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メッセージ2020年6月13日

実現した言葉 ルカ4:16-21

皆さん、おはようございます。
亀甲山教会は、新型コロナウィルス感染拡大防止のため、教会でのプログラムを中止しています。教会は礼拝のみですが、いよいよ来週20日に再開を計画しています。
感染の収束と共に、教会再開のためにもお祈りください。

さて、今日神様から与えられた聖句を一緒に見ていきたいと思います。ルカ4:16-21です。

ルカ
◆ナザレで受け入れられない
4:16 イエスはお育ちになったナザレに来て、いつものとおり安息日に会堂に入り、聖書を朗読しようとしてお立ちになった。
4:17 預言者イザヤの巻物が渡され、お開きになると、次のように書いてある個所が目に留まった。
4:18 「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、/主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、/捕らわれている人に解放を、/目の見えない人に視力の回復を告げ、/圧迫されている人を自由にし、
4:19 主の恵みの年を告げるためである。」
4:20 イエスは巻物を巻き、係の者に返して席に座られた。会堂にいるすべての人の目がイエスに注がれていた。
4:21 そこでイエスは、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と話し始められた。

ルカによる福音書4章は、イエス様の公生涯、神様の働きを始められる最初の出来事について伝えています。イエス様はバプテスマを受けられ、悪魔の誘惑に会われ、ガリラヤに戻られたのです。その時に起こった出来事が、今日お読みした個所になります。

当時のユダヤ人には、宗教的な活動の中心となった二つの場所がありました。一つはエルサレムにあった神殿です。儀式を中心に宗教活動を行っていました。聖書に定められた祭りも、ここで行われ、いくつかの大きな祭りには、各地から人々が集まっていたのです。
そしてもう一つは、地域ごとに建てられた会堂です。シナゴーグと呼ばれていましたが、人々が集まる場所です。毎週土曜日にそこで集会をしていました。今の教会のような場所です。ここでは皆で詩篇をうたい、代表者が立って聖書を朗読し、座って解説をしました。初代教会ができてから、パウロが伝道旅行に行きましたが、最初に行っていたのがこの会堂でした。成人男子10人以上で正式な集会となったようですので、集まるところには会堂ができていたようです。

16節にあるように、イエス様は御自分の活動の最初に、ご自分の育ったナザレで、いつものように安息日にこの会堂に入られたのです。
その時、「預言者イザヤの書が渡された」とあります。当時の人たちの信仰生活の中心がここにあったことが分かります。
神殿に行かなければ信仰が保てない。もちろん神殿も大切でしょう。しかし、人々は毎週行くことのできない神殿に頼ることなく、神様から与えられた聖書の言葉、神の言葉を聞き続け、そうして生きていたのです。神の言葉に聞き続けていた。これが聖書の民の姿なのです。

この箇所はよく、新共同訳聖書の小見出しにあるように、イエス様がご自分の育ったナザレで受け入れられなかったことに注目が集まります。でも、当時のユダヤ人、イエス様の信仰生活のあり方が良く出ている箇所でもあるのです。

そこで何が起こったか。
会堂にイエスは入られて、いつもしているように聖書のみ言葉を朗読されようとしたのです。
ちょっと細かいことになりますが、朗読するというのは非常に大切なことです。なぜなら、私たちは時間に追われる生活をしています。本を読むとき、新聞を読むとき、黙読をすることが多いです。そして、自分が大切だと思うことに目を止めるのです。逆にいえば、自分が大切だと思わないところを、読み飛ばしていることがあるのです。
しかし、朗読するということは、一つ一つの言葉に目を向けるということにつながっています。神様から頂いた言葉には無駄なものがない、そういう思いの時には朗読なのかもしれません。一つ一つの言葉に目を向けた時、朗読することで新しい発見があるのです。

イエス様はその日に読むことになっていた巻物、その時に偶然に巻物として渡された聖書、渡されたイザヤ書の箇所をイエス様は読み上げることになったのです。イエス様が読みたい個所ではなく、準備されていた聖書の言葉です。

ルカ
4:18 「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、/主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、/捕らわれている人に解放を、/目の見えない人に視力の回復を告げ、/圧迫されている人を自由にし、
4:19 主の恵みの年を告げるためである。」

これが、その時の安息日の礼拝の中心聖句となったのです。その後イエス様は座られています。座ったのは説教、み言葉の解説をするためです。そして皆がイエス様に注目する中、イエス様はこう仰ったのです。

ルカ
4:21 そこでイエスは、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と話し始められた。

イエス様が聖書の言葉で大切だと、人々に伝えなくてはいけないと思われたことは何か。
主がわたしを遣わされた、というその言葉が成就した。つまりイエス様は、自分がそのイザヤ書にある「わたし」なんだ。今日自分がこの世界に来たことによってイザヤ書に書かれていた言葉があなたがたに実現したとおっしゃったのです。
聖書の言葉は、イエス様において実現しました。私たちは今、一緒に集まることはできていませんけれども、礼拝でみ言葉を聞くこと、毎日の生活でも聖書を開いて聞いているのは、ただの知識や道徳や神の命令や生きるヒントを受け取るだけではないのです。イエス・キリストにおいて事実となった言葉なのです。イエス・キリストが実現して下さった言葉なのです。
たとえ私たちが誤解したり、疑ったりしているとしても、まだ聖書のことを知らない人たちがいたとしても、人々が信じていなかったとしても、それでも神様は聖書に書かれ約束されている事をすべて果たして下さる。事実となったとくことはそういう意味なのです。その事を、イエス・キリストがこの世界に来てハッキリとお示しになったのです。
教会で福音と言われる、良い知らせ、それは罪からの解放、目が開かれること、自由、恵み。そういう良い言葉を、神様は語るだけでなく、事実とされたのです。

旧約聖書で「言葉」と訳される言葉で、一番沢山使われているのは、ヘブル語のダーバルという言葉です。この単語は確かに「言葉」という意味を持ちますが、言葉という意味の他に「事実・出来事」という意味を持っている言葉なのです。当時の人たちは言葉、に特別の思いを持っていた。神の言葉は「事実や出来事と一体」という思いです。それは聖書の最初、神が天地創造の初めに起こったことから来ているのだと思います。
「光、あれ」
と神様が言えば、光があったのです。
言葉が事実を作りました。
最近、ネットやニュースの中で言葉が軽々しく用いられていますが、口ばかり、中身は空っぽというのが本来の言葉ではなかったのです。だから言葉、口に出すということは非常に重々しいものでした。
でも性格は変わっていません。実際、ネットなどで流される言葉は、それが広がる時に事実として取り扱われるようになり、フェイクニュースとなって人々を動かしています。力を持つのです。
しかし、神の言葉は真実であり、事実。だから同じ福音書の一つであるヨハネの福音書はイエス様を
「ことばが人となった」と紹介しているのです。

イエス様はここで、この聖書の言葉、イザヤ書の言葉が、まさに「事実となったこと」を人々に伝えたのです。
イエス様は、言葉を実現するために「人」となって下さったのです。
しかし、どうでしょうか。先ほどのフェイクニュースのように言葉が軽々しく使われてしまうことを私たちは経験しています。教会でも、「だから私たちも愛の言葉を語り、愛に生きましょう」と言いますが、口に出して実現できるのであれば、こんなに簡単なことはありません。その実現を妨げるものを私たちは持っていて、そんな綺麗事は信じられない、というのも私たちの現実なのです。
イエス様の言葉を聴いたナザレの人々もそうでした。そして、イエス様の活動を実際に見た人たちの反応もそうでした。褒めはしたものの、直ぐに文句をつけ、証拠を求め始め、最後は憤って殺そうとするのです。
イエスもそれをご存じでした。本来、神様のもとにあった言葉は「事実」と一つで、出来事を作り出していくもの。しかし、人間が神様の言葉を信じずに背を向けて以来、人間の言葉は「事実」とは違う、かけ離れた、ただの言葉になってしまいました。
おそらく、皆さんの中でも、このた言葉で傷つけられた経験、裏切られ、振り回された経験、信じて損をした、言葉を信じるのに正直疲れてしまった、という思いを持っている人がいらっしゃるでしょう。人の言葉を聴いても素直に受け取りたくても出来ない。
特に私たちの世代は、社会的な事件を多く目撃していますので、きれいな宗教的な言葉に対してアレルギーを持っています。だから、神様の言葉の聖書を読んだり、説教を聞いたりしても、信じたいという思いがある一方、どこかで「騙されたくない」と思ってしまうのです。

最初にお読みしたルカ4:18の「捕らわれている人」は、直接的には社会的な束縛であったり、思い、何かの強迫観念に捕らわれている人まで入るでしょうし。「圧迫されている人」も、現在であれば、深刻な虐待家庭で育った人や、苦しい「いじめにあった人」も含むのでしょうか。
でも共通しているのは、いくら言葉で「大丈夫、もう安心して」と言っても、それを信じることのできないことです。私たちも含めて、このような人たちは、経験の中で、言葉を信じることができなくなってしまっているのです。心と体に染みついた事実と余りにかけ離れたきれいな言葉は、その人たちに心には届かず、頭の上を通り過ぎるだけかも知れません。
イエス様はそのような捕らわれ人、虐げられている人のそうした深い傷、言葉を信じるのが難しい痛みもよくご存じで、ともに深く痛んでおられます。
だから「ただ信じなさい」と仰るのでなく、自分がその言葉の実現となって、人の中に飛び込んで下さり、神の良い知らせ、福音となってくださったのです。
神の恵みを告げ、ご自分が飛び込んでくださることで、聖書の約束が本当であることを目に見える形にしてくださったのです。
そうすることで、イエス様は捕らわれた人を解放され、自由をつかませ、主の恵みを体験させてくださるのです。こうして主の恵みを見て経験することで、私たちの語る言葉も、本当の言葉になって伝わっていくのです。
それこそが、イエスが仰った「主の恵みの年」なのです。
これこそが、一人一人にとってだけでなく、互いにも恵みを語り合う時の始まりであるはずです。この時から、完全ではないですが、そこに向かっているのです。

私は自分の牧師の働きは今日は読みませんがイザヤ書55章の言葉から来ていると思っています。だからこそ、聖書の言葉を大事にして、自分の言葉も大事にしたいと思っています。でも同時に、今の時代、私の言葉は不完全な道具だ、という事実にも気が付いています。
言葉は難しいです。誤解されるし、伝わりにくいし、本当に言いたいことが上手く言えなくて、その場しのぎで言わなくてもいいことを語ってしまうこともあります。失敗した経験ばかりです。でもそれは自分が悪いとか相手が悪いとか、「もっとうまく言えれば失敗がなくなる」、で解決するものではないのかもしれません。
ヤコブ3:2にこのことが書かれています。
ヤコブ
3:2 わたしたちは皆、度々過ちを犯すからです。言葉で過ちを犯さないなら、それは自分の全身を制御できる完全な人です。

新改訳聖書では少し分かりやすく、「2言葉で失敗しない人はいない。…舌を制することができる人は、だれもいません」と表現しました。
実際、イエス様もここで生まれ故郷のナザレで誤解され、憤りを買いました。
なぜイエス様が?イエス様が間違ったのではありません。イエス様は真実を語っておられ、言葉を選んで、時を選んで語っていたはずです。でも誤解されてしまった。なぜなら、言葉は、語る人だけではなく、聞く人と一緒に作り上げるものだからです。そういう意味で言葉は不完全な道具なのです。語る人と聞く人が一致して、初めて伝わるからです。

だから私たちが神様の言葉を考えた時に大事なのは、どう語るかより、まず静かに聞くことです。言葉を出す以前に、まず自分の心の不安や恐れ、罪の思い、荒んだ思いを認めて、主の恵みの言葉に十分聞くことです。
自分の足りない不完全な言葉を出すよりも、大きな主の愛の声を静かに聞くのです。
心が弱いまま、必死に語ることを一旦止めて、自分がしゃべらなくても主との交わりの中で落ち着く必要があるのです。
自分の中に恐れやあきらめに捕らわれている思いはないですか。罪の思い、他の人を批判する思いはないですか。神様に代わって、自分が中心になろうとする思いはないですか。そんな思いから救われて、初めて真実に向き合うことができるのです。自分の本当の姿に向き合うことができるようになるのです。
そういう経験をしていく時に、経験し続ける時に、今度は私たちの言葉に力が宿ってくるのです。

聖書のはじめ、創世記の最初で神様がアダムに与えられた言葉はどのようなものだったか。禁止は一つだけで、後はすべて肯定的な言葉でした。

1:28 神は彼らを祝福して言われた。「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ。」
1:29 神は言われた。「見よ、全地に生える、種を持つ草と種を持つ実をつける木を、すべてあなたたちに与えよう。それがあなたたちの食べ物となる。

惜しみない祝福でした。神は「ダメ」を並べるのでなく、生きる意味、大いなる使命、信頼、祝福を語られました。そして私たちも互いに、正しいことを用いて相手を否定したり、傷つけたりすること以上に、喜びや励ましの言葉こそ届け合うよう勧められているのです。
私たちはつい気になることに焦点を当ててしまいます。言わなきゃ良いことを言って、ギスギスさせてしまいます。神様は私たちに批判や禁止を言っていると思い込みやすいのですが、しかし主が語られたのは、命の言葉です。私たちの舌も本当は同じように、命の言葉、恵みの言葉を掛け合うようにと与えられていたのです。

言葉がどれだけうまく使えるかは、人それぞれに個人差があります。そしてお互いにうまく伝わらないもどかしい経験をし続けるでしょう。しかし、そんなぎこちない私たちのキャッチボールも主の大きな恵みの手の中にあります。イエス様がこの世界の真ん中に来られて、とりなして下さっているのです。仲介者として働いて下さっているのです。
イエス様は恵みの年が来ると宣言されました。その恵みの年に向かって、イエス様は大祭司となって働いてくださり、その助けによって私たちは歩んでいるのです。御言葉に励まされ、聖霊に導かれ、不完全な言葉を精一杯使いながらも、思いを伝え合い、不完全な言葉の奥にある思いを受け取り合っていくように、召されているのです。

コロナの影響で誰もが心に余裕がなくなってきています。そんな時、自分のイライラを解消させるため、自分を正当化させるため、今、巷で広がっている本来の言葉の使い方とは違う使われ方をしないように、神様の語る言葉を私たちから広めていけるようにお祈りしていきたいと思います。
そうではなく、実現した言葉、イエス様の言葉を広めていきたいと思います。皆さんの近くから、それを実践していきましょう。

それではお祈りをして、礼拝を閉じましょう。