Home » 礼拝メッセージ » メッセージ2020年7月18日

メッセージ2020年7月18日

ギデオンと勇者たち 士師記7:13,14

皆さん、おはようございます。
コロナの影響で自粛の叫ばれていた時、そして教会のプログラムが休会になっていた時、皆さんはどのように過ごされていたでしょうか。この期間の証しを残そうと、ライフ誌でコロナ時の「証し」を特集しようとしています。何か題材がないか、ちょっと皆さんにお聞きしたことがあります。その中で聖書をもう一度読み直してみた。証の文を読んでみた、そういう方が何人もおられました。どこから、どこまで読まれたかはお聞きしませんでしたが、マイナスをプラスに持っていく姿に感謝いたしました。
旧約聖書を通読していると、出エジプト記の後半や、レビ記あたりから、読んでいるのがつらくなるという話をよく聞きます。そして、ヨシュア記が終わり、士師の時代に入ってくると分からなくなる、という風になるようです。
私は小学校でチャプレンとして奉仕させていただいています。聖書の授業も担当していますが、5年生は旧約聖書、6年生は新約聖書を学んでいます。小学生の教科書も、中ほど、士師記のあたりになると、急に話が分からなくなるのです。なぜか、イスラエルの民たちのリーダー、登場人物がくるくる変わるからです。その次のサウル、ダビデ、ソロモンと言ったイスラエル統一国家の王になるとまたつながるのですが、その後、北王国イスラエルと、南王国ユダに分裂していくと、また分かりにくくなる。王様が変わり、預言者が変わり。
私達もあらかじめイスラエル国家の大きな流れと背景を知っていればいいのですが、知っていることが前提で書かれている聖書を、歴史や背景が違う私たちが読んだだけではなかなか理解できない、悔しい思いがします。背景を理解するためには、今は「まんが」で読むこともできますが、小学生は他にも吸収しなくていけないこともたくさんあるようで。
このような時代と場所の隔ての壁は大きなものがあるようです。
皆さんはどうでしょうか。
今日取り上げるのはギデオン、士師の中では有名な人物です。おそらく、ギデオン、サムソン、サムエル。士師として知っておかなくていけない人物の要です。そこでギデオンを今日はちょっと取り上げてみたいと思います。

アブラハムから始まるイスラエルの歴史。創世記でアブラハム、イサク、ヤコブ、そして、出エジプト記でモーセ、ヨシュアとリーダーが変わっていきます。その後出てくるのがさばきつかさ、士師。神様から遣わされた宗教的、政治的リーダーです。士師記には12人の士師が出てきます。その内の一人がギデオン。ギデオンは旧約聖書士師記の6章から8章に出てきます。
その時のイスラエルの状況は6章の最初に出てきます。拾ってみましょう。

士 6:1 イスラエルの人々は、主の目に悪とされることを行った。主は彼らを七年間、ミディアン人の手に渡された。

士 6:6 イスラエルは、ミディアン人のために甚だしく衰えたので、イスラエルの人々は主に助けを求めて叫んだ。

士師記ではパターンが決まっています。イスラエルの民たちが主の目に悪とすることを行う。そうすると周りの民族の力が強くなり、いろいろちょっかいをかけられる。イスラエルの人々は困るので、神様に助けを求めて叫ぶ。そこに指導者となる士師が送られる。人々が神様に立ち返り、助かる。そして…。
こんな状況だったのです。今回、ちょっかいをかけるのがミディアン人。そこに遣わされたのがギデオンでした。
ギデオンは石橋をたたいて渡る人だったのでしょう。神様からの召命があっても、すぐには動きません。それが神様からのものかどうか、確認します。捧げものが焼き尽くされたりするなどの「しるし」を得るまでは動きません。しかし、動き始めると大胆に行動する。そういう指導者でした。これが6章です。
いよいよギデオンとミディアン人との戦いの場面に移ります。旧約聖書士師記7章をお開き下さい。1節から順に読んでいきたいと思います。

7:1 エルバアル、つまりギデオンと彼の率いるすべての民は朝早く起き、エン・ハロドのほとりに陣を敷いた。ミディアンの陣営はその北側、平野にあるモレの丘のふもとにあった。
7:2 主はギデオンに言われた。「あなたの率いる民は多すぎるので、ミディアン人をその手に渡すわけにはいかない。渡せば、イスラエルはわたしに向かって心がおごり、自分の手で救いを勝ち取ったと言うであろう。

ギデオンは、ミディアン人と戦うために、エン・ハロド、ハロデの泉と言われる場所に陣を置きました。一方ミディアン人は、その北、モレの丘に陣を構えました。両軍が向かい合ったのです。
その時、主はギデオンに言われました。
「あなたの率いる民は多すぎるので、ミディアン人をその手に渡すわけにはいかない。」
そうです、あなたと一緒にいる兵は多すぎるので、私はあなたを勝たせるわけにいかない。
びっくりです。この時ギデオンの兵は三万二千人です。一方、ミディアン人の兵は十三万五千人です。どうして十三万五千人であったということがわかるのかというと、8章10節に、この時の兵の数が記されています。十三万五千人に対して三万二千人、約四分の一。ギデオンの方が圧倒的に少ない。では、なぜ主はそんなことを言われたのでしょうか。
その理由が書いてあります。それは、「渡せば、イスラエルはわたしに向かって心がおごり、自分の手で救いを勝ち取ったと言うであろう。」そう、イスラエルが『自分たちがやった』と言ってしまうからです。
私たちはちょっとでも成功したり、勝利したりすると、あたかもそれを自分の手で成し遂げたかのような錯覚を持ってしまいがちです。この戦い、そのように思って主に対して誇ることがあるとしたら、人々はまた神様から離れてしまう、本末転倒です。
これは主の戦いであり、主が勝利を与えてくれるのだから、主に栄光を帰すものにならなくてはいけません。
それで主はどうされたかというと、3節です。

7:3 それゆえ今、民にこう呼びかけて聞かせよ。恐れおののいている者は皆帰り、ギレアドの山を去れ、と。」こうして民の中から二万二千人が帰り、一万人が残った。
人数を絞ったのです。最初のふるいは恐れおののく者、でした。なぜなら、戦いにおいて恐れおののく者は戦力にならない、神様への信仰がないからです。すると、二万二千人が帰って行き、一万人が残りました。

すると主は続いてギデオンに言われました。
7:4 主はギデオンに言われた。「民はまだ多すぎる。彼らを連れて水辺に下れ。そこで、あなたのために彼らをえり分けることにする。あなたと共に行くべきだとわたしが告げる者はあなたと共に行き、あなたと共に行くべきではないと告げる者は行かせてはならない。」

「まだ多すぎる。」えっ、たったの一万人しかいないのですよ。それなのに、まだ多すぎるとはどういうことですか。これ以上少なくなったら戦いになりません、私たちなら思うでしょう。
しかし、主のお考えはそうではありません。主にとっては兵力がどれだけいるかなんて関係ないのです。主にとって大切なことは、主を畏れ、主に従う信仰の勇士がいるということ。主はその兵士を用いて圧倒的な勝利をもたらすことができるからです。
そこで、主が用いられた次のふるいは、彼らを水辺に連れて行き、彼らをより分けるということでした。

7:5 彼は民を連れて水辺に下った。主はギデオンに言われた。「犬のように舌で水をなめる者、すなわち膝をついてかがんで水を飲む者はすべて別にしなさい。」

立って、手で水をすくって飲んだ者だけが残されたのです。
なぜなのか。いつもここを読むとき不思議でした。ホワイト夫人はここを週報の瞑想の言葉のように解説しています。
(人類のあけぼの53章)「品性は、ごく簡単な方法で試みられるものである。危機に際して、自分の必要を満たすことに心を奪われているような者は、危急の場合に信頼できる人ではない。主は、怠惰で放縦な人をご用にお用いになることはできない。主が選ばれる人は、自己の必要のために義務の遂行を遅らせたりしないわずかの人々である。300人は、勇気と自制があるばかりか信仰の人であった。彼らは、偶像礼拝によってその身を汚していなかった。神は、彼らを導き、彼らによってイスラエルを救済することがおできであった。成功は、数によらない。神は、多数によると同様に、少数によっても救うことがおできである。神は、神に仕える者の数の大きさよりは、むしろ、彼らの品性によって、栄誉をお受けになる。」

これはどういうことかというと、犬のように水をなめる者は水を飲むことだけに注意が向きすぎ、敵の攻撃に対して無防備となるので、戦力にならない。
また、ひざまずくという行為は、バアルに仕える偶像礼拝の習慣を暗示していると考えられたのです。
それに対して立って、手ですくって水を飲む者は、敵からの不意の攻撃にも備える注意力があるということではないかと思われます。
このように備えのある人が選ばれたのです。何人になったか。

7:6 水を手にすくってすすった者の数は三百人であった。他の民は皆膝をついてかがんで水を飲んだ。
7:7 主はギデオンに言われた。「手から水をすすった三百人をもって、わたしはあなたたちを救い、ミディアン人をあなたの手に渡そう。他の民はそれぞれ自分の所に帰しなさい。」
7:8 その民の糧食と角笛は三百人が受け取った。彼はすべてのイスラエル人をそれぞれ自分の天幕に帰らせたが、その三百人だけは引き留めておいた。ミディアン人の陣営は下に広がる平野にあった。

しかし、主は言うのです。「手から水をすすった三百人をもって、わたしはあなたたちを救い、ミディアン人をあなたの手に渡そう。他の民はそれぞれ自分の所に帰しなさい。」
ギデオンはイスラエル人をみな、それぞれ自分の天幕に送り返し、300人だけを引きとどめました。兵力は300人に絞られました。300人では、人間の目には何の役にも立たないかのように思われたでしょう。
300人の兵力で13万5千人の敵を攻めるというのは、無謀なことです。しかしギデオンは、神様からの言葉だという確信をもって、大胆にこの300人の勇者たちで立ち向かうのです。

さあ、いったいどうなったでしょうか。ギデオンは大胆に進むことができたのか。その戦いの続きを見ていきましょう。

7:9 その夜、主は彼に言われた。「起きて敵陣に下って行け。わたしは彼らをあなたの手に渡す。 7:10 もし下って行くのが恐ろしいなら、従者プラを連れて敵陣に下り、
7:11 彼らが何を話し合っているかを聞け。そうすればあなたの手に力が加わり、敵陣の中に下って行くことができる。」彼は従者プラを連れて、敵陣の武装兵のいる前線に下って行った。

主はギデオンに、「起きて敵陣に下って行け。」と言われました。なぜなら、主が「わたしは彼らをあなたの手に渡す。」ここは新改訳では「それをあなたの手に渡したからです。」完了形で書かれています。前の説教でお話した通りです。もう渡している、そういう意味です。前の説教では、その場合には確信をもって、大胆に進めばいい、そう言いました。しかし、現実は難しい。
でも、主はそれをご存知でした。ギデオンが恐れているということを知っておられました。だから、「従者を連れて敵が何を言っているか聞いてこい」と言われたのです。
それは、敵陣の戦力や配置を知り、作戦を練るためではありません。ギデオンの心によぎる恐れを、解消するためでした。敵は何を言っていたか。

7:13 ギデオンが来てみると、一人の男が仲間に夢の話をしていた。「わたしは夢を見た。大麦の丸いパンがミディアンの陣営に転がり込み、天幕まで達して一撃を与え、これを倒し、ひっくり返した。こうして天幕は倒れてしまった。」
7:14 仲間は答えた。「それは、イスラエルの者ヨアシュの子ギデオンの剣にちがいない。神は、ミディアン人とその陣営を、すべて彼の手に渡されたのだ。」
7:15 ギデオンは、その夢の話と解釈を聞いてひれ伏し、イスラエルの陣営に帰って、言った。「立て。主はミディアン人の陣営をあなたたちの手に渡してくださった。」

行ってみると、ちょうど一人の者が仲間に夢の話をしていました。それは、「大麦の丸いパンがミディアンの陣営に転がり込み、天幕まで達して一撃を与え、これを倒し、ひっくり返した。こうして天幕は倒れてしまった。」というものでした。
この夢は何を語っていたか。大麦とは貧しい人が食べるパンです。それは貧弱なイスラエルを指し、天幕とは遊牧民のミディアン人を指しています。
大麦のパン、ほんの小さなイスラエルの群れが、天幕、ミディアンの大群を打ち倒すというのです。敵は、戦う前からすでに、ギデオンとの戦いに恐れを抱いていました。
主はそのような思いを敵に植え付けておられたのです。

それを聞いたギデオンは、主を礼拝し、イスラエルの陣営に戻って言いました。「立て。主はミディアン人の陣営をあなたたちの手に渡してくださった。」
圧倒的な敵の兵力の前に恐れていたギデオンでしたが、主が戦ってくださると言うこと、そして、必ず勝利を与えてくださると確信したので、彼は立ち上がることができたのです。

さて、恐れが解消されたギデオンはどうしたでしょうか。
16節から見ていきましょう。ここからは要約します。
ギデオンは、三百人を三隊に分け、全員の手に角笛と空の壺を持たせ、その壺の中にたいまつを入れさせました。空の壺は、敵に近づくまでたいまつを隠し、近づいたところでその壺を一斉に割り、大きな音を立てるため。そうすれば、三百人しかいないイスラエル軍が、数多くの軍隊のようにと見せることができるからです。ギデオンは三百人に、武器を取って戦うようにと言いませんでした。彼らに必要なのは、主が戦ってくださると信じ、ただ主の命令に従うこと。
敵はギデオンを恐れていました。すでにギデオンの名前は知られていました。だから彼らが角笛を吹き鳴らす時に叫ばなければならなかったのは、18節「主のために、ギデオンのために」ということでした。これは主の戦いだったからです。

19節からをご覧ください。
真夜中、ギデオンと、一緒にいた百人の勇者が敵陣の端に着きました。ちょうどそのとき、見張りの者が交代したばかりだったので、すぐに彼らは角笛を吹き鳴らし、その手に持っていた壺を打ち壊して、「主のために、ギデオンのために剣を」と叫んで、敵陣に突入したのです。
するとどうでしょう。陣営の者はみな走り出し、大声をあげて逃げて行きました。
それから三百人が角笛を吹き鳴らすと、今度は敵陣全体にわたって同士討ちが起こったのです。軍勢はちりじりになって逃げていったのです。

神様への完全な信頼と、神の御業による奇跡的な大勝利です。
このことは語り継がれました。サムエル記上14:6にサウル王の息子、ダビデの親友ヨナタンが言っています。「主が勝利を得られるためには、兵の数は問題ではない」二人でペリシテ人へ向かっていくこともできるのです。
しかし、そのためには私たちが勇者にならなくてはいけません。まず、神が私たちの味方であるかどうかが勝負の分かれ目です。そして、私たちの神様への信仰、恐怖におののいた心では戦うことはできません。そして備える心。それがあれば、たとえ勝ち目がない戦いであっても、主が勝利を約束してくださったものは、必ずそのように導かれます。私たちは、主に信頼し、主の勝利にあずかる者となりましょう。

コロナの戦いも始まったばかりなのかもしれません。そして戦いはコロナだけではありません。終わりの時、私たちの戦いに勝利するために、準備をして、「主のために」進んでいきたいと思います。