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メッセージ2020年7月4日

イマジン(Imagine) ヨハネの黙示録22:1-5

皆さん、おはようございます。
先日、NHKの音楽番組を録画で見ていました。コロナの影響で授業を受けられなかった子供たちのために、小学校の教科書に載っている曲を中心に取り上げて分かりやすく説明していました。そこで取り上げられていたものの一つは小学校唱歌の一つ「ふるさと」でした。皆さんよくご存知の曲ですし、私たちが老人ホームなどで歌の奉仕をするときに一番ご年配の方が喜ばれる曲です。その曲の説明で、この曲は実は讃美歌と関係がある、と言われたのです。「うさぎおいし、かのやま」6,4の曲調は、もともと日本では珍しくて、当時日本に入ってきていた讃美歌に影響を受けている、そう説明されていました。
実際、このふるさとの作曲家「岡野貞一」さんは、1878年生まれですが、1892年に鳥取教会で洗礼を受け、岡山の教会でオルガンを習っていたそうです。その後、東京音楽学校(今の東京芸大に進み)教授へとなるのですが、夏目漱石の三四郎にも出てくる本郷中央教会のオルガニストとして奉仕をされていたのです。
小学校唱歌の作詞作曲者は、当時は公表されていなかったようなのですが、この岡野さんに限らず、作曲者の多くの人はこのように、西洋音楽、特に讃美歌の影響を強く受けていているということでした。

では、この「ふるさと」は讃美歌です、と言われたらどう思われますか。
歌詞は皆さんご存知だと思います。確認してみましょう。

兎追いし かの山 小鮒釣りし かの川
夢は今も めぐりて、忘れがたき 故郷

如何に在ます 父母 恙なしや 友がき
雨に風に つけても 思い出ずる 故郷

志を はたして いつの日にか 帰らん
山は青き 故郷 水は清き 故郷

この「ふるさと」の歌詞は長野県出身の国文学者高野辰之さんが作詞した、故郷の自然や父母、友人を回想する望郷の歌です。しかし、この故郷を、聖書の舞台ととらえて、天のみ国と考えても、十分意味が通じるものです。1番、2番、3番を、過去、現在、未来と考えて読み替えると、故郷を離れて過ごす、罪のために天のみ国を離れて過ごす私たちの心を歌っていると考えることもできるのです。特に3番はどうでしょうか。心打つ歌詞です。

聖書には、私たちがこれから行くことになる天のみ国の描写がされています。皆さんは天の御国をどのように想像されるでしょうか。先ほど聖書朗読で読んでいただきました聖句は黙示録の最後の場面です。説教でよく使うのは21章からの場面です。もしかすると、西洋の人はシンデレラ城のような都が降りてくるこのような晴れやかな場面を喜ぶのかもしれません。しかし、私たち日本人が帰る場所として心に描くのは、この22章の場面、故郷の描く情景、自然の様子なのかもしれません。皆さんは、どう思われるでしょうか。
今日はこの22章の天の光景を想像していただきたいと思います。み言葉を聞いて、想像しながら過ごしていただきたいと思います。

黙示録22章Ⅰ-5節
22:1 天使はまた、神と小羊の玉座から流れ出て、水晶のように輝く命の水の川をわたしに見せた。
22:2 川は、都の大通りの中央を流れ、その両岸(りょうがん)には命の木があって、年に十二回実を結び、毎月実をみのらせる。そして、その木の葉は諸国の民の病を治す。
22:3 もはや、呪われるものは何一つない。神と小羊の玉座が都にあって、神の僕たちは神を礼拝し、
22:4 御顔を仰ぎ見る。彼らの額には、神の名が記されている。
22:5 もはや、夜はなく、ともし火の光も太陽の光も要らない。神である主が僕たちを照らし、彼らは世々限りなく統治するからである。

何を想像したでしょうか。ヨハネの黙示録の21章、22章。これは聖書のラストシーンです。創世記から始まった長い長い聖書の救いの物語が、ついに完成を迎えるのです。その究極の世界が描かれています。これは聖書の中の物語の世界ではなく、私たちが実際に向かっている世界なのです。私たちはどこに向かって歩んでいるか。それはここに描かれている所に向かっているのです。

黙示録の中で、私たちは天での礼拝や地上での出来事に目を向けます。そしてキリストの再臨があり、最後の審判。そしてまた天の光景に目を向けます。そしてイエス・キリストを信じる者たちが待ち望んだ天の都、永遠の神の都が現れるのです。この光景は、1世紀の終わりに、12使徒の中で最後まで生き残っていた使徒ヨハネが、神様から希望として見せられたものです。ヨハネはそれを自分の力のできる限りの表現を用いて私たちに見せてくれているのです。神殿のきらびやかなものもいいのですが、22章では、自然の風景が描かれます。1節にあるように、都には「命の水の川」が流れていたと書かれています。それは水晶のように輝いているのです。非常に美しく輝いている、透き通った川です。どんな川を思い浮かべられますか。しかしそれはただ美しいというだけではありません。意味があります。
同じヨハネの書いた福音書の4章に書かれている、イエスさまとサマリアの女との会話にヒントがあります。

ヨハネによる福音書4:13、14
4:13 イエスは答えて言われた。「この水を飲む者はだれでもまた渇く。
4:14 しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」

私たちはどんなに水を飲んでも、またのどが渇きます。特に暑い時期は熱中症の危険があります。皆さん、遠慮せずに十分に水を飲んでください。しかしイエスさまが与える水は、決して渇かない。そればかりか、その人の内に泉となって、永遠の命に至る水が湧き出るとおっしゃるのです。その水はどこから来るのでしょうか。その源は、私たちが行くことになっている、天の都の中央を流れていた、命の水の川です。この川は、美しい良い景色のために流れているのではありません。その川の水源は、22章1節に「神と小羊の玉座から流れ出て」と書かれています。神と小羊は父なる神様とイエス様、つまり命の水の川は、父なる神様が座っておられる玉座とイエス様が座っておられる玉座から流れ出しているのです。


22:2 川は、都の大通りの中央を流れ、その両岸には命の木があって、年に十二回実を結び、毎月実をみのらせる。そして、その木の葉は諸国の民の病を治す。

その川は、都の大通りの中央を流れています。誰もが行くことのできるところです。そして、誰もがそこに行って飲むことができるのです。そしてその川の両岸には「命の木」が生えているのです。「命の木」、聖書の一番初めの方に出てきます。創世記の2章です。あのエデンの園の中央に生えていました。しかし次の3章で、人間が神様に背いて罪を犯したので、人間はエデンの園から追放されることになりました。この時、私たちは永遠の命を失ったのです。この命の木が、聖書の一番最後に再び現れるのです。聖書の最初と最後にこの命の木が登場します。その歴史の真ん中に、イエス様の十字架が立っている。これが聖書の構造です。人間の罪によって失われた命の木が、イエス様が十字架上で私たちのために流された血と命と引き替えに、回復され、それが私たちのために用意されているのです。救いの物語のラストシーンです。この命の木は年に12回実を結ぶ、毎月実を結ぶのです。実に豊かな、尽きることのない実です。その都で私たちは、それを自由にとって食べることができる。


22:3 もはや、呪われるものは何一つない。神と小羊の玉座が都にあって、神の僕たちは神を礼拝し、
22:4 御顔を仰ぎ見る。彼らの額には、神の名が記されている。

さて、天の都に住む人々は何をしているのか。「神と小羊の玉座が都にあって、神の僕たちは神を礼拝し、御顔を仰ぎ見る」。 父なる神の御座を前にして、み顔を見て、すなわち神とキリストとお会いして、礼拝するのです。


22:5 もはや、夜はなく、ともし火の光も太陽の光も要らない。神である主が僕たちを照らし、彼らは世々限りなく統治するからである。

この「世々限りなく」という言葉は、直訳すると「永遠の、永遠まで」という言葉になります。いつまで神の都に住むのか。「永遠の永遠まで」。「永遠」だけでも終わりがないのですが、その「永遠の永遠まで」というのですから、終わりがない。終わりがないというだけではない。永遠と聞くと退屈するような長い時のイメージがあります。でも永遠を重ねることで、この言葉は永遠なのだけれども次々と新しくされていくようなイメージが与えられているのです。尽きることのない興味を満たしてくれる場所なのです。そのように、神とキリストにお会いして、その御顔を仰ぎ見て、永遠の永遠まで神を礼拝する。天の都の住人として、主と共に治める、そこに私たちは招かれているのです。

ザックリと見ていきましたが、皆さんはイメージできたでしょうか。
それを思い浮かべているから、イメージできるから、今、教会で礼拝をしているのです。天国で行われていることを、教会は地上で先取りしておこなっているのです。地上の教会の礼拝では、直接神様とイエス様のお顔を見ることができていませんが、私たちは聖霊の神様を通してお会いすることができるのです。
でもコロナの影響で教会は長い間プログラムをお休みしていました。教会員の方々から、いつ再開ですかと何度も何度も問いかけられました。何で一緒に礼拝がしたいか。ネット配信ではだめなのでしょうか。ダメではありません。でも足りない。何故か。天の礼拝を思い浮かべて、その先取りをしたいからです。再開できている今も、思いっきり賛美できていません。そのことがなぜ悲しいか。それはこの天の礼拝と違うことを行っているからです。当たり前にできていた時には気が付かなかったこと。旧約聖書のヤコブではありませんが、「まことに主がこの場所におられるのに、わたしは知らなかった。」(創世記28:16)私たちは知らなかったのです。気がつかなかったのです。礼拝の中に、主がおられることを。だからこそ、私たちは今、きちんと思い浮かべなくてはいけないのです。私たちが思い浮かべなくてはいけないのは、この地上で礼拝をしている時、イエス様にお会いし、やがて天の都で永遠から永遠へ、主の顔を仰ぎ見て礼拝していることなのです。

今日の説教題「イマジン」は、1971年に発表されたジョン・レノンの楽曲からとりました。「想像しなさい」という言葉です。ジョン・レノンの曲は、想像するものに、最初に、天国もないこと、と言っていたり、宗教もないこと、といっていることから、教会では少し嫌われている曲です。彼が述べているのは、人々を苦しませているもの、天国、地獄、国なんてない。宗教もない。財産も。そんな地球上に生きる多くの人々が不安に感じるようなものはないことを想像してみようよ、ということです。そして私たちが幸せに、平和に、一つとなって暮らしていることを想像してみようよ。そんな歌でしょうか。作られた時代背景が関係しています。その一つはベトナム戦争。アメリカが軍事介入したこの戦争は泥沼化し、当時深刻な社会問題となっていたのです。だから平和への思いが強く出ているのです。歴史的には宗教も戦争を作り出していた。だからジョン・レノンはこのように歌ったのでしょう。想像することは大切です。大切ですが、何を想像するかも大切なのです。
このコロナの影響で人々の心の変化が話題になっていました。外出や営業などの自粛要請に応じない個人やお店などに対して、正義感や嫉妬心、不安感などから私的に取り締まりや攻撃を行う人たちが出てきました。自粛警察と言われました。そのことが起こる前にはマスク警察も出てきました。列車の中でマスクをしていない人を非難してつかみ合いになったり。
誰も決しておかしな人ではありません。普通の人です。しかし、思い描くものによって行動が変わってしまうのです。だから想像してみることは大切ですが、何を想像するかも大切なことです。
何が起こっているか。小さなことですが、マスクで考えましょう。先日東京に行ってきましたが、マスクをしない人が増えてきました。考えてみると、私も最初の頃はいつもはしていませんでした。マスクで感染しないようにはできない、と思っていたからです。これは今も間違っていないと思っています。私が想像していたのはそのくらいでした。で、しなかった。その後マスクで言われ始めたのが、顔を触ることで感染を防ぐことができる。それで自分を守れる。なるほど。でも、まだ納得しませんでした。
でも、このコロナは症状が現れない、自覚症状のない人が感染源になっていることがある。そして、マスクは私たちの飛沫の広がりを防ぐことができる。つまり、自分が感染を広めていることがある、そう言われた時に「マスクをしよう」と思ったのです。なぜか。周りにいる人を守りたいと思ったからです。自分でなく周りの人。私はそう思い描くことができた時、想像できた時に行動が変わったのです。
相手を変えるのは難しいことです。力を使ったりすれば簡単でしょう。でも、想像することで自分が変わることができるし、想像してもらうことで、相手に変わってもらうことができるのです。マスクをなぜするのか。みんなが感染しないことを思い浮かべれば変わることができるのです。
このマスクに関してネットにある話がのっていました。
騒動の最初の頃です。ある時、電車の中で、おじいさんの声が響いたそうです。「お前、なんでマスクしないのだ」女の子に向けられたものでした。皆さんは何を想像しますか。おじいさんは何を想像していたのでしょう。女の子は、そして周りの人は。周りの人は、またトラブルになる、しーんとしたそうです。皆さんと想像したのも同じだと思います。その時女の子が「だってマスクがないんだもん」と笑って答えたそうです。そう、マスクが買えない時でした。それだけでありません。みんな思っていたのとは違って、女の子はおじいさんを怖いものとは考えなかったでしょう。するとおじいさんは、「それならワシは持っているからあげよう」そうマスクをあげた、という話がのっていました。
周りの人、おじいさん、女の子、それぞれ想像するものが違っている。それが今の私たちの社会です。その中で何を想像することがいいのでしょうか。想像することでトラブルにもなるし、幸せにもなるのです。

教会でもマスクのお願いをしています。受付の気苦労は大変だと思います。感染者を出してはいけないことを考えているからです。
でも、私は想像できていないことがありました。テレビで先日やっていました。実はマスクができない人もいるというのです。
一つは、公益社団法人日本小児科医会が言っています。「2歳未満の子どもにマスクの着用は不要であり、むしろ危険」。そう子供連れで、子供にマスクをさせないで、親御さんだけマスク、というのをよく見ていました。なんでマスクさせないのだろう。私は知らなかったのです。
そして、もう一つ、感覚過敏の症状を持つ人もマスクをつけられないのだそうです。14歳の中学生が、そのことを伝えるカードを作ったとニュースで見ました。私は、想像できませんでした。マスクができない人がいること。
想像はします、しかし、想像力が足りないのです。想像することで、優しくもなれるし、過激な反応に出ることもある。私たちは何を想像するかは大切なのです。

ヨハネは黙示録21章、22章でこの天の御国を想像するように記事を残しています。
光景だけでなく、そこに誰がいるかも想像してみましょう。私はいつもイザヤ書55章が私の働きの原点だと言っています。この55章最後に天の御国への情景が描かれています。私はいつもこの光景を想像します。

イザヤ書
55:12 あなたたちは喜び祝いながら出で立ち/平和のうちに導かれて行く。山と丘はあなたたちを迎え/歓声をあげて喜び歌い/野の木々も、手をたたく。
55:13 茨に代わって糸杉が/おどろに代わってミルトスが生える。これは、主に対する記念となり、しるしとなる。それはとこしえに消し去られることがない。

ホワイト夫人が初代文集に書いている最初の幻の光景によく似ています。
皆さんは天の御国、そしてそこに入る道筋をどのように想像しているのでしょうか。誰と一緒にそこに向かっているのでしょうか。この地上では、まず、私たちがイメージしていかなくては、それは実現されません。再臨信徒の第一の使命です。
しっかりと想像して、それを神様によってかなえて頂けるようにお祈りしていきましょう。
神様の祝福をお祈りします。