Home » 礼拝メッセージ » メッセージ2020年6月20日

メッセージ2020年6月20日

雄々しくあれ ヨシュア1:5‐9

皆さん、おはようございます。
新型コロナウィルスの感染防止のために、長い間教会のプログラムを中止していました。プログラム再開ととともに、皆さんと再会できましたことを神様に感謝いたします。
この間、多くの方が陰に日向に教会を支えて下さいました。一つ一つをここで申し上げませんが、心から感謝いたします。
コロナの影響で、これまでと同じという訳にはいきませんが、エクレシア、人の集まりとしての教会の喜びを、皆さんと一緒に味わっていきたいと思います。これからまたどうなるか、分かりません。しかし、私たちの大きな希望は、イエス様の再臨をこの目で見ること。できれば、一度死を経験することなく見たいと思っています。そして、それを多くの人と一緒に喜びをもって迎えることです。
ぜひ、皆さんも健康に気を付けてお過ごしいただきたいともいます。

今日、神様から与えられたみ言葉はヨシュア記の言葉です。
お読みしましょう。聖書朗読ではヨシュア記1:5-9でしたが、背景が分かりやすくなるので、1節からお読みします。

1:1 主の僕モーセの死後、主はモーセの従者、ヌンの子ヨシュアに言われた。
1:2 「わたしの僕モーセは死んだ。今、あなたはこの民すべてと共に立ってヨルダン川を渡り、わたしがイスラエルの人々に与えようとしている土地に行きなさい。
1:3 モーセに告げたとおり、わたしはあなたたちの足の裏が踏む所をすべてあなたたちに与える。
1:4 荒れ野からレバノン山を越え、あの大河ユーフラテスまで、ヘト人の全地を含み、太陽の沈む大海に至るまでが、あなたたちの領土となる。
1:5 一生の間、あなたの行く手に立ちはだかる者はないであろう。わたしはモーセと共にいたように、あなたと共にいる。あなたを見放すことも、見捨てることもない。
1:6 強く、雄々しくあれ。あなたは、わたしが先祖たちに与えると誓った土地を、この民に継がせる者である。
1:7 ただ、強く、大いに雄々しくあって、わたしの僕モーセが命じた律法をすべて忠実に守り、右にも左にもそれてはならない。そうすれば、あなたはどこに行っても成功する。
1:8 この律法の書をあなたの口から離すことなく、昼も夜も口ずさみ、そこに書かれていることをすべて忠実に守りなさい。そうすれば、あなたは、その行く先々で栄え、成功する。
1:9 わたしは、強く雄々しくあれと命じたではないか。うろたえてはならない。おののいてはならない。あなたがどこに行ってもあなたの神、主は共にいる。」

皆さんご存知のように、ヨシュアは出エジプトを指導したモーセの後継者です。モーセのかたわらで指導者としても力を発揮していましたし、何よりも神様を信じ、神様の言葉を信じる人でした。
モーセがなくなって、神様がヨシュアを指導者として選び、指示している場面が今日の聖句です。さて、神様がヨシュアにお命じになったことは何だったのでしょうか。
それは、この民を指導して導け、ということではありませんでした。
神は「今、あなたはこの民すべてと共に立ってヨルダン川を渡り、わたしがイスラエルの人々に与えようとしている土地に行きなさい」とおっしゃったのです。
人々と一緒に、ヨルダン川を渡って約束の地に行くこと、それがヨシュアに与えられた命令でした。
それは、あなたの知恵と力と工夫によってその地を獲得せよ、という命令ではありません。ただ「一緒に川を渡ってそこへ行け」と言われているのです。
でも、どうでしょうか。その地には先に住んでいる人たちが多くいました。城壁で守られている町がたくさんあります。誰もいない所に入って行って住むわけではありません。実際そこに入るには、住んでいる人々と戦ってその地を占領していかなくてはいけないのです。神様は知らなかったのでしょうか。しかし神様の命令はただ「そこへ行け」。
神様の言葉に忠実なヨシュアは神様がお命じになったことを人々にこのように告げています。11節です。
「宿営内を巡って民に命じ、こう言いなさい。おのおの食糧を用意せよ。あなたたちは、あと三日のうちに、このヨルダン川を渡る。あなたたちの神、主が得させようとしておられる土地に入り、それを得る」。
ヨルダン川を渡ってその地に入ればそこを得ることができる、という感じです。ヨシュアも知らなかったのでしょうか。そんなことはありません。
これは決してヨシュアが何の考えもなく言っているのではないのです。彼の言葉は、3節において主が彼に語られた言葉に基づいているからです。
3節に「モーセに告げたとおり、わたしはあなたたちの足の裏が踏む所をすべてあなたたちに与える」。与える、「これから与えますよ」と約束しておられる言葉のように感じられます。しかしヘブル語の原文を読むと、これは単なる約束の言葉とは違うことがわかります。
原文でこの言葉は完了形。つまり、もう既に起ったこととして語られているのです。
それを生かして訳しているのは新改訳聖書です。
ヨシ
1:3 あなたがたが足の裏で踏む所はことごとく、わたしがモーセに約束したとおり、あなたがたに与えている。
英語の聖書も完了形で書かれています。
つまり神はここで、あなたがたが入っていくその地を与えるであろう、という約束を語っているのではなくて、その地を私は既にあなたがたに与えている、と言っておられるのです。
ヨシュアは神様の言葉を注意深く聞いているのです。神はこの地を既にイスラエルの民に与えている、だから私たちはそこに入るだけでよい。自分の力で獲得する必要はない。そう信じているのです。

しかし現実はどうでしょうか。さっきから言っているように、そこはまだ彼らのものとなってはいません。彼らはまだカナンの地の外にいて、実際にはその土地を全く持ってはいないのです。現実はこれから苦しい戦いによってその地を獲得していかなければならないのです。神様はそのことを忘れてしまっているわけではありません。2節には「わたしがイスラエルの人々に与えようとしている土地」と言われています。これは本当に「これから与えようとしている土地」と書かれています。
だからここには、「神が既にこの地を与えておられる」ということと「これから与えようとしておられる」ということが一緒に書かれているのです。
よくこのことを、「既に」と「未だ」といいます。
目に見える現実においては「未だ」与えられていないけれども、神様は「既に」与えたと言っておられる、その「既に」と「未だ」の間を彼らは歩んでいったのです。

それはヨシュアたちの歩みに限りません。この神の民としてのイスラエルの歩みは、主イエス・キリストを信じる信仰者として生きて行く私たちの歩みでもあるのです。
私たちも、イエス様による救いを信じる信仰において、同じように「既に」と「未だ」の間を歩んでいるのです。
そのことをよく言い表しているのが、ヨハネによる福音書16:33bのイエス様の言葉です。(新201p)
ヨハ 16:33 あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」

「あなたがたには世で苦難がある」
それが私たちの目に見える現実です。私たちの救い、神の恵みの勝利は、目に見える仕方では未だ実現していないのです。だから私たちにはなお苦しみがあるのです。
しかし「わたしは既に世に勝っている」
イエス様が既に勝利しておられる。神の恵みの力が、私たちの罪と死とに既に勝利している。勝利は、主イエスの十字架の死と復活によって既に実現している、というのです。

「あなたがたには世で苦難がある」「わたしは既に世に勝っている」両方とも真実です。
では皆さんはどちらの言葉を心に歩みますか。
ヨシュアだったら「わたしは既に世に勝っている」というみ言葉を信じて、歩むでしょう。なぜか。イスラエルの民たちに「わたしはこの地を既にあなたがたに与えている」というみ言葉を伝えて、現実にはまだ自分たちのものとなっていないこの地に入っていったからです。
それは、「まだ」という現実を「既に」というみ言葉に結びつけるための歩みとなるのです。しかしそれは、自分の力で現実をみ言葉に合うように変えて行くということではありません。戦いで獲得していくということではないのです。
イスラエルの民たちも私たちもそんな力はありません。
イスラエルの民に求められていたのもそういうことではありませんでした。求められていたのは何か。3節の言葉に注目してください。
「あなたたちの足の裏が踏む所をすべて」という言葉です。イスラエルの民に求められていたのは、ヨルダン川を渡って約束の地に入り、その地を自分の足の裏で踏んでいくこと。戦いに勝つことではなかったのです。
ただ一つしなくてはいけないこと。それは彼らが自分の足で歩くことです。彼らが約束の地を自分の足の裏でそこを踏んでいくことを通して、神様が既にこの地を彼らに与えて下さっているという、今はまだ隠されている事実が明らかになっていくのです。
私たちも一緒です。
既にこの地を与えている、というみ言葉を信じて、苦難があるこの世の現実の中を歩んでいく、そのことによって、隠された神の勝利の事実、「わたしは既に世に勝っている」という事実が明らかになっていくのです。
それが、約束の地へと入るイスラエルの民の歩みであり、私たちイエス・キリストによる救いを信じて生きていく私たちの信仰の歩みなのです。
既にこの地を与えている、という恵みのみ言葉を信じて、目に見えるこの世の苦しみの現実を自分の足で踏みしめつつ歩んで行く中で、イエス様の勝利の事実に気づかされていく。
皆さんはそれを体験してきたのではないですか。そして、これからもそれを体験して見たくはないですか。それを体験していくためには、私たちは、自分に与えられているこの現実、苦難のあるこの世の現実を、み言葉を信じて一歩一歩、自分の足の裏で踏みしめていかなければならないのです。
それは困難な、苦しい歩みです。しかし苦しみつつ自分の足の裏で踏みしめて歩む中で、その地が与えられていく、いやその地が主によって既に与えられていることに気づかされていく、私たちはそのようにして神の恵みを一歩一歩体験させられていくのです。

歩み続けて、体験していった代表格は使徒パウロでしょうか。
使徒言行録18章を見てみましょう。
ここはパウロのコリントでの伝道の様子を語っている所です。その最後の所、9節以下に、主なる神が幻の中でパウロに現れて語られたみ言葉があります。
使
18:9 ある夜のこと、主は幻の中でパウロにこう言われた。「恐れるな。語り続けよ。黙っているな。
18:10 わたしがあなたと共にいる。だから、あなたを襲って危害を加える者はない。この町には、わたしの民が大勢いるからだ。」

「恐れるな。語り続けよ。黙っているな。」
主がパウロに求めたのは、「語り続ける」ということです。パウロにとってはそれが、自分の足の裏でこの地を踏みしめていくことでした。それはパウロが人を導いて主なる神の民とする、ということではなくて、「この町には、わたしの民が大勢いる」、つまり神様がすでにこの町に、神の民、主を信じて救いにあずかる者たちを立てて下さっているのです。それはまだ目に見えていない、隠されていることです。しかし神様は既にそうしておられる。パウロの伝道は、その隠された事実を明らかにしていくことでした。神様が既に選び、立てておられる信仰者を見出していくことが伝道なのです。
だから「恐れるな」と主は言っておられるのです。

さてヨシュアの時代、イスラエルの民が約束の地に入り、そこを獲得していくために必要だったのはこの「すでに」を信じる指導者でした。その歩みの指導者、導き手としてヨシュアが立てられたのです。そのヨシュアに神から与えられた約束と励ましの言葉が5~9節です。そこをもう一度読んでみます。皆さんに語られたものとして聞いてください。
ヨシ
1:5 一生の間、あなたの行く手に立ちはだかる者はないであろう。わたしはモーセと共にいたように、あなたと共にいる。あなたを見放すことも、見捨てることもない。
1:6 強く、雄々しくあれ。あなたは、わたしが先祖たちに与えると誓った土地を、この民に継がせる者である。
1:7 ただ、強く、大いに雄々しくあって、わたしの僕モーセが命じた律法をすべて忠実に守り、右にも左にもそれてはならない。そうすれば、あなたはどこに行っても成功する。
1:8 この律法の書をあなたの口から離すことなく、昼も夜も口ずさみ、そこに書かれていることをすべて忠実に守りなさい。そうすれば、あなたは、その行く先々で栄え、成功する。
1:9 わたしは、強く雄々しくあれと命じたではないか。うろたえてはならない。おののいてはならない。あなたがどこに行ってもあなたの神、主は共にいる。」

ヨシュアに求められていることは、モーセが命じた律法をすべて忠実に守り、右にも左にもそれないことです。律法とは神様が神の民として導いて下さっている恵みを示すものです。そのみ言葉を心にしっかり刻みつけて、神の恵みを見失ってしまいそうになるこの世の現実の中を歩んで行きなさい、というのです。このみ言葉を信じて歩んでいく者に、主なる神が常に共にいて下さるのです。
この言葉は、黙示録12章17節にあるように終わりの時代「その子孫の残りの者たち、すなわち、神の掟を守り、イエスの証しを守り通している者たち」へ引き継がれているのです。神が共にいて下さるという約束が、終わりの時代、信仰をもって生きる私たちにも与えられているのです。
私たちがみ言葉を心に刻み、「わたしは既に世に勝っている」という隠された事実を信じて、未だ苦しみの多い、神の勝利が見えないこの世の現実の中を、一歩一歩自分の足の裏で踏みしめつつ歩んでいく、その歩みに主が共にいて下さり、この地が既に与えられていること、勝利していること確認させていって下さるということです。
この「わたしはあなたと共にいる」という恵みのゆえに、私たちは「強く、雄々しく」あることができるのです。「強く、雄々しくあれ」というのは、私たちの性格をもっと強くせよ、苦しみに負けない強い心を持て、ということではありません。強さ、雄々しさは私たちの中から出て来るのではなくて、主から与えられるのです。既にこの地を与えている、というみ言葉を信じる信仰によって、未だ与えられていない約束の地を歩んでいく、その苦難の歩みを主が共にいて守り支えて下さることによって、私たちは強く、雄々しく歩むことができるのです。

今回のコロナの問題でこのことが変わるわけではありません。むしろそのことを確認することができるはずです。どんなことがあっても、一緒にイエス様の再臨を、多くの愛する人と共に見る。この希望を抱き続けて、歩み続けたいと思います。
共に祈りあい歩んで行きましょう。