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メッセージ2020年8月22日

わたしの心に適う者(バプテスマ) マタイ3:13-17

皆さん、おはようございます。
今日は喜ばしい日です。○○君がバプテスマを受けるからです。
この礼拝で行うのは信仰の言い表し。これは信仰告白となるバプテスマの試問と、沈めのバプテスマを受けること、この2つで成り立っています。
バプテスマ式の時に皆さんにいつもお勧めします。
バプテスマをまだお受けになっておられない方は、自分が受ける時のことを想像してみましょう。
また、バプテスマをお受けになっておられる方は、ご自分のバプテスマの時のことを思い出しましょう。そして、最初の信仰に帰りましょう。
そう言いますが、皆さんが思い出すのは沈めのバプテスマの時ではないですか。
先ほど行った信仰の言いあらわし、信仰告白も大切なのです。
その全てにおいて、今日の式が、○○君にとってはもちろんですが、それを目撃する全ての人にとって、意義のある式であってほしいと思います。

今日の聖句をお読みしましょう。マタイ3:13-17(4p)
◆イエス、洗礼を受ける
3:13 そのとき、イエスが、ガリラヤからヨルダン川のヨハネのところへ来られた。彼から洗礼を受けるためである。
3:14 ところが、ヨハネは、それを思いとどまらせようとして言った。「わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに、あなたが、わたしのところへ来られたのですか。」
3:15 しかし、イエスはお答えになった。「今は、止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです。」そこで、ヨハネはイエスの言われるとおりにした。
3:16 イエスは洗礼を受けると、すぐ水の中から上がられた。そのとき、天がイエスに向かって開いた。イエスは、神の霊が鳩のように御自分の上に降って来るのを御覧になった。
3:17 そのとき、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と言う声が、天から聞こえた。

さて、今日の場面はイエス様がいよいよ世に出て働きを始める場面、初登場の場面です。しかしこの場面、輝かしい劇的な登場ではないのです。イエス様が戦いで素晴らしい勝利をしたり、大勢の前で奇跡をしたり、素晴らしい教えを宣べたりするのでもありません。
イエス様が一番最初にしたことは何か。洗礼を受ける、ということでした。イエス様は、働きの最初に洗礼を受けることを選んだのです。なぜでしょうか。
そもそもバプテスマ、どんな意味を持っているのでしょうか。バプテスマクラスで紹介されるのはロマ書6:3,4の聖句です。
6:3 それともあなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスに結ばれるために洗礼を受けたわたしたちが皆、またその死にあずかるために洗礼を受けたことを。
6:4 わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです。

バプテスマの意味は、キリストと共に死に、共に埋葬され、共に復活し、共に新しい人生を生きることなのだ、と説明されます。まさにその通りです。だからこの聖句を忘れないでください。
しかし、教えられていても、神様の用意されたその全てを理解できているかというとどうでしょう。大人の皆さんでも、すべてを理解できてバプテスマを受けたわけではありません。
○○君なりの理解をしていかなくてはいけません。
では今、どれをしっかり理解するべきか。
おそらく、私達が新しい命に生きるため。私たちもいのちにあって新しい歩みをするため、この部分でしょう。
実はイエス様もそうでした。イエス様はご自分の働き、使命をご存知でした。そしてイエス様は新しい歩みをするために、このバプテスマを持ってきたのです。なぜでしょうか。
一番分かりやすいのは「木こりの話」かもしれません。簡単にご紹介しましょう。

あるところに、木を切る才能が同じ2人の木こりがいました。
その2人が木を切る競争をすることになりました。与えられた時間は1時間。同じ性能のノコギリを渡されました。
「用意、スタート!」という合図で、1人の木こりは全力で木を切り始めました。しかし、もう1人の木こりはそうはしませんでした。“別の作業”をしてから、20分後に木を切る作業を開始したのです。
与えられた1時間が経過しました。どちらの木こりがたくさんの木を切断できたでしょうか。
スタートの合図と同時に木を切りはじめた木こりは、4本しか木を切ることが出来ませんでした。ところが、最初の20分に別の作業をしていた木こりは、なんと6本の木を切ることができたのです。
それでは最初の20分、この木こりは何をしていたのでしょうか。
実は、彼はノコギリを研いでいたのです。

こんな話です。
仕事をするために大切なのは、がむしゃらに働くことではありません。大切なことをすること、きちんと準備をしてから、道具と環境を整えてから取り掛かる方が良いことがあるのです。特に時間が制限されている時には。イエス様はご自分の使命をご存知でした。
イエス様はその働きを始める時に、このバプテスマという準備が必要だったのです。
先ほどの16、17節を見てみましょう。

3:16 イエスは洗礼を受けると、すぐ水の中から上がられた。そのとき、天がイエスに向かって開いた。イエスは、神の霊が鳩のように御自分の上に降って来るのを御覧になった。
3:17 そのとき、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と言う声が、天から聞こえた。

聖霊を受けること、そして父なる神の御声を聞く事。これはイエス様にとって、ノコギリを研ぐことといっしょなのです。

でも、このことに巻き込まれた人がいます。洗礼者ヨハネです。洗礼者ヨハネはイエス様がどういう方かということを理解していました。だから、14節からの言葉が出てきたのです。
3:14 ところが、ヨハネは、それを思いとどまらせようとして言った。「わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに、あなたが、わたしのところへ来られたのですか。」

ヨハネの言葉はもっともなことです。
何のためにバプテスマを行うのでしょうか。
洗礼というのは、形の上では第一に罪を洗い清めることです。罪というのは罪人の人間が持っているものです。イエス様は神の子、罪はありません。「ではイエス様は何のために」洗礼者ヨハネがそう考えたとしてもおかしくありません。私たちもそう思いませんか。

もちろん、よく読んでみると洗礼者ヨハネはそんなことは言っていません。
あなたには罪がないから洗礼を受ける必要はありません、なんてことを言っていないのです。
「わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべき」です。洗礼者ヨハネはそう言ったのです。あなたがわたしに洗礼を授けてください。あなたが私を清めてください。
ヨハネは自分が授けていたバプテスマに自信がなかったのではなく、イエス様こそが本物だったからです。
「わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに」

このように、イエス様の申し出を断る理由はいくらでも探すことでできます。
それでも行わなくてはいけなかったとイエス様は思われたのです。
だから、15節です。
3:15 しかし、イエスはお答えになった。「今は、止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです。

そう強く言われました。なぜか。イエス様が新たに神様の働きを始めようとされていたからです。そして、私たち人間が神様と歩むために必要なこと、正しいこととして、このバプテスマをすることを示すことが大切だからです。その模範として、イエス様が行って下さったからです。
これはイエス様だけではありません。神様の道に従っていこうとする者は誰でも必要なのです。イエス様にとっても、私たちにとっても「正しいことをすべて行う」中に、このバプテスマがあるのです。
だからイエス様は洗礼をお受けになりました。
この時何が起きたのでしょうか。私たちにとって大切なことが起こりました。
その時、「天がイエスに向かって開いた」。
「神の霊が鳩のように御自分の上に降って来るのを御覧になった」。
そして、天から声が聞こえます。
「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」。

罪の清めこそ必要なかったイエス様、でもイエス様のバプテスマに大きく二つのことが起こります。聖霊の満たし、そして父なる神の御声を聞く事。イエス様の働きが、三位一体の神様の働きとして一致するのです。
先週私たちの救いの働きに、三位一体の神様が現れるということをペトロの手紙から見てきましたが、ここでも同じことが言えます。私たちの救いには、三位一体の神様の働きが現れているのです。
だから洗礼を受けることは三位一体の神様の働きを世に示すことになるのです。神様の御心に適うことになるのです。この地上の救いの働きの全てが神様の全身全霊をかけた働きだからです。
だから、イエス様は神の働きをしていくに先立って、洗礼を受けられた。
そういう意味で、バプテスマは三位一体の神様といっしょに歩む真の人間としてのスタートなのです。これはイエス様が言っていること、「正しいこと」なのです。
だから、父なる神様が言うのです。
「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」
神様が洗礼を受けたイエス様のことを、そう言っているのです。

バプテスマを受けた皆さん、三位一体の神様との歩みを意識されていますか。皆さんの歩みは、三位一体の神様が手掛けられた素晴らしい歩みから始まりました。イエス様、父なる神様、聖霊の神様、天地創造を行われた素晴らしい神様が全身全霊をかけて、皆さんとの歩みを始められ、今もなお働きかけて下さっているのです。
皆さんが罪を感じる時、神様は皆さんを導いてくださっています。引き寄せて下さっているのです。そのことを忘れないでくさい。

○○君の神様との歩みもこれから始まります。これまでは神様に守られている歩みでした。これからは、神様との歩みになります。いつもスタートの時に見守って下さった三位一体の神様を意識して歩んで行ってください。
真っすぐに心を神様に向けるなら、神様は必ず応えてくださいます。
「これはわたしの愛する子」「わたしの心に適う者」という言葉の中歩んで行かなくてはいけないのです。
「わたしの心に適う者」という言葉、イエス様はともかく、自分はどうかと思ってしまいます。しかし、神様の心に適うというのは、神様が愛して、神様がふさわしいと思っているということです。「これはわたしの愛する子」「わたしの心に適う者」これは、同じことを2回、言い方を変えて言うユダヤの表現方法です。
神様は、かけがえのない者として洗礼を受けた者を愛し、心に適う者と言って下さるのです。
この言葉がスタートです。
「神様に愛されていること」に気が付くことがスタートです。
これからどんなことがあっても、気が付いた時にこのスタートに戻ってきてください。

それでは礼拝を一度閉じてバプテスマ式に移りましょう。