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メッセージ2020年6月27日

神のみ言葉によって生きる ヤコブ1:22-25

皆さん、おはようございます。
新型コロナの影響で、教会のプログラムもいろいろと影響を受けています。
教会の大切なプログラム、安息日学校も、現在は行っていません。いわゆる自習期間です。今期は本当に一度も一緒に学ぶことができませんでした。「聖書をいかに解釈するか」というガイドでしたが、皆さんは自習をされていますか。解釈の方法や原則について、いろいろな方法について学びました。最後の13課、一番大切なことが、今日の説教題になっています。
13課「神のみ言葉によって生きる」ということです。

最初にみ言葉をいただきましょう。ヤコブの手紙1:22です。ガイドの暗唱聖句の箇所です。

ヤコブ(新422p)
1:22 御言葉を行う人になりなさい。自分を欺いて、聞くだけで終わる者になってはいけません。

ここにあるように、一番大切なのは、み言葉を行うこと。どんなに聖書を正しく解釈しても、み言葉を行わなければ意味のないことです。これこそがヤコブ書のテーマです。
しかし、ヤコブ書はあまり読まれません。一つは信仰による義と行いによる義の戦いにこの書が巻き込まれてしまっているからです。
もう一つが、行いが大切なことはよく理解できるのだけれども難しいと感じるからです。

例えば私が神様から牧師として命じられていることがいろいろありますが、大きなものは大宣教命令。マタイによる福音書の最後のところにある命令です。中心は
マタ 28:19 「だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。」
「弟子作り」。これは全ての牧師、教会にとって、イエス様から与えられた最大の使命です。しかし、この弟子つくりはなかなか難しいです。教勢が伸びないのはここに原因があります。実際にできていないのです。そういう意味でやっていないじゃないか、私には耳の痛い言葉なのです。
皆さんはどうでしょうか。日ごとの聖書との語らいの中で、神様が皆さんに語りかけている言葉を実行しているでしょうか。
このことに関して、今日は少しみ言葉から光を頂きたいと思います。

もう一度、ヤコブ1:22から少し長く見てみましょう。
1:22 御言葉を行う人になりなさい。自分を欺いて、聞くだけで終わる者になってはいけません。
1:23 御言葉を聞くだけで行わない者がいれば、その人は生まれつきの顔を鏡に映して眺める人に似ています。
1:24 鏡に映った自分の姿を眺めても、立ち去ると、それがどのようであったか、すぐに忘れてしまいます。
1:25 しかし、自由をもたらす完全な律法を一心に見つめ、これを守る人は、聞いて忘れてしまう人ではなく、行う人です。このような人は、その行いによって幸せになります。

どんな人が出てきているでしょうか。
出てくるのは「行う人」と「聞くだけの人」です。当時、教会で「行う人」と「聞くだけ人」と二種類に分けていた可能性があります。もしそうなら、ヤコブが教会の人々を見回して、「あなたは行なう人ですね」「あなたは聞くだけのですね」と言っていたとしたら、本当に厳しい、裁き合いの教会のような気がします。

私たちはどうなのでしょうか。
礼拝のこのメッセージの時間は、私が「話す人」で、皆さん全員が「聞く人」になっています。そしてその後、2つに別れてしまうのです。礼拝が終ってから、ある人たちは「行う人々」になり、またある人は「聞く人々」になります。私も例外ではありません。
「聞く人」の中に牧師が入っている可能性もあるのです。牧師は人に語って、「ああしろ」「こうしろ」と指図します。それを嫌がって、牧師を嫌う人もいますが、しかし、牧師の三本の指は「あなたは行っていますか?」と自分に向かってくるのです。牧師もつらい役回りです。だからヤコブもつらい役を負っていた気がします。
でも、著者と言われているヤコブはイエス様の教えをきちんと聞いたことがある人物。実は厳しい中に、どことなく、イエス様の姿、優しさがうかがえるのです。
この箇所も皆さんは山上の説教、マタイ7章の最後の部分を思い浮かべないでしょうか。

マタイ(新12p)
◆家と土台
7:24 「そこで、わたしのこれらの言葉を聞いて行う者は皆、岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ている。
7:25 雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家を襲っても、倒れなかった。岩を土台としていたからである。
7:26 わたしのこれらの言葉を聞くだけで行わない者は皆、砂の上に家を建てた愚かな人に似ている。
7:27 雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家に襲いかかると、倒れて、その倒れ方がひどかった。」

なぜイエス様がこのたとえを語ったか。
当時イエス様のところには多くの人が教えを聞きに集まってきました。
みんな「素晴らしい教えだ、なんと権威ある教えだ。いままで聞いたこともない。」そう思ったのです。彼らはイエス様の教えを聞いたのです。
でも、イエス様はご存知でした。この聴衆の中には、聞いて行う人と、聞くだけの人がいることを。直接言っていられるのは、イエス様のことばを聞いてそれを行う者はみな、岩の上に自分の家を建てた賢い人なのです。一方、イエス様のことばを聞いてそれを行わない者、つまり聞くだけの人はみな、砂の上に自分の家を建てた愚かな人なのです。
両者ともイエス様のことばを聞いているのです。
決定的な違いは、イエス様のことばを行う者になっているか、あるいは聞くだけの者になっているか、です。

イエス様も分かりやすいように、ヤコブと同じように人々を2つに分けて説明しています。でもイエス様のまなざしはどうか。私は優しいまなざしを感じます。ヤコブも同じはずなのです。

集まった人はどんな人か。求めていた人達です。イエス様について山に登らないと聞くことはできなかったのです。悪い人、間違った人ではありません。そうして努力して聞いても、講演会のように「ためになる話」として聞いていたらどうでしょうか。自分に言い話だからやってみよう、は講演会だけに通用することです。
ためになる話を聞く、というのは、自分が主体で、語られることを聞くか聞かないかはその人次第です。講演会に行くか行かないか、話を聞くか聞かないか、そしてそれを行うか行わないか。全てその人、自分が主体となってやっていることです。
でも、礼拝、神様からのみ言葉は別です。
あのちいろば先生こと、榎本保郎牧師は「私たちが一旦、聖書を神のことばとして認めたら、主従が逆転し、私たちが神のことばに従うしかない。」と言っておられました。どういうことか。
聖書を読む人はたくさんいるでしょう。でも、多くは自分が主人となって、自分のための真理や導きを求めて読んでいるのです。でも、神様の言葉として読むならば、そうはいきません。決定的な違いは何か。主人は神様だからです。自分が主人になっているか、神様が主人になっているか、それが決定的な違いなのです。
聞くだけの人は、自分が主人となって「これは従えるけど、これは従えない」と振り分ける。
しかし、「みことばを行う人」は違うのです。
「あなたのみことばは真実であることを心から認めます。だから、私はあなたのみことばが実行できる、できないに関わらず従います」
その人は自分の立っていた王座から降りて、神様、真理のみ言葉を王様にし、「私はあなたに従います」としもべになるのです。

今はどうでしょう?ちまたでは自分が主人の人があふれています。
私もよくやります。テレビを見ていて、専門家でもないのにコメンティターになってしまうこと。話を聞いて、「それは違う、こうでしょう。そうじゃない」。そのように自分の思いでその人を切るのです。そういう人は、ずっとこれから先も、「聞くだけの人」であり「行わない者」です。

そうではなく、「みことばを行う人」はどうか。最初は聖書のことをよく知りません。でも心の王座を真理のみことばに明け渡し、このように告白します。
「聖書の創世記から黙示録まで、神さまのことばであることを認めます。実行不可能なこと、信じられないような奇跡も、矛盾と思われるような箇所もあるでしょう。しかしそれでも信じます。それは真理である神さまのことばだからです。この言葉に従います。」
そうするうちに、信じられない奇跡、矛盾と思われる箇所も分かってきて、より信仰が深まるのです。「聞くだけの人」ではなく、「行なう人」の仲間入りをすることができるのです。イエス様はこのみ言葉によって生きる人を歓迎しておられるのです。

23、24節に、み言葉を実行する人と実行しない人の違いがはっきりと記されています。
1:23 御言葉を聞くだけで行わない者がいれば、その人は生まれつきの顔を鏡に映して眺める人に似ています。
1:24 鏡に映った自分の姿を眺めても、立ち去ると、それがどのようであったか、すぐに忘れてしまいます。

み言葉を聞いても行わないなら、生まれつきの顔のまま、変化がなく、すぐに忘れてしまう。
でも、行うと変わることができます。

1:25 しかし、自由をもたらす完全な律法を一心に見つめ、これを守る人は、聞いて忘れてしまう人ではなく、行う人です。このような人は、その行いによって幸せになります。

なぜ、ここで鏡が出てくるのでしょうか。旧約の時代の鏡は青銅を磨いて作られたもの。幕屋、神殿の中に置かれた、洗い清めの洗盤は、この鏡から作られました。(出エ38:8)幕屋、神殿で祭壇でいけにえを捧げた後に行くのは、この鏡から作られた洗盤でした。私たちは聖霊によるきよめの中で、手をきよめるだけでなく、自分の姿を見ながら変わっていくのです。
聖書はそのことについてはっきり書いています。
2コリント3:17-18(新328p)
3:17 ここでいう主とは、“霊”のことですが、主の霊のおられるところに自由があります。
3:18 わたしたちは皆、顔の覆いを除かれて、鏡のように主の栄光を映し出しながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられていきます。これは主の霊の働きによることです。
そしてどうなるか。
2コリント4:16(329p)
4:16 だから、わたしたちは落胆しません。たとえわたしたちの「外なる人」は衰えていくとしても、わたしたちの「内なる人」は日々新たにされていきます。

内なる人、それが主と同じ姿に造りかえられていく、日々新たにされて心の顔が変わっていくのです。でも、私たちはだまっていて、内なる人が成長するわけではありません。神さまと交わり、み言葉を行うからこそ変われるのです。
どんなにダイエットの本を読んでも痩せません。ウォーキングの本を読んでも、薬の本を読んでも健康にはなれないのです。

1:25 しかし、自由をもたらす完全な律法を一心に見つめ、これを守る人は、聞いて忘れてしまう人ではなく、行う人です。このような人は、その行いによって幸せになります。

幸せになるのです。それをすれば変わることができるからです。
伊藤先生、理屈は分かりました。でもできない。何が障害になっているのでしょうか。
一つは律法主義です。真面目な人が陥ってしまう考えです。
「私はみことばに従わなければならない」「私はみことばを実行しなければならない」と考えたならどうなるでしょう。
たとえば、「あなたの隣人を愛しなさい」という戒めを受けたとします。そして、その人が「ああ、私は隣人を愛さなければならない」と実行しようとします。しかし、すぐ困難を覚えます。頭ではそれらは正しいと分かります。しかし、実行しようとすると、妨げが入ります。だれが妨げるのでしょうか?サタンですか。それもあります。でも一番妨げているのは自分自身です。それを聖書では肉の働きと言っています。
そのことはローマ7章でパウロが経験から述べています。ロマ7:15~が分かりやすいですが、
ローマ(新283p)
7:18 わたしは、自分の内には、つまりわたしの肉には、善が住んでいないことを知っています。善をなそうという意志はありますが、それを実行できないからです。
7:19 わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている。
7:20 もし、わたしが望まないことをしているとすれば、それをしているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです。

罪人である私たちは、み言葉に対して、「しなさい」と言われると「したくない」、「してはいけません」と言われると「したくなる」思い、傾向をもっているのです。
学校ではどうでしょうか?廊下を走ってはいけません。私語を謹んで話を聞きなさい。社会に出ても同じです。今なら、外出自粛、手を洗いなさい。そうすると私たちの肉が反応するのです。
ある人はやりたくない、と反抗します。
しかし、ある人は自分の力でがんばって、その標準に達しようとします。
これをクリスチャンに当てはめるとどうなるでしょうか?
前者は律法に反発する人です。後者は律法主義で生きる人です。
「神さまを信じると、もっと守るべきことが多くなるのか、まっぴらごめんだ」律法への反発です。
「よおし、自分の真面目さと努力によって行おう」そのまま教会の奉仕者となったり、もしかすると牧師になるかもしれません。でも、そのまま進んだらどうなるでしょうか。燃え尽きてしまいます。
でも、本当のクリスチャン生活は違います。
真面目さとか、努力がいらないと言うのではありません。大切なのは御霊によって歩むということです。今は私たちの内におられるキリスト、聖霊が働く時なのです。そしてみことばを実行させてくださるのです。難しいことではありません。
私たちは「イエス様、一緒にみことばを行わせてください。今日もあなたの働きに私を参加させてください」そうお願いすれば良いのです。神様と一緒にみことばを行なうのです。これが本当の信仰生活です。

「安息日順守」「什一献金」「伝道をする」「不品行をしない」「悪いことばを発しない」「人を赦す」「よく祈る」「毎日、聖書を読む」「罪を犯したらすぐ悔い改める」
私たちの周りにはたくさんするべきことがあります。みんな正しいものです。それら1つ1つはすばらしいものであり、実行すべき内容です。
でも、もっと大切なことに気が付いてください。
神さまは私たちが何もしなくても愛しておられるのです。誤解を恐れずに言います。
「安息日礼拝を守らなくても、献金をしていなくても、伝道していなくても、不品行をしても、悪いことばを発しても、人を赦すことができなくても、祈らなくても、聖書を読まなくても」神さまは私たちを愛しておられます。だから、このことで神様の関心を得ようとしなくてもいいのです。そのことで、イエス・キリストを、神様を喜ばせる必要はありません。あなたは愛されているのです。

最も大切なことは、あなたが神さまの愛をいただいたからには、今度は神さまを愛する者となるということです。そうすると興味深いことが起こるのです。逆に、そうしなくても良いと言われても、そうしたくなるのです。自分の肉、つまり自分の力や行ないでは行うのではありません。神様の霊、聖霊によって、神様から頂いた愛によって、そうさせていただくのです。
私たちは神様の器、実際に行って下さるのは、イエス様であり、聖霊なのです。
だから聖書は言います。
申命記30:11-14(旧329p)
30:11 わたしが今日あなたに命じるこの戒めは難しすぎるものでもなく、遠く及ばぬものでもない。
30:12 それは天にあるものではないから、「だれかが天に昇り、わたしたちのためにそれを取って来て聞かせてくれれば、それを行うことができるのだが」と言うには及ばない。
30:13 海のかなたにあるものでもないから、「だれかが海のかなたに渡り、わたしたちのためにそれを取って来て聞かせてくれれば、それを行うことができるのだが」と言うには及ばない。
30:14 御言葉はあなたのごく近くにあり、あなたの口と心にあるのだから、それを行うことができる。

神様からの愛によって、神のみ言葉によって生きましょう。私たちを愛して下さる神様によってそれができるのです。皆さんの心を動かした小さなみ言葉から行っていってください。そして神様からの恵み体験していきましょう。
神様からの祝福が豊かにありますようにお祈りいたします。