Home » 礼拝メッセージ » メッセージ2020年8月1日

メッセージ2020年8月1日

ウィズコロナ ヨハネ13:34,35

皆さん、おはようございます。
8月に入りました。この半年、私たちはコロナウィルス感染に苦しめられています。暖かくなり、一度終息へと向かったと思われていましたが、またその足音がしてきました。ここでキリスト教と疫病との関係を一度振り返ってみたいと思います。

いつの時代から私たちは疫病と闘ってきたのでしょうか。あるテレビの解説では、私たちが集団生活をし始めてから、と解説していました。病気自体はあったのでしょうが家族単位での広がり、それが集団生活、つまり共同体を作り始めてから、多くの人に感染が広がるようになり、そこから戦いが始まった、そう解説をしていました。
記録に残っているものとしては、感染症との戦いは紀元前にまで遡ります。壁画や、古代エジプトのミイラを見ると、その頃から疫病に苦しめられていたようなのです。
ギリシャの歴史書の中に、紀元前430年にアテネで流行した感染症について書かれています。この時は「地方的には全滅した地域を生むほどの疫病」という記載もあり、アテネだけでなく地方でも猛威をふるったことが伺えます。この感染症について多くの辞典などでペストと記載されることも多いようですが、どんな病だったのかは未だに明らかになっていません。
聖書はそれよりずっと前、出エジプト記(9:1-7)の「10の災い」の一つとしてエジプト人やその家畜に疫病が起こったことを記しています。他にも、サムエル記上には、神様の箱を奪ったペリシテ人が、はれ物の疫病によって悩まされる様子が描かれています(サムエル上5:6-12)。サムエル記下24章には、神様が罪を犯したダビデに対する懲らしめとして、三日間の疫病を起こされました。この三日間の疫病でイスラエル80万人、ユダ50万人の計130万人のイスラエル男性の内、7万人が疫病で倒れた、20人に1人はなくなったというのです。
聖書ではないですが、先ほどの歴史書の中には、聖書のエステル記に登場するペルシアの王クセルクセスのギリシャ遠征の時に、軍隊に疫病が発生したことにより退却を余儀なくされた、という記録も残っています。

このような社会でしたから、神様は旧約聖書の中に病気、そして疫病に対するみ言葉を人々に与えています。当時病気に対応したのは祭司たち。レビ記13章から15章にはまとめて、いろいろな症状に対する対処法が示されています。だから原因不明の病気、カビなどにかかった患者を隔離したり、病気の発生した建物を封鎖することは、旧約の時代では当たり前のことだったのです。
この病気が今の私たちの何の病気にあたるのかは分かりませんが、祭司たちは、患者の症状を見て判断をし、病気が人々に広まらないように対策を行っていたのです。
宗教的には「汚れている」とされましたが、決してこれは神様の裁きを意味していなかったのです。今で言う公衆衛生上の対策です。

まだ医学が発達していなかった時代ですが、すでにこのころから、特に病人には身を清めることが勧められています。これは病人だけではありません。病人や死人と接した人も身を清めることが義務付けられています。
手の洗い方については、まだウイルスなどの存在が知られていない時代に、現在私たちに奨励されているものとあまり変わらない方法が教えられていたようです。
現在でもユダヤ人は手洗いの習慣を厳格に守っているそうで、Youtubeでもラビが手洗いの仕方を動画配信しています。それを見ると私たち日本の神道、神社に入る時の手洗い、きよめの儀式によく似ています。
ある動画の説明によると、水は汚染されていない水源から汲んで来たものを使用し、手の手首から指先までまんべんなく水を注ぎ、次に反対の手を同様に清め、それを二回繰り返します。そして祈りの言葉を唱え、それ以外は手洗い中には一切しゃべらないように指導されています。
ユダヤ人は、ヨーロッパなどでペストの流行を経験していますが、このような習慣が幸いしてか、共同体内での広がりをまぬがれたとも言われています。
神様から与えられた知恵と、それを実行することで共同体が守られていったのです。
本当に神様の知恵は素晴らしいものがあります。

疫病との戦いの歴史に話を戻しましょう。
ローマの時代に移っても疫病の記録は続きます。紀元2世紀から6世紀まで、幾度となく今でいうパンデミックを経験しているようです。
165年のアントニウスの疫病は、何の病気かは不明ですが人口の4分の1から3分の1が亡くなったと記録されています。この病気は15年にわたって猛威を振るい人々を苦しめてきました。
ライフ誌に載っていた記事は3世紀中ごろ、250年ごろローマ帝国に流行った疫病についてです。これは天然痘とも言われている記録です。この病はアフリカから始まり広がりました。ローマ市で一日5000人が亡くなったと記録されています。人々は恐怖のあまり不衛生だった都市から、田舎に逃げていきます。今で言うゴーツートラベルです。その結果さらなる拡大を招いて感染を広げていったのです。
このことを記録したのが北アフリカのカルタゴの司祭キプリアヌスの説教だったことから「キプリアヌスの疫病」と言われています。
当時の人たちのために、この時、神様、教会は何を語っていたのでしょうか。彼は「死を免れないことについて」という説教の中で、彼はデマを退け、信徒たちの心に広がっていた恐怖心を取り除くき、クリスチャンとして歩むことを伝えました。
そのために、いくつもの聖書の物語を例に挙げて、地上においては病にかかり、苦しむことは万人に共通することであるけれども、キリスト者はその精神においては違うのだと言っています。
「愛する兄弟たちよ、むしろ私たちは、…死の恐怖を退けて、死の後に続くことについて、永遠の命について考えるようにしましょう」
「神の僕たちは常にこのように行動しなければいけません。特に今、この世が腐敗し、猛威をふるう悪の嵐に圧迫されている今こそ、なおさらそうしなければいけません」
何をしようと言ったのか。
ここでは単に病気にかからないことが強調されたのではありませんでした。
旧約聖書に強調されていた予防だけでなく、クリスチャンとしての行動するようにと、いうようになったのです。なぜでしょうか。

新約聖書を開いてみると、私たちは多くの重い皮膚病についての記述に出会います。とても人々に怖がられていたことから、ある時代は聖書ではライ病、ハンセン病と訳していました。実際の病気が何であったかは実はよく分かっていません。したがって、今ではこの記述は「重い皮膚病」と書かれています。この人々に恐れられていたこの病についてたびたび描かれているのです。そこではどんな姿を見ることができるか。病気にかからないための姿か。
そうではありません。私たちが見るのは、イエス様がこのような病によって社会から疎外された人々にこそ関心を示される姿です。決して旧約聖書の病人の隔離や身を清めることを軽視しているわけではありません。しかし、イエス様は、それらの人々のもとに出かけて行き、相手に触れ、癒されたということが記されているのです。(マタイによる福音書8章1~4節)。
一か所マタイを読んでみましょう。
マタ
◆重い皮膚病を患っている人をいやす
8:1 イエスが山を下りられると、大勢の群衆が従った。
8:2 すると、一人の重い皮膚病を患っている人がイエスに近寄り、ひれ伏して、「主よ、御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」と言った。
8:3 イエスが手を差し伸べてその人に触れ、「よろしい。清くなれ」と言われると、たちまち、重い皮膚病は清くなった。
8:4 イエスはその人に言われた。「だれにも話さないように気をつけなさい。ただ、行って祭司に体を見せ、モーセが定めた供え物を献げて、人々に証明しなさい。」

イエス様はご自分の手で触れて病気の対応をされています。この触れるということが、当時の人々にとって大きな意味があったと言われるのです。では旧約の制度を無視しておられるかというとそうではありません。わざわざ祭司のところに行くように指示されているのです。旧約聖書の祭司の働きについてよくご存知で、尊重なさっていることが分かります。
これまで見てきた旧約聖書のものと違うのは、感染症は単に恐れの対象ではなく、愛や奉仕の対象とされている点です。

だから、キプリアヌスは信徒たちに、このような状況の中にあっても信徒同士を助けるだけでなく、未信者の人たちをも助けて善を行うように強く勧めていたようです。
その元となる聖書のみ言葉を見つけることは難しいことではありません。
例えば、
ヨハ 13:35 互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる。」

マタ
◆敵を愛しなさい
5:43 「あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。
5:44 しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。
5:45 あなたがたの天の父の子となるためである。父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである。
5:46 自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな報いがあろうか。徴税人でも、同じことをしているではないか。
5:47 自分の兄弟にだけ挨拶したところで、どんな優れたことをしたことになろうか。異邦人でさえ、同じことをしているではないか。
5:48 だから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。」

クリスチャンは疫病を畏れるだけでなく、疫病の時にも愛を示す。
このことによってキリスト教の公認に否定的だった皇帝ユリアヌスの心を動かすようになったとも言われています。

これまで見てきたことから、聖書の感染病に対する姿勢は明確です。
旧約聖書には、病気に対して非常に実際的な対処法が語られ、共同体の安全を守るうえでこれらの事柄が厳格に守られることを求めています。
また、新約聖書では、それらを厳格に守り過ぎた弊害として、はじき出されてしまった弱い人々への、イエス様の憐み深いフォローがなされ、それらの救いにあずかった人々が再び共同体の一員として復帰することで、世に神様の愛が示されていくのです。

コロナに対しては実際の所まだまだ分からないことがたくさんありますし、治療法、予防法についても確立されているわけではありません。
だから今、私たちにはこの感染症に対して、できるだけ正しい知識に基づき、その対策を良く練り、それぞれが所属する共同体の人々、また世界のすべての人々と共に感染拡大防止に真摯に取り組むことがまず必要となっているのです。
今であれば、マスクをする、消毒をする、換気をする、三密を避ける、大声で話さない、歌わない。必要以上に出かけない。そんなことです。
そして同時に一人一人が互いをかけがえのない存在として尊び、本当に支援を必要としている人がいるならばそれを行う愛こそが求められていること。
これらのことを実現することが求められているのです。
クリスチャンはそれを示してきたのでしょうか。

歴史的なパンデミックは続きます。大きく記録されているものだけでも、
541年地中海世界を襲ったペスト
1347年ヨーロッパ東アジアから広がったペスト
1518年メキシコでの天然痘、麻疹、腸チフス
1556年ヨーロッパでのインフルエンザ
1665年イギリス、ロンドンのベスト
1600年代 北アフリカ、南アメリカの天然痘、マラリア、黄熱病
1800年代に入って、数年おきにアジア、ヨーロッパ、北アメリア、アフリカをコレラが襲います。
1855年中国からインドにかけてペスト1200万人が死んだとされます。
1900年代に入ってからよく引き合いに出されるスペイン風邪、1957年アジア風邪、1968年香港風邪、これはインフルエンザです。2009年新型インフルエンザもありました。
1961年から続いていてまだ収まっていないと言われるコレラもあります。
そして今回の新型コロナ、コビット19です。

これらの感染の広がりの中で、クリスチャンは神様の姿を示すことができたのでしょうか。
人々が病人を見捨てて逃げる中、クリスチャンが率先して病人の看病にあたり、命を落とすこともあったと記録に残っています。病人に食事や水を与えるというだけで元気になる人もいて、人々から感謝され関心を集め、キリスト教の発展につながった事実もあります。
逆に疫病によって国の力が弱くなり、イスラム勢力の力を強めたりすることもありました。そして、疫病によって南アメリカへのヨーロッパの植民地化に影響を及ぼしたりもしました。免疫のない人々を支配する、そのために疫病が利用されたのです。
聖書にも出てくる隔離の問題も出てきました。
日本でも問題となったハンセン病患者への隔離は、今では公衆衛生上の隔離でなく、社会的な隔離政策と言われています。しかしこれは歴史的に見ればキリスト教社会が最初に生み出したものでもあります。詩編38:12に「疫病にかかったわたしを、愛する者も友も避けて立ち、私に近いものも遠く離れて立ちます」という苦しみをうたっています。
その一つ一つについて評価することはできません。医学の知識も違いますし、状況も違います。しかし、その時代を背景として、病気のおそれと戦いながら、この疫病の広がる時に何をするか、それが問われているのです。

ウィズコロナの時代です。
私たちはまず、旧約聖書に倣って、今ある知識の中でできるだけ疫病が広がらないように努力すべきです。特にこれは健康改革をうたっている私たちにとって必要なことでしょう。
繰り返し言いますが、公衆衛生の観点から、今はマスク、手洗い消毒、三密を避けることなどがこれにあたります。しかし、これはマイナスにしないことです。
私たちは、健康改革の光、知恵を頂いていますから、単に病気にかからない、だけでなく、プラスのこと、体に良いことをする、ニュースタート、セレブレイションといった健康法をもう一度見直していきたいと思います。具体的には睡眠をとる、健康的な食事をする、運動をするなどのことも実践してください。
どんなに気を付けていても病気にかかることもあるでしょう。でも、かかった時に基礎体力、抵抗力、免疫力があるかないかでは違ってきます。今、この時、神様の宮である皆さんの体を整えておくことが大切なのです。
公衆衛生の面だけでなく、精神衛生上の健康も大切です。
私の友人の精神科の医師は、この状況によって自殺者が増えることを本当に心配しています。今回に限らず、これまでのパンデミックで、死についての不安、社会的孤立、疑い、将来の生活への不安などによって、様々な精神的な負担がかかってきました。
ウイルスに接触したと思われる人を「避ける」「嫌がる」「遠ざける」、それだけでなく攻撃的になったり、自分勝手になってしまうといった「差別・偏見」の症状も出てくるのです。マスク警察や自粛警察は今回だけではありません。災害の時にも出てくるのです。これは決しておかしな人が引き起こしているのではありません。普通の人が行っている場合の方が多いのです。
ライフ誌には、このようにならないためのアイディア、隔離期間中にできることを提言しています。神様の創造の業をみることや、毎日感謝できることを見つけて日記を書いたり、出来る範囲で誰かの役に立つことを見つける、メールや電話で祈ったり、励ましたりする、心配する時間に上限を設ける、などです。これはクリスチャンでなくても行うことができます。
アドベンチストとして、聖書を読む、暗唱聖句をする、祈りのリストを増やす、讃美する時間をつくる、家族とこれまでできなかった話、信仰の話をする、などもぜひ考えて見て下さい。

また教会を休会にするという選択をしなくてはいけない時期がやって来るかもしれません。それぞれのご自宅でも礼拝ができるように、準備もしてください。もし、そんなときも教会の礼拝に参加したいのであれば、ネット環境を整えるなどの準備を今、しましょう。
安息日の礼拝出席に不安に感じる場合には、躊躇なく教会を休んでいただいて、ご自宅での礼拝に切り替えて下さい。これは信仰の問題ではなく、健康上、公衆衛生上の問題なのです。どんな時も健康を保ち、安息日を守り、礼拝を行うことができるように備えをしていただきたいと思います。

まだまだこれからどうなるか分かりません。まだ決定的な治療法、予防法がなく、コロナとの戦いが避けられないのであれば、ウィズコロナで進んでいくしかないのです。
神様からの力を頂きながら、クリスチャンとして、アドベンチストとしてこの時を過ごしていきたいと思います。
皆さんの上に神様の守りが豊かにありますようお祈りいたします。