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メッセージ2020年9月19日

目で語れ マタイ6:22,23

皆さん、おはようございます。
コロナウィルスが広がることになって教会で変わったこと、その一つがネットを使って礼拝を配信するようになったこと。今は教会の礼拝が再開していますので、この時間にライブで参加されている人はあまり多くないと思います。しかし、実は配信することでこれまで教会に来ることのなかった人が、この礼拝を聞いて下さっているという話を聞くようになりました。
感謝なのですが、そのことを聞いて困ったのは、私は直接皆さんの顔を見ながら話すタイプの牧師ですので、ネットの裏にいる人の表情が分からないのでどのように話していいか分からないのです。それは、ラジオ放送、ラジオニッケイの「光とともに」のメッセージも同じです。説教はもっと難しく感じています。でも聞いてくださっている人に本当に分かりやすく伝えられれば、と思うのですが。
その中には聖書が初めてという方もいらっしゃるようです。そこで今日は有名な聖句から光を頂く時を持とうと考えています。

そこで、今日のメッセージですが新約聖書最初の書マタイによる福音書を開きたいと思います。マタイによる福音書は、イエス様の誕生に始まり、イエス様が大きく成長し世に出るバプテスマまでが3章までに。そして4章で試みを受けられたり、弟子を作られたり。そして、5章に入って、山上の説教という有名な個所へと続きます。ここには8つの祝福、八福の教えがあったり、イエス様が教えられた「主の祈り」があります。イエス様がお教えになる中心、核となることが書かれています。初めて聖書を開かれる方、イエス様の教えを見てみたい、と思われる人は、このマタイ5章から7章までを一度見てくださるといいと思います。皆さんもぜひ読み直してください。

その中にはいくつも有名な言葉があります。今日取り上げようとしている箇所もその一つです。
まず聖書朗読の箇所をお読みしましょう。
マタイによる福音書6章22,23節【新共同訳新約10p】
◆体のともし火は目
6:22 「体のともし火は目である。目が澄んでいれば、あなたの全身が明るいが、
6:23 濁っていれば、全身が暗い。だから、あなたの中にある光が消えれば、その暗さはどれほどであろう。」

イエス様はおっしゃいます。「体のともしびは目である」
日本人にも理解しやすい言葉です。日本にも目を題材にしたことわざがたくさんあるからです。ことわざ、聖書に関係するものは「目には目を歯には歯を」「目から鱗」ですが、日本のことわざとしては「目は心の窓」「目は心の鏡」ともいいます。そして「目は口ほどにものを言う」などなど。通じるものがあるような気がしないでしょうか。
ではイエス様がたとえで語られたこの言葉はどのような意味なのでしょうか。
実は2つの面から大きく見ることができますが、いつもは説明されない、ことわざに通じる面を今日は取り上げたいと思います。

最初に言葉の意味を確認しましょう。
「体のともしびは目である」口語訳聖書では「目はからだのあかりである。」です。
イエス様は伝えたいことをたとえとして語っておられますから、ここで言われている体は、私が持っているこの肉体としての体を指しているのではありません。もしそうなら、目が松明かロウソクのように燃えて光らなくてはいけません。改めて確認する必要はありませんが、そうではありません。
この体、ギリシャ語でゾーマと言います。これは器を指す言葉です。だから体は私たちの「器」、その存在すべてを受け入れるものです。心と体、魂の全てを受け入れるもの。
一方「目」は、旧約聖書の記されたヘブライ語では、「アイン」と言います。「アイン」は、目と同時に泉を意味する単語でもあります。私たちの泉、本質的な部分を表に出す部分。目は、私たちの中にある泉、もっているものが湧き出ている所。
私たちは、自分の心の状態、体の状態をすぐに分かりません。でも、この目を見れば分かるとイエス様はおっしゃっているのです。
「あなたの目が澄んでいるなら、あなたの体はよい状態、光っている。しかし、あなたの目が濁っているなら、あなたの体は悪い状態、闇である。」と言われるのです。

お医者さんは私たちの体を見る時に、診察をして、診断、体の判断をします。問診(質問をしたり)、視診(見たり)、聴診(聞いたり)、触診(触ってみたり)、打診(たたいて見たり)、いろいろと判断するものがあるのです。
イエス様が関心をもっておられるのは私たちの心の状態です。これは目を見て分かる。何故なら、目は私たちの心の状況を湧き出させているからなのだ、とおっしゃるのです。
皆さんの持っている目はどうでしょうか。
皆さんが鏡を見る時にどこを見ますか。自分の目も見て下さい。目に力がある人は、精神に、体全体に力がみなぎっています。心が前に向いていることが分かります。しかし、心や体が健康でない時、疲れている時、迷っている時、この目に力がなくなってしまします。心が定まらない人は、目が泳いだりするのです。
でも、それはその人のその時の状況を示しているにすぎません。私たちはいつも同じような状況であるとは限りません。
実際の泉もその時の状況により変化します。地震があった時は濁った水が出てきますし、静かに落ち着くと澄んだ水が出てきます。
それと同じように、私たちの心も単純ではなく複雑なのです。私たちは神様の光によって導かれ、私たちは光ることもありますが、同時に私たちは世にある限り罪人で、その影響も受け濁っている時もあるのです。

しかし、イエス様がこのようにたとえを用いてお教えくださっているということは、私たちの目が澄んでいるための方法、澄んでいる歩みがあるということです。

では澄んでいるという状況はどのようなことなのでしょうか。
この6:22の「澄んでいる」という言葉は、「純粋な状態」あるいは「一つの思い、一途な思い」とも訳せます。
純粋な状態、混じりけのない状態。これは何かに集中して最も輝いている状態なのです。これは新しいことを意味しません。
皆さんが新しい車を買ったとします。車は買ったその時がベストな状態かというとそうではありません。慣らし運転を100キロくらいして、初めて持っているもの全てが整って輝くようになるのです。
最初の人アダムであれば、最初の時、造られた時の姿を想像しますが、アダムが最も輝いていたのは造られた時よりも、その後、神様と一緒に働き、過ごした時でしょう。同じように私たち人間が最もよく輝くのは、神様のそばにいる時、そばにいて整えられた時なのです。
神様の側、みもとにいるということ、イエス様のそばにいること、光のそばにいることです。そのことが皆さんの目を澄ませていき、輝くことができるのです。だから、この澄んだ目を持つことは私たちの努力で勝ち得るものではなく、神様のそばにいることで頂ける神からの贈り物なのです。それはガラテヤ書5章にある霊の実を頂けることなのです。
ガラ
5:22 これに対して、霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、
5:23 柔和、節制です。

では目が「濁っている」というのはどのようなことなのでしょうか
元々の言葉ではユダヤ人の表現ではケチな、物惜しみするという意味を持っているようですが、先ほどの考えからすると、さっきと逆に神様のもとから離れていること。そのことによって心に起こる時、私たちの目が濁っていることなります。(ガラ5章にもあります)
ガラ
5:19 肉の業は明らかです。それは、姦淫、わいせつ、好色、
5:20 偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、
5:21 ねたみ、泥酔、酒宴、その他このたぐいのものです。

以前紹介しました、私が小学校の恩師から送られた言葉に「停滞する水は腐る。たえず前進せよ」という言葉がありました。水の濁りとは、私たちの心が、停滞し、自分中心になっている時起こるのです。

以前九州にいた時に熊本で阿蘇山から出てくる湧き水を見たことがあります。こちらでは富士山のふもとにある忍野八海(おしのはっかい)も同じです。そこで見る澄んだ水は決してきれいな水があったからではなく、そのきれいな水が絶えず入れ替わっているからきれいな澄んだ水なのです。きれいな水だからといって、そのまま持っていたらどうでしょうか。腐って、濁ってきます。
イエス様はマタイ15:18で「口から出て来るものは、心から出て来るので、これこそ人を汚す」と言われました。私たちの目が濁るのも、私たちの心が停滞して、内側から濁りのもとが生まれていることから来るのです。
だから自分中心に考えていて、心を神様によって入れ替えることをしない時起こるのです。結果として世の様々なことに気をとらわれ、み言葉を忘れ、神の恵みを忘れ、思いが一つに定まらないことが起こるのです。
イエス様はここで「濁っていれば全身が暗い」と言います。器、体全体が闇となってしまうほどの大きな影響をもたらしてしまう。だから、イエス様は注意するように、
6:23「だから、あなたの中にある光が消えれば、その暗さはどれほどであろう。」
と、言われるのです。
実は同じたとえ話が、他の福音書、ルカによる福音書にもあります。
ルカによる福音書では、結論でマタイによる福音書とは違い、最後光に焦点を当てておられます。
ルカ【新共同訳129p】
11:35 だから、あなたの中にある光が消えていないか調べなさい。
11:36 あなたの全身が明るく、少しも暗いところがなければ、ちょうど、ともし火がその輝きであなたを照らすときのように、全身は輝いている。」
ルカでは「あなたの中にある光が消えていないか調べ」るように勧めています。なぜか。「あなたの中にある光が消えれば、その暗さはどれほどであろう。」危険だからです。
この危険は聖書の中に多く実例が出てきます。例えば「救い」に関して、イエス様の時代の律法学者、ファイリサイ派の人たちです。彼らの持っている聖書の真理は決して間違ってはいなかったと思います。聖書に真摯に向き合い、何を守るべきかを熱心に追及していっていた人達です。宗教的には私たちよりももっと真剣に、そしてもっとまじめに取り組んでいた人達。しかし彼らは間違ったのです。
何故か。彼らは自分の救いしか考えなかったからです。自分の救いを真剣に考え聖書に向き合い、そこで得た知識を人々に伝えはしましたが、それを人々の自由を縛るものとして使い、そして最後には裁きの道具として使っていた。自分の救いが中心。だから、イエス様と相いれず、人々を神様から引き離すようにまでなったのです。

これは救いだけでなく罪に関しても一緒です。
ドイツの神学者が、現代のプロテスタンティズムについてある指摘していました。
私たちは、「罪」そのものと「神経症的な罪の意識」を混合してしまうというのです。
その結果、私たちは自分の罪について、負い目、無力さが一緒になったような感情を生まれさせて、悲観主義になる。罪は赦されないものかのように永遠化してしまい、私たちにはなにもできない。そのような神経症的な罪の意識に入りこんでしまうと言うのです。
真面目なキリスト者ほど、深刻に罪を数えて沈み込んでしまう。そんなことはないですか。
ある意味でそれは現代社会におけるリアリティなのかもしれません。
しかし、同じように「私は罪人である」と言った宗教改革者たちは、イエス様に寄り添い、生き生きした福音の力に突き動かされていました。溢れる命をみなぎらせながら、「私は罪人である」といい、同時に「信仰によって救われる」「信仰によって義である」と言ったのです。
教会の歴史を辿ると様々な時代の移り変わりがありました。
宗教改革が始まって霊に燃えた時代、教会の教えが整った時代、教理や教育の制度が整ったけれど形骸化した時代、形骸化に対して敬虔さを取り戻そうとした時代など。
信仰や教会が時代性や環境に影響されることはある程度ありえることです。しかし、どの時代であっても神様の真実さは変わらないのです。聖書から湧き出る泉は尽きないからです。
今のプロテスタンティズムは、神様に寄り添うことをせず、罪人であるということに沈み込みがちで、結果「私たちには何もできない」、とか「私たちは見捨てられている」と考えてしまう傾向を持っている。
でも私たちが聞いている聖書の言葉は、「神は私たちを見捨てない」ということです。
確かに厳しい現実の中、楽観しすぎることはできません。でも神様に与えられた今を無視して私たちは生きていくこともできません。
今から4年前、「教会のリアル」という本が出版されました。プロテスタントの牧師とカトリックの神父が教会について語ったものを出したのです。そこで語られたのは牧師や神父がどのような生活をしているか。教会が何をしているか。そんなことでした。教会のリアルです。
しかし、カトリックの神父が出版記念で言っていたのは、これも確かにリアルだけれども、本当に人生に疲れはてて、死のうとまで思っていた人が、教会に、神様にたどり着き、イエス様に出会い、受け入れられて、喜びの生活を送っている、これこそが本当の教会のリアルなんだ、と強く言っていたのです。
教会には恵みの現実があります。教会のリアルは、光は闇に勝っているということです。教会には救い主イエス・キリストのリアリティがあります。キリストのリアリティとは、「十字架にかかられた主は復活された」ということです。復活のキリストは今も生きておられ、私たちを愛し、導いておられるのです。
「暗闇に住む民は大きな光を見る」そのためにイエス・キリストは地上においでになりました。この復活のキリストは生きて私たちの傍にいる、これが教会の現実なのです。この時、目が澄んでいくのです。
けれども、試練の中で目が濁らざるを得ない時があります。これは、私たちが自分で取り去ることのできるものではありません。

このような中で最後に皆さんにお勧めしたいのが、同じマタイによる福音書にイエス様が教えて下さった「主の祈り」です。マタイ6:9から書いてあります。
この聖句での最後の祈りは「我らを試みにあわせず悪より救い出したまえ」。
この「悪より救い出したまえ」の「悪」という言葉が、本日の聖句の「濁っている」という言葉と同じ言葉「ポネーロス」が使われています。これは私たちの内にある悪、災いから救い出したまえ。私たちの目を濁らせるものから救い出したまえ、という祈りなのです。
私たちの内に罪があります。そして私たちの外に、出遭ってしまう災いや試練があります。どちらの悪にせよ、私たちが主の祈りで、「悪より救い出したまえ」と祈るとき、私たちはこれらのあらゆる悪からの助けを神様に求めることができるのです。神様は、この祈りに答え、実際に救う力をお持ちなのです。
だから、この祈りは、「私たちの目を澄んだものとしてください」という願いと言い換えられるのです。私の中の泉が、溢れるばかりにあなたの光で、あなたの言葉で満ちるようにしてください。そのためにも、私の内にあるこの濁りを、悪より救い出してください。
そう光を生み出す方に願い求めることができるのです。
だから「我らを悪より救い出したまえ」これが私たちの祈りです。
そして「主の民を悪より救い出したまえ」これが教会の祈りとなるのです。
私たちは主の祈りを祈ることで、キリストの体なる教会を悪から救い出したまえというとりなしの祈り、戦いの祈りをしているのです。この戦いの祈りをする時、祈りの戦いに臨んでいる時、私たちは悪から一歩離れ、神様のそばにいることができるのです。
ぜひ、このお祈りをもって輝く目を頂き、その目で人々に語ることができるように歩んで行ってください。
「我らを試みにあわせず悪より救い出したまえ」の祈りで歩んでいきましょう。