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メッセージ2020年9月26日

足を洗うとは ヨハネ13:1

皆さんおはようございます。
今年教会は新型コロナウィルス感染の広がりのために2月の終わりから休会をして、6月中旬までそれが続きました。そのため3月終わりに行うはずだった聖餐式を行うことができませんでした。また6月の終わりに行うはずだった聖餐式も、集会再開直後であり時期尚早であろうということで中止をいたしました。本来ならば今日は期の最後ですので聖餐式を行う予定でした。しかし今回もまだ状況が変わっていません。洗足式が密になるなどの理由で洗足聖餐式は中止しています。私たちは教会指針にあるように「通例、聖餐式は1期に1回行われる」を守っていたので1期に一度行っていたのですが、それを行うことができずにいるのは本当に寂しいことです。皆さんはこの儀式には「洗足の式」と「主の晩餐の式」をセットで考えられていると思います。そのためどうしても聖餐式だけ行うことに抵抗があるのですが、もしこの状況が続くようであれば、洗足式を皆さんの家で行って頂いたり、洗足式だけを礼拝の時でなく、事前に行うことで密を避け聖餐式を行うことも考えなくてはいけません。
いづれにしても、まだ儀式として行うことがまだできませんので、この式を大切に考えていく礼拝の時間を持ちたいと考えてメッセージを頂きました。
最初に聖句をお読みいたします。
ヨハネ13章1節から(新194p)
◆弟子の足を洗う
13:1 さて、過越祭の前のことである。イエスは、この世から父のもとへ移る御自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた。

過ぎ越しの祭りに集まっていた木曜日の夜。この時イエス様はいよいよ御自分が、全人類の罪のための贖いの小羊、神に供えられる聖なる神のいけにえの小羊となる時が近づいたこと、そしてこの夕食が、愛する弟子たちとの地上での最後の晩餐になることを考え、この時を持たれました。
そして最後の最後に一番伝えたかったことを、この最後の晩餐の時に弟子たちに話したのです。それも言葉だけではなく実際に行いながら、弟子たちに深くその心に刻みつけようとされました。
この場面、いつも心に残るのは「世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた」という言葉です。しかしこの十二弟子の中には裏切り者もいました。聖句が続きます。

13:2 夕食のときであった。既に悪魔は、イスカリオテのシモンの子ユダに、イエスを裏切る考えを抱かせていた。

悪魔は既に、イスカリオテのユダにイエス様を裏切る考えを抱かせています。しかしこのユダの裏切りはこの時、急に沸き起こったものではありません。
だから、ここに二つの疑問が生まれるのです。
なぜイエス様はそもそも弟子たちの中にわざわざ裏切るものを入れておかれたのでしょうか。そしてなぜイエス様はユダが裏切り者であることを知っていながら、黙ってそのままにされていたのでしょうか。
私がイエス様だったら裏切り者が分かった時に彼を弟子の中から追放していたでしょう。
「裏切り者。ここはお前の来るところではない。出て行け。」
でも皆さんの中には、イエス様があの毒麦のたとえでおっしゃっていることを思い出す方もいらっしゃると思います。天で良い種を撒いた畑に、敵が来て毒麦を撒いていったたとえです。毒麦を抜いておきましょうと言う僕たちに向かってイエス様はこう言われています。

マタ13:29,30(25p)
13:29 主人は言った。『いや、毒麦を集めるとき、麦まで一緒に抜くかもしれない。
13:30 刈り入れまで、両方とも育つままにしておきなさい。刈り入れの時、「まず毒麦を集め、焼くために束にし、麦の方は集めて倉に入れなさい」と、刈り取る者に言いつけよう。』」

ここから、あの裏切り者のユダを弟子の中から抜いてしまうと、他の良い麦、良い弟子まで一緒に抜いてしまう危険性がある。だから最後まで抜かないようにして、そのままにしておいて、最後の審判の時に刈って火の中に入れて焼くようにしたのだ、そう言われるのです。実際、イエス様がユダを追い出したら、他の弟子の誰かがユダに同情して一緒に出て行ってしまったかもしれません。あのサタンが天から出ていく時、天使たちの三分の一が一緒に言ったように、そういう危険を冒さないようにイエス様は考えたのかもしれないのです。
これは今の教会でも起こるかもしれません。大事なことは、教会がそういう人にどのように対応するかです。ここでの教えは、イエス様はその手本を示したのかもしれないのです。
イエス様の手本は何か。

13:3 イエスは、父がすべてを御自分の手にゆだねられたこと、また、御自分が神のもとから来て、神のもとに帰ろうとしていることを悟り、
13:4 食事の席から立ち上がって上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。
13:5 それから、たらいに水をくんで弟子たちの足を洗い、腰にまとった手ぬぐいでふき始められた。

ユダの足もほかの弟子たちと同じように、ご自分の手ぬぐいでごしごしと洗われたということです。
つまりイエス様は、ご自分を裏切るような弟子に対しても、ひざまずいてへりくだって、自分自身のきれいな手拭いで洗って下さったのです。まさに最後の最後まで、弟子の一人一人を愛し抜かれたイエス様の決意がそこに出ているのです。
先程の「世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた」は、他の聖書では、「彼らを最後まで愛し抜かれた。」(口語訳)「弟子たちを最後まで徹底的に愛しとおされました。」(リビング)「その愛を残るところなく示された。」(新改訳)となっています。
イエス様の方法は、たとえ裏切ろうとする者がいたとしても、その人を最後の最後まで命がけで徹底的に愛されるという方法でした。
つまり、足を洗うとは、最後まで命がけで愛し通すことを意味しているのです。

今もそうです。罪を犯してしまう私たちでも、主を裏切ってしまうような弱い私たちでも、イエス様はどこまでも最後まで愛し通されているのです。
では、この最後まで愛されるイエス様の姿のどこに裁きはあらわれるのでしょうか。私はイエス様についていくことのできない人の、その人自らの選択をお許しになっていることがすでに裁きとなっていると感じています。
ユダに対する裁きは、このイエス様の愛をユダ自身で断ち切っているとこと、イエス様の愛の絆を自分で断っているということですでに行われているのだ、そう思うのです。そこにすでにその人への裁きがある。ユダは自分が愛されているのを知って、なお最後まで注がれた主の愛の眼差しに背を向けて、自ら暗闇の中へと消えて行くのです。それでも主の愛は、とどまることなく、出て行く彼の背中に注がれている。
しかし、この主の愛を拒むユダの選択そのものがすでに裁きとなっているのです。

さて一方ペトロはどうでしょうか。聖句の続きを読んでみましょう。
ヨハ
13:5 それから、たらいに水をくんで弟子たちの足を洗い、腰にまとった手ぬぐいでふき始められた。
13:6 シモン・ペトロのところに来ると、ペトロは、「主よ、あなたがわたしの足を洗ってくださるのですか」と言った。
13:7 イエスは答えて、「わたしのしていることは、今あなたには分かるまいが、後で、分かるようになる」と言われた。
13:8 ペトロが、「わたしの足など、決して洗わないでください」と言うと、イエスは、「もしわたしがあなたを洗わないなら、あなたはわたしと何のかかわりもないことになる」と答えられた。
13:9 そこでシモン・ペトロが言った。「主よ、足だけでなく、手も頭も。」
13:10 イエスは言われた。「既に体を洗った者は、全身清いのだから、足だけ洗えばよい。あなたがたは清いのだが、皆が清いわけではない。」
13:11 イエスは、御自分を裏切ろうとしている者がだれであるかを知っておられた。それで、「皆が清いわけではない」と言われたのである。

上着を脱いで、手ぬぐいを取って弟子たちの足を洗い始め、腰に巻いた手拭いで足を拭き始められた主の姿を見て、ペテロはこう言いました。「あなたがわたしの足を洗ってくださるのですか?」、そして「主よ、私の足など決して洗わないでください。」と言って拒んだのです。
それはそうです。弟子が師の足を洗うのならともかく、師匠が弟子の足を洗うのですから。恐縮するのは当たり前です。ペテロはやめさせようとしました。でもイエス様は「もし私があなたを洗わないなら、あなたはわたしと何のかかわりもないことになる。」とおっしゃるのです。洗うことでつながりができる。
足を洗うとは「つながりをつくる」ことを意味しているのです。

さて、それを聞いたペテロは「じゃあ、足だけでもなく、手も頭も。」。ペテロもつながりを求めていたのかもしれません。でもイエス様は言われます。
「すでに体を洗った者は、全身が清いのだから、足だけ洗えばよい。」とおっしゃっています。
足を洗うとは、まだ他にも、別の意味があるのです。
つまりイエス様は、全身を洗った者、すなわちバプテスマを受けて信仰に入った者は、すでに罪が赦されて清められているというのです。ただ、私たちは生きている限り、罪の危険にさらされます。たとえクリスチャンでも罪を犯すことがあるのです。
私たちは、すでに罪は赦され救われています。天国へ入ることも約束され、永遠の命をいただきました。神の子とされています。しかし、時には喧嘩をしたり、嘘をついたり、人を憎んだり、人を赦せなかったりすることはないですか。
中学生はそんな時正直に言います。「クリスチャンなのにまたやってしまった」
皆さんはそう思うことはありませんか。これでもクリスチャンだろうかと自分に嫌気がさすこと。このように、私たちは生きている限り、全身は清くても、足は地面を踏み、足の裏は真っ黒なのです。当時の人も同じでした。だから、その汚れをいつも家に入る時に、洗ってきれいにしてから入るのです。
そのためにイエス様は働かれると言われるのです。
イエス様は、わたしたちがバプテスマを受けて信仰に入った後も、わたしたちの日々の歩みの中でついた汚れを、私たちの生活の汚れを洗い流し、ぬぐって家に入れるようにして下さるのです。
イエス様はバプテスマを授けて放り出すのではなく、このために働いてくださるのです。
この時私たちは、イエス様と共にいるのです。
この時私たちは、イエス様と繋がっているのです。
イエス様が今も私たちの犯す罪をあがない清めて下さる。このことで私たちとイエス様は地上での関わりをもつのです。
足を洗うとは、今も私たちのために働き、繋がりを持って下さるイエス様の働きなのです。

ペトロが最初間違ったように、足を洗っていただいているということをおろそかにすることは、イエス様との関係を十分にはまだ味わっていないかもしれません。これは2000年前の出来事ではなく、今も言えることなのです。

イエス様はどうされるのか。(ヨハネ13:4,5)もう一度その姿を見てみましょう。

ヨハ
13:4 食事の席から立ち上がって上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。
13:5 それから、たらいに水をくんで弟子たちの足を洗い、腰にまとった手ぬぐいでふき始められた。

このイエス様の姿を想像して見て下さい。今、私たちは実際行うことができません。しかし、想像することによりイエス様の姿を自分のものにすることができます。
腰を下ろして、自分の手ぬぐいを使って、ごしごしと丁寧に汚れが完全に落ちるまで力を込めて、洗ってくださる姿。

皆さんはイエス様に今、足を洗って頂いていますか。私はこれまで何度も何度もイエス様に足を洗っていただきました。それは洗足式の中でということだけではありません。イエス様に向き合う時、イエス様は黙ってひざまづき、まず足を洗おうとされるからです。
「われわれの悪い性質、虚栄心、高慢な心は、キリストにとってどんなに悲しむべきものだろう。それでもなおわれわれは、自分のすべての弱さとけがれとを主のみもとに持って行かねばならない。キリストだけがわれわれを洗いきよめてくださることができるのである。われわれは、主のきよめの力によってきよめていただかねば、主とまじわる用意ができていないのである。」(希望への光1015p)

イエス様はただ汚れを落とされたのか。違います。
その人の足を洗うということは、あなたがその人を赦すということも意味します。自分を傷つけたその人の言葉や行為を、自分の痛みや悲しみをもって許してあげるということ。
許すことができずに、重い石を担いだままの人生を送っておられる方はいませんか。逆に自分の汚れや罪を隠したまま、自分の汚れを差し出させない人もいるでしょう。
このような歩みは、なんと辛く苦しい歩みでしょうか。
自分の罪や汚れや失敗、欠点を口にするということはなかなかできるものではありません。だからそんな人はいつも戦々恐々として、傷つけられたくないから、人に対して攻撃的になってしまうのです。あのユダもそうだったでしょう。彼はどこまでも自分の汚れを主の前に差し出すことができませんでした。そして正しいと思えることを主張することで攻撃的になり、自分を守ろうとしたのです。このように最後の最後まで差し出すことができずに、ユダは暗闇の中へと自ら、立ち去って行きました。彼の最後は皆さんも知っているとおりです。

同じようにぺテロもまたイエス様を裏切りました。「イエスを知らない」と三度も言いました。完全に裏切ったのです。しかしペテロは差し出せたのです。外へ飛び出して行って涙を流し、自分のふがいなさ、自分の弱さ、自分の罪に絶望し、罪を告白しました。その時に、彼は、主は自分の罪を赦して下さっている、愛してくださっているという主の眼差しに気が付いたのです。
なぜそれが分かったのでしょうか。
この足を洗われた経験からです。それを思い出したからです。
イエス様に自分の汚れを隠さずに差し出して、洗って頂いたからです。
その経験が罪を犯した後に蘇ってきたのです。

このように洗われ、赦された経験を持つ人は、イエス様のように他の人の汚れも、自分の手ぬぐいでふき取ることのできる歩みができるのです。自分を傷つけた人の罪を、自分自身の痛みと忍耐をもって赦し、その人を愛することができるようになるのです。
足を洗うとは、自分の手を汚すこと、その汚れをかぶることです。自分も苦しみ、悩むでしょう。自分のきれいな手や手拭いが、その人の罪のために汚されてしまうからです。いやなことです。難しいことです。でも、できるようにイエス様は道を用意して下さっているのです。

皆さん、イエス様の教えられた主の祈りを思い出してください。
マタイ6:12
6:12 わたしたちの負い目を赦してください、/わたしたちも自分に負い目のある人を/赦しましたように。

そうです。
「我らに負い目あるものを我らが赦す如く、我らを負い目をも赦したまえ」
「我らに罪を犯したものを、我らが赦す如く、我らの罪を赦したまえ」
皆さんは主の祈りで祈っているはずです。
これは具体的には何か。
「わたしを傷つけ、辱めた人の罪を赦しますので、イエス様、どうかわたしの罪をも赦してください」という祈りです。だからこの部分、皆さんの祈りを具体的な言葉に変えて見て下さい。
皆さんを傷つけたつらい思いを、悔しい思いを、悲しい思いを祈りの言葉として口に出すことです。時にはそれは呻きになるかもしれません。
でもあなたの持っている真っ白な手拭い、その手ぬぐいには自分の足の汚れがついています。それはイエス様が拭き取って下さったものです。それで相手の足の汚れをぬぐうことができるのです。
皆さん一人一人はその手ぬぐいをイエス様からいただいているのです。これで互いに足を拭き合いなさいと言われているのです。
「ところで、主であり、師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗わなければならない。わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、模範を示したのである。」(13:14~15)
イエス様の弟子として、イエスに従う者として、自分も主のように相手の足を洗うことができるならば、豊かに実を結ぶ人生となって行くのではないでしょうか。

「我らに負い目あるものを我らが赦す如く、我らを負い目をも赦したまえ」
足を洗うとは、このことを自分のものとすること、なのです。
足を洗うとは、いろいろな意味を持っています。そのことを心に留めて歩んで行きましょう。

新しい期が始まります。どうか、イエス様に洗って頂いた足で、しっかりと一歩一歩踏みしめる日々となるようにお祈りいたします。

瞑想の言葉「高慢心と利己心は不和と憎しみをつくり出すが、イエスは、彼らの足を洗うことによって、そのすべてを洗い流された。気持ちの変化が生じた。イエスは、彼らをごらんになって、「あなたがたはきれいなのだ」と言うことがおできになった(ヨハネ13:10)。いまや心の一致があり、お互いに対する愛があった。彼らはへりくだり、教えを受け入れる気持ちになっていた。」(希望への光1015p)