当てはまります。教会の中でいろいろな批判が出てきます。その時言われるのが「ここは教会ではないのか」「教会だったらきちんとしろよ」。でも実際は私たち一人ひとりも、弱さや罪をかかえています。それによって教会の中にも、様々な思いが起り、争い、対立も生じるのです。それでも、私たちは神様に用いられながら乗り越えていく。それが地上での私たちの戦いであり、苦難を乗り越えることで信仰が成長していくのです。それを祈り求めていくことが大切なのです。その弱さを通して主の救いのみ業が力強くなされていくのです。このギデオンの戦いはそういうことを示しています。

ではギデオンはこの問題をどうしたでしょうか。
抗議してきたエフライムの人々に対してギデオンはこう答えました。
2節です。
「あなたたちと比べて、わたしが特に何をしたというのか。エフライムに残ったぶどうは、アビエゼルが取ったぶどうよりも良かったではないか。神はミディアンの将軍オレブとゼエブをあなたたちの手に、お渡しになったのだ。あなたたちと比べて、わたしに特に何ができたというのか」。
簡単に言うと、私のしたことはあなたたちの働きに比べたら取るに足りない。エフライムの人々が行ったことの方が素晴らしかったではないですか。そう言ってエフライムを立てています。本当ならこんなことは言わなくてもよいのかもしれません。
売り言葉に買い言葉であれば
「私はたった三百人で十三万五千の敵と戦ったのだ。あなた達は自分たちを呼ばなかったと文句を言うが、呼んだらすぐに私のもとに本当に来ましたか。あなた達が戦いに加わったのは、勝ちがはっきりしていたからではないですか。もし私がミディアンに打ち負かされていたら、君たちは知らん顔をして私を見殺しにしたでしょう。」
本当ならギデオンはこう答えたかったかもしれません。
しかしギデオンはエフライムの人々を立てるのです。それによってエフライムとの争いを避け、平和を築こうとするのです。
なぜもっと毅然とした態度を取れないのか、そう思う人もいるかもしれません。しかしギデオンは自分の力によってではなく、ただ神様の恵みによって勝利を与えられた。そのことがよく分かっていたのです。エフライムの人々が言ったことは理不尽な言いがかり、反論しようと思えばいくらでもできる。しかしそうするなら、神の民イスラエルの間の対立が深まっていくばかり。自分が誇りを捨てて相手を立て平和が得られるならばそうする。これこそが神様の恵みによって生かされている人が持つことのできる本当の強さであり、また謙遜な姿なのです。
ギデオンの謙遜が最もはっきりと現れているのは22節以下です。ミディアン人を打ち破り、その脅威から解放してくれたギデオンにイスラエルの人々は心から感謝してこう言っています。
「ミディアン人の手から我々を救ってくれたのはあなたですから、あなたはもとより、御子息、そのまた御子息が、我々を治めてください」
つまり、ギデオンにイスラエルの王になってほしい、というのです。この時代、イスラエルにはまだ王がいません。危機の時にその都度神様によって士師が立てられ人々を治め、指導していました。でも人々は常に自分たちを導き、守ってくれる目に見える王が欲しいという思いがありました。このギデオンこそ王となるのに相応しいと思ったのです。
しかしギデオンは答えます。
「わたしはあなたたちを治めない。息子もあなたたちを治めない。主があなたたちを治められる」
まことの王は主なる神だ。主こそが王として私たちを治め、導いておられるのであって、自分はその王である主に用いられたに過ぎない。だから自分は王になるつもりはない、とギデオンは言ったのです。ここに、ギデオンの、主なる神に対するまことの謙遜が示されています。ミディアンとの戦いに勝利したことよりもはるかに優るギデオンの栄光がここに描かれている、と言うことができるのです。
本当はここでお話を終えたいところです。しかしギデオンの話はそれだけでは終わりません。
24節以下に続くのです。
ここでギデオンは、戦いの戦利品、金製品を集めて、それでエフォドを作り、自分の町に置いたとあります。
27節を読んでみましょう。
「ギデオンはそれを用いてエフォドを作り、自分の町オフラに置いた。すべてのイスラエルが、そこで彼に従って姦淫にふけることになり、それはギデオンとその一族にとって罠となった」
エフォドとは、普通には祭司の着る祭服のことです。ホワイト夫人は祭服と胸当てを作った書いています。ただ、この言葉は偶像に関連して出てくる言葉でもあります。もしかすると金で造られた像、つまり偶像だったのかもしれません。いずれにしてもギデオンは金で作ったものを自分の町に置いた。そしてイスラエルの人々はそれを拝み姦淫、もしかすると偶像礼拝をしていったのです。
金で作られたエフォド、これを拝めば、ギデオンの得たあの素晴しい勝利にあずかれる、小さな力で大きな敵に立ち向かう力が与えられる、そう思ったのかもしれません。でもこのようなことは主なる神にのみ信頼することをやめることにつながります。
王を求めること、ギデオンを拝むこと、金を拝むこと、これは目に見えない神が王であるよりも、目に見えるものを、という人々の思いが現れたものです。ギデオンは人々の心を、ミディアンとの戦いに勝利を与えて下さった主なる神から離れさせてしまったのです。

そうするとギデオンの謙遜の言葉、主こそがイスラエルの王なのであって、自分や息子が王となるべきものではない、という言葉は果して本心だったのだろうか、という疑問すら生じます。
その疑問は、31節にある彼の息子の名前とも関係してきます。ギデオンが亡くなる最後の記事、31節には、そばめの1人が生んだ息子にアビメレクという名をつけたとあります。アビメレクという名前は、「父は王である」という意味です。この子の父である自分は王である、という思いがそこに現れています。ギデオンは、自分と息子を王にしようとした人々の申し出を断っているけれども、本当はどうであったか。ギデオンに関する聖書の記述はなかなか複雑です。
このように聖書はギデオンを単純に信仰の偉人、神に用いられた英雄、神に対する謙遜のモデルとして描いているだけではありません。ギデオンの栄光も勿論語られていますが、同時に、口では信仰的なことを言い、謙遜を装いながら、実は自分の誉れを求め、王になろうという思いを持っていたという別の面、信仰における挫折も同時に書かれているのです。
だから、ギデオンの姿はまさに私たち自身の姿でもあるのです。

最後に今日の聖書朗読の箇所、ヨハネの手紙一5章19節を開いてみましょう。(447p)
この前後に著者ヨハネは3つのことを並べて書いています。18節からお読みしましょう。
一ヨハ
5:18 わたしたちは知っています。すべて神から生まれた者は罪を犯しません。神からお生まれになった方が、その人を守ってくださり、悪い者は手を触れることができません。
素晴らしい約束です。しかし、次の言葉が続きます。
5:19 わたしたちは知っています。わたしたちは神に属する者ですが、この世全体が悪い者の支配下にあるのです。
私たちはこの世全体が悪い者の支配下にあることを認めないといけません。神に属する者とされたギデオンも、私たちも、この世にある限り、悪い者の支配下の影響を受けるのです。
だから、瞑想の言葉 「最高の地位に立つ人が、誤った方向に導くかも知れない。最も賢明な人も過失を犯す。最も強力な人もよろめき、つまずくことであろう。」このことを認めないといけないのです。ギデオンも誤った道を行きました。
だから「上からの光が常にわれわれの道を照らす必要がある。」のです。
だからヨハネは3つ目、最後に言っているのです。
5:20 わたしたちは知っています。神の子が来て、真実な方を知る力を与えてくださいました。わたしたちは真実な方の内に、その御子イエス・キリストの内にいるのです。この方こそ、真実の神、永遠の命です。
私たちは上からの光を、知る力を頂かなくてはいけないのです。それはどこにあるか。神の子、イエスの内です。
瞑想の言葉最後です。
「わたしに従ってきなさい」と言われた主になんの疑いもいだかずに、信頼することが唯一の安全な道である(マルコ2:14)。」

神の子である主イエス・キリストがこの世に来て下さり、真実な方、父である神を示して下さり、安全な道を示して下さるのです。このイエス様によって私たちは、神に属する者、「真実な方の内に、その御子イエス・キリストの内にいる」者であり続けることができるのです。それが本当のイエス様による救いです。信じることの救いは、悪の支配下から神の支配下へと移されるだけ。でもそこに留まり続けなくていけないのです。
しかしこの世は悪いものの支配下にあるのです。だから、私たちは日々イエス様に頼らなくてはいけないのです。これが現実なのです。
この3つの聖句を心に刻み付けて、日々の歩みをしていきたいと思います。
皆様の上に神様の守りが豊かにありますようにお祈りいたします。