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メッセージ2020年8月15日

受け継ぐ者 ペトロの手紙一1:3,4

皆さん、おはようございます。
今日は8月15日。何の日でしょうか。終戦の日です。
今日8月15日は終戦記念日。
今から75年前の今日、1945年8月15日、天皇がポツダム宣言の受諾を「玉音放送」で国民に直接語りかけた日。日本国民が終戦を知った日なのです。
しかし、国際的には8月15日は特別な日でありません。日本がポツダム宣言受諾を通告したのは8月14日、そして実際に休戦状態に入ったのは降伏文書に署名した9月2日。国際的に実際に戦争が終わったのはずっと後、サンフランシスコ平和条約が発効した1952年4月28日です。
しかし日本人はこの日を特別な日としています。8月15日を特別な日とするならば、他の国にない、特別な受け継ぐべきことがあるはずです。
私たちは8月15日に、8月15日から何を学んだのでしょうか。何を受け継いだのでしょうか。75年を過ぎるときに考えてみてはいかがでしょうか。

私たちが受け継いだもの、受け継がなくてはいけないもの、それは戦争からだけではありません。私たちはこれまでも様々なことを受け継いでいます。
8月に入って2件の告別式を行いました。コロナの影響でこれまでと同じように、多くの人を集めることができずに家族葬で行われました。しかし、そのことでご家族は静かな時を過ごすことができました。普通葬儀で大切なこと。それは悲しみにある人々をお慰めすることになるのですが、今回は故人から受け継いだものを確認する時間が中心となりました。
ご家族で受け継ぐもの、それをよく相続と言いますが、相続は決してお金や土地などというものだけではありません。
五木寛之さんの書いた「こころの相続」という本があります。ここには記憶の相続、見えない相続という言葉が出てきます。
先日私は亡くなった父の年齢になりました。父と歩んだ時間より、その後の方が長くなり、自分が父の歩んだ年齢になって、何を受け継いだのかを考えるようになりました。
75年と共に考えさせられています。

私たちは何を受け継いでいるのか。それは聖書を通して私たちを導いてくださった神様のとの関係の中にもたくさんあります。
今日はこのことをペトロの手紙一からいただきたいと思います。
中心聖句はペトロ第一1:4,5ですが、最初に、この手紙について背景を見ながら進みたいと思います。第一ペトロをお開き下さい。(新約428p)
この手紙はイエス様の弟子、使徒ペトロが迫害の中にある教会に宛てた励ましの手紙です。

1:1 イエス・キリストの使徒ペトロから、ポントス、ガラテヤ、カパドキア、アジア、ビティニアの各地に離散して仮住まいをしている選ばれた人たちへ。

宛先は、小アジア北部の各地の教会の人たち、今のトルコにあたります。そこに行くことのできないペトロが迫害の中にある教会を励ますために送った手紙です。
この著者ペトロは心惹かれる人物です。皆さんはパウロとペトロとどちらが好きですか、というとどっちですか。ある教会で、牧師さんが聞いたそうです。そうすると「ペトロの方が好きだ」、という人が圧倒的に多かったそうです。
何故でしょうか。おそらくペトロの中には、人間の弱さ、もろさと、神の恵み、優しさが不思議に組み合わされているからなのだと思います。
そう考えると、1節でペトロは、『イエス・キリストの使徒ペトロから』、と自己紹介していますが、ペトロが、自分のことを「使徒」と名乗るようになるまでには、かなり長い道のりがあったのではないでしょうか。なぜなら、ペトロは何度も失敗を繰り返してきたからです。しかしペトロはつまずきながらも、イエス様を愛し、必死になって従っていきました。失敗やつまずきを通して、イエス様の愛を理解するようになったからです。このような私さえも主は使徒として用いてくださっている。そんな思いがこもった「使徒」です。
これは、私が「牧師」として自己紹介する時も同じです。長くやっていると「お前のようなものが」という言葉を投げつけられることもあります。そんな時は本当に返す言葉がありません。でも、神様は牧師を続けよとおっしゃるのです。今でも胸を張って牧師ですとは言えません。
皆さんはいかがでしょうか。「私はクリスチャン」です、と胸を張って言えていますか。最初言えなかった人もいたでしょう。しかし、神様の愛を経験するにつれて、このような私をも神様は救ってくださって、クリスチャンとしてくださった。そのことに感謝の思いがわき起って来て、やっと「クリスチャンです」と言えるようになってくるのではないでしょうか。
使徒、牧師、クリスチャン。世間では素晴らしいイメージがあるでしょうが、そう言えるのは自分が素晴らしいからではなく、そうでない自分を愛して下さる神様がいるからなのです。ペトロはもしかすると、やっと使徒と言えるようになったのかもしれません。

このペトロで考えなくてはいけないのはもう一つ。1節に、「離散して仮住まいしている」と言う言葉が使われています。お盆の時期、多くの人が普通なら故郷で今日の安息日を迎えるはずでした。しかし、今年はそうはいかない。故郷があるのに帰れない。実は、このまだ帰れない姿がこの言葉に関係しているのです。
ペトロは、散らされ仮住まいをしている人たちの中に、「クリスチャン」の姿を見ています。クリスチャンの国籍は天にある。私たちは本来ならば、天に故郷を移しこの地上のどこにもよりどころを持たない者なのです。ペトロ自身も同じように考えて、今の自分は仮住まいをしている者である、と思っています。
しかし、最初からそう思っていたわけではありません。
ヨハネによる福音書21章に、ペトロが、ガリラヤ湖畔で復活のイエス様に出会った時のことが記されています。その時ペトロは魚を取って、153匹の魚が取れた、あの場面です。
何故魚をとっていたか。イエス様が十字架で亡くなられ、これから先自分は一体何をしたらよいのだろうか。生きる目標を見失った時、彼は故郷に帰り以前の漁師の生活に戻ろうとしたのです。イエス様の復活を目撃していてもなお、ペトロはまた元の漁師に戻ることを考えていたのです。元の生活に、これは他の弟子たちにも言えます。エマオの途上の弟子たちもそうでした。
彼らには、イエス様を失っても未だ帰るところが残されていました。彼らには故郷があり、そこには家があり、イエス様に出会う前の生活を取り戻すことができた。
ある人が、この時のことを次のように言っています。
「すべてを捨てて、我に従えと言われて、ついて行ったペトロは、未だ本当には、故郷を捨てていなかった。故郷から離れてはいなかった。何処にいても、ガリラヤが故郷であり、私には帰るところがある、と思い続けていた。その間は、実は、主イエスが分らなかった、と言ってよい。」

もしそうなら、ペトロが本当の意味で故郷を旅立つのは、復活のイエス様から三度も「私を愛しているか」と問われ「私の羊を飼いなさい」というお言葉を与えられた後の事です。ペトロは、この主の信頼の言葉に応えて、初めて本当に地上の故郷を捨てて旅立つことができたのです。キリスト者として生きる、ということは、究極的にはこのような地上の故郷を捨てる、と言う決断を伴うのです。天に故郷を移した者は、もはや地上には帰るべき心の故郷を持たない。それがこのペテロの言う、本当の離散して生きるキリスト者の姿なのです。
このように厳しい考えのペトロですが、聖書はこのペトロを揺らぐことのない確固とした信仰者としては伝えてはいません。むしろ、いつでも、危うさを抱えた信仰者として記しています。
少し横道にそれますが、そのペトロは、伝承によれば紀元64年にローマで殉教しています。しかし、この最後の時であっても、同じ危うさを抱えていたようです。
皇帝ネロの迫害の中、ペトロはまた逃げ出したのです。迫害の嵐に荒れるローマを、変装までしてペトロは脱出しようとしました。そうすると町の門で向こうからやってくる一人の旅人に出会います。それは、ローマに入られるイエス様のお姿でした。
ペトロは、尋ねます。「クォ・ヴァディス・ドミネ、(主よ、いずこに)」。
イエス様が答えます。「お前が、ローマのキリスト者たちを捨ててきたので、お前に代って私が行く。もう一度、十字架に架けられるために。」
ペトロは、「主よ」と叫び、今来た道を引き返し、迫害の中に戻って行くのです。そして、最後は逆さはりつけに架かって殉教したと伝えられています。
このペトロは、弱さ、もろさ、危うさを最後まで抱えながらも、主と教会に仕え、主と教会のために生き抜いた弟子でした。そのペトロが、今、私たちに語りかけるのです。
あなたも私と同じように、教会の中にいていいのですよ。弱さや、もろさ、危うさを抱えたあなたこそ、教会の中でイエス様の愛の御手の中で生きるべきなのです。
このペトロの呼び掛けは、私たちにとって、大きな慰めではないでしょうか。

2節でペトロは、『あなたがたは、父である神があらかじめ立てられた御計画に基づいて、“霊”によって聖なる者とされ、イエス・キリストに従い、また、その血を注ぎかけていただくために選ばれたのです』、と語っています。
この御言葉には、父なる神様の救いのご計画、聖霊によるきよめ、そしてイエス様の救いの働きが出てきます。父、子、聖霊、三位一体の神様が登場してくるのです。私のような者を救うために、父、子、聖霊の神様が、まさに総力を挙げて、働いてくださっている。そのことが、語られているのです。
ペトロは言います。罪人を救うために、神様がどんなに大きな業をなしてくださったか。まさに、持てる力を総動員してあらゆる手段を尽くしてくださった。お前を救うために私はどんなことでもする。最愛の独り子を失っても、十字架に架けられて身を引き裂かれても、唾をかけられ、あざけられても、お前を得るためなら、どんなこともいとわない。そう言ってくださったのだよ。
三位一体と言うと難しい教理の話になります。しかし、それは私たちを命懸けで愛して、何をしてでも救おうとされる神様の姿です。神様はあなたを救うために、三位一体、全身全霊をかけて、すべてを注ぎ込んでくださっているのです。

1:3 わたしたちの主イエス・キリストの父である神が、ほめたたえられますように。神は豊かな憐れみにより、わたしたちを新たに生まれさせ、死者の中からのイエス・キリストの復活によって、生き生きとした希望を与え、
1:4 また、あなたがたのために天に蓄えられている、朽ちず、汚れず、しぼまない財産を受け継ぐ者としてくださいました。

やっと聖書朗読の箇所にたどり着きました。このようなことを経験し、感じたからこそ、ペトロは3節で真っ先に神様を賛美するのです。
「私たちの主イエス・キリストの父である神が、ほめたたえられますように」
これは手紙ですが、この言葉は思わず心の中から飛び出した言葉のように思えます。
神様の恵みを想い起しているうちに、神様を賛美したいという思いが心に強く迫ってきて、思わず叫んでしまったのです。コロナでなければ、礼拝の中、このように心の中から溢れ出る思いで私たちも讃美できるのです。では、なぜ私たちはこのように賛美せずにはいられないのでしょうか。

そのことを気づかせるためにペトロは人々に思い出すように言っています。
神様が、その豊かな憐みによって、私たちを新たに生まれさせてくださり、生き生きとした希望を与えて下さったからだ。
皆さんも、この経験を受け継いでいるはずです。皆さんは神様に出会って変わりましたか。それとも変わっていませんか。

私の好きなインドの司祭アントニーデメロが書いた「小鳥の歌」という本に、新しく生まれた人についての、例話が記されています。
最近、キリスト教に改宗した人に、友人がいろいろと質問するのです。しかし、その人は何も答えられません。友人が言います。
「君は、キリスト教についてほとんど知らないのだね」。
それに対して言いました。
「そう、恥かしいけど、僕はキリスト教についてほとんど知らない。でも、3年前、僕は酔っ払いだった。借金があった。僕の家族はばらばらだった。妻と子どもは、毎晩、僕が家に帰るのを怖がっていた。でも今、僕は飲むのをやめた。借金もない。僕の家庭は幸せだ。子どもたちは、僕の帰りを毎晩楽しみに待っている。これはみんな、キリストが僕にしてくれたのだ。」

たったこれだけの、短い話しです。この人は神様を知らないのでしょうか。
いいえ、新たに生まれさせ、生き生きとした希望を与えられた人、変えられた人は、イエス様のことをよく知っている。そう思いませんか。
新しく生まれ変わった人生は、新しい希望に支えられます。新しい希望。それは、復活されたイエス様から与えられる希望です。それは、死をも超える希望です。
ペトロは、復活の主イエスと出会い、この新しい希望に生きる者とされ、それを伝えよう、残そうとしたのです。迫害の中にいる教会に、「あなた方もこの希望に生きて欲しい」、と呼び掛けているのです。

8月に2件告別式を行ったと言いましたが、この時悲しみにある人々に伝えたいと思い伝えたことがあります。聖句は違いますが、4節にも書いてあることです。
『また、あなたがたのために天に蓄えられている、朽ちず、汚れず、しぼまない財産を受け継ぐ者としてくださいました。』

ここで語られている財産とは、文字通り、父が子に与える相続財産のことです。
神様は、私たちをご自身の養子としてくださり、天の財産の、相続人としてくださるのです。しかも、その財産は、朽ちず、汚れず、しぼまない財産だというのです。まさに、最高の財産です。私たちはこの財産の相続人、としていただいているのです。
では、このしぼまない財産とは一体何でしょうか。お金、土地、財産ですか。違います。
それは、どんなに環境が変化しようとも失われない財産です。大地震が起き、コロナが広がり、経済が破綻しても消え去ってしまうような財産ではありません。
また、死によって朽ちてしまう財産でもありません。死をもこえる財産です。
そのような財産とは何か。それは、永遠の命とそれを思い描く事で与えられる恵みです。
大切な人を亡くしたご家族は、聖書の与える永遠の命とこの恵みを受け継がなくてはいけないのです。それは具体的にはどのようなことか。

アメリカのマルティン・ルーサー・キング牧師の文章に、ある年をとった牧師と若い優秀な大学生の会話が書かれていました。
牧師が尋ねます。「君の将来に対する計画は何かね」。
学生が即座に答えます。「法学部の大学院に進むつもりです」。
「それからどうするのかね」。「弁護士になって、結婚して、家庭を持ちます」。
「それから」。「出来るだけお金を稼いで、早めに引退して、世界各地を旅行します」。
「それからどうなるのかね」。「はぁ、これが僕の計画の全部です」。
牧師は、思いやりを込めて言います。
「君の計画はあまりにも小さすぎる。それはせいぜい、75年か100年の範囲でしかない。君は、神を含むほど大きく、永遠へと広がるほどに、遠大な人生の計画を立てなければならない」。

キング牧師はこの牧師の言葉を「賢明な忠告」である、と言っています。
ペトロも迫害の中、苦しみの中にある教会員へ、この牧師のように「永遠へ広がる希望」を生きて欲しい、受け継いでほしいと言っているのです。
どうすれば手に入るのでしょうか。それはイエス様に出会うことによってのみ。何故そう言えるのか。ペトロがそれをイエス様に出会うことによって受け継いだからです。
そして、ペトロはそれをあなたに渡そうとしているのです。
この相続すべき財産はもうすでに蓄えられているのです。すぐにでも渡せるように神様の手の中に準備されているのです。
神様はこの財産を受け継ぐ者として皆さんを導いておられます。皆さんはそのために集められたのです。神様は、私たちのために、永遠の命からくる恵みを、最高の財産を、既に蓄え、準備して、待っていてくださるのです。

戦後75年、私たちは日本国国民として受け継ぐものを受け継がなくてはいけません。そして皆さんは、クリスチャンとして神様が準備されたものも受け継がなくてはいけないのです。それをぜひ感謝して、受け取って下さい。