Home » 礼拝メッセージ » メッセージ2020年5月9日

メッセージ2020年5月9日

沈黙からの出発 詩編62:2

皆さん、おはようございます。
コロナウィルス感染予防のために教会を休会を決めたのが2月22日。翌週の29日から教会は動きを止めています。10週もの間、皆さんとお会いできていません。教会はその間、桜が咲き、筍が伸び、新緑が輝いています。今日のテーマは「沈黙」です。中心聖句は詩編62編2節です。しかし、この聖句は2節だけ読んでも十分みこころを読み解くことはできません。皆さんは詩編62編を開いて参加していただきたいと思います。

最初に聖書のみ言葉を頂きましょう。
詩 62:2 「わたしの魂は沈黙して、ただ神に向かう。神にわたしの救いはある。」

沈黙、と聞いて皆さんは何を連想されるでしょうか。沈黙は金なり、ということわざがあります。ただ、しゃべらない。そんな状態を想像される方もいるでしょう。
でも、クリスチャンで、日本人で沈黙というと、ある作品を思いだされると思います。
遠藤周作さんの作品「沈黙」をご存知でしょうか。1966年に出版され、映画にもなりましたし、最近ハリウッド映画にもなりました。この作品の舞台は日本でキリシタンの弾圧・迫害が行われていたころです。
私たちの頃には学校の歴史で「踏み絵」を習いました。今では、踏ませていた絵そのものを踏み絵、踏む行為のことを絵踏みというそうです。踏み絵を踏むかどうか。踏み絵を踏むということは信仰を捨てることになり、踏まなければ命を捨てることになる。信仰か命か。キリシタンの人々は迫害の中、究極の選択を迫られたわけです。しかし、このような危機的な状況の中でも、神は沈黙を貫かれた、何故なのか。このことが作品の背景の一つになっています。

皆さんも最近同じような思いを持ったことはないでしょうか。
例えば、阪神淡路大震災時、9.11のテロの時、東日本大震災や、今回のコロナ騒動で神様は何をされているのか。この答えは今答えることができません。一方で、今回コロナの感染防止のために安息日に教会を休会することは、信仰的にどうなのか。考える人もいたのではないでしょうか。その悩みの中で神様は沈黙しておられる気がするのです。この「沈黙」は何時の時代にも、信仰の大きなテーマの一つなのです。

しかし、この詩編62編の沈黙は違います。神様が沈黙しておられるのではなくて、沈黙しようとしているのは私たち、黙るのは私たちの方なのです。この時詩編記者は黙っていてよい状況ではあったか。そうではなく、むしろ叫びたくなるような苦難の中にいたわけです。皆さんはどうですか。沈黙されていませんか。

この詩編の沈黙の背景を探るために62編を開きましょう。詩編62編1-3節です。
62:1 【指揮者によって。エドトンに合わせて。賛歌。ダビデの詩。】
62:2 わたしの魂は沈黙して、ただ神に向かう。神にわたしの救いはある。
62:3 神こそ、わたしの岩、わたしの救い、砦の塔。わたしは決して動揺しない。

この詩編はどこで誰によって歌われていますか。ダビデの時代、主の宮で歌われていたものです。エドトンとは主の宮にある聖歌隊と楽団を指揮していた人の名前です。誰が作ったか。ダビデの詩とありますから、ダビデが作ったもの。ダビデは言っています。
62:2 わたしの魂は沈黙して、ただ神に向かう。神にわたしの救いはある。

主の宮でのにぎやかな歌ですが、沈黙、静かな祈りを歌っているのです。
今、私たちは離れた場所で礼拝の時を持っています。いつもであれば礼拝の祈りの時は他の人の祈り、声に心を合わせます。これも大切なことです。でも一人の礼拝の時の祈りはどうでしょうか。静かに神様の心に、私たちの心を合わせなくてはいけないのです。
どちらも最初に沈黙です。心落ち着けて、待つのです。その時、私たちの耳が聞こえるようになり、祈る人の声が、神様のみ心が聞こえ、心を合わせ理解することができるようになります。
でも、正直ここで難しいのは、心を落ち着けること。静かな声に耳を傾けることです。外からの妨げるものもたくさんありますし、自分の心の中からくる、神様への思いを妨げるものもたくさんあるのです。

ダビデは本当に困難な状況の中にいました。心から叫びたい思いがたくさんあったはずです。もし、叫んでいたら、神様の思いを聞くことはできなかったでしょう。だから、叫びたかったにもかかわらず、沈黙しているのです。
だからこそ、その時、ダビデは神様のご計画、救いを見ることができたのです。では叫びたくなる状況、この時ダビデにいったい何があったのでしょうか。それがこの詩編の背景です。実はある人から窮地に陥らされていたのです。

4,5節に書いてあります。
62:4 お前たちはいつまで人に襲いかかるのか。亡きものにしようとして一団となり/人を倒れる壁、崩れる石垣とし
62:5 人が身を起こせば、押し倒そうと謀る。常に欺こうとして/口先で祝福し、腹の底で呪う。

この相手は、表面的には親しげですが、心の中は偽りと憎しみに満ち、生命を奪おうとしている者、そんな人がいたのです。ダビデはそのために疲れ果て、重圧の中で彼の信仰は危機に瀕していたのです。「神様どうしてですか」そう心から叫びたい、そんな状況だったのです。しかし彼は、この苦悩の中から視線を神様に向け、魂を神様に集中しました。その時の言葉が、「わたしの魂は沈黙して、ただ神に向かう。神にわたしの救いはある。」だったのです。

具体的に何があったかは想像するしかありません。聖書にあるダビデの生涯の中で4節のような「お前たちはいつまで人に襲いかかるのか」という追われる体験は幾度もあります。自分の仕えたイスラエルの最初の王であったサウルに命を狙われた時。晩年には自分の息子アブシャロムからもいのちを狙われて追われた時。聖書に書かれていないものもたくさんあったでしょう。だからダビデのいつの時代のことをさしているのか分かりません。でも、そういう中で、ダビデは祈るのです。
「私の魂は沈黙して、ただ神に向かう。神に私の救いはある。」

私たちも状況は違っても、神に祈り求めながら、神が沈黙していて応えてくれない、と右往左往し、叫ぶことがあります。何度も言いますが、今の状況もその一つかもしれません。
でもダビデのこの祈りは、同じような状況であるにもかかわらず、黙って、神を待ち望んでいるのです。騒ぎ立てて、慌てふためくのではなくて、その正反対、静まって神を待ち望もうという気持ちになっているというのです。そしてダビデは、神に私の救いはある。神こそ、わたしの岩。わたしの救い。砦の塔。私は決して動揺しない。(2節)ということにたどり着くのです。逃げるのではなく、誰かに責任を転嫁するのでなく、ただ沈黙の祈りを通して、たどり着くのです。

皆さん、イエス様の有名な種蒔きのたとえ話を思い出してください。道端、石地、茨、よいと思われない場所にまかれた種のお話です。このたとえ話は、自分を何にたとえているかで学ぶものが変わってきます。伝道者であれば、どこに種を撒くのか、という視点で見ますし、反対に自分自身が蒔かれる種であると考えることもできます。
皆さんが種だったらどうしますか。種は自分で動くことができません。皆さんが種であったとして、蒔かれた場所が悪かったらどうしますか。あきらめよう、ですか。自分のいる場所が悪かった、どうしてくれるのか、不平不満を言いますか。蒔かれてしまったところで、何を皆さんはするのでしょうか。文句や不平不満を言うだけ。結局何もしないこともできます。
でも、もうそれで運命が決まる、終わりというのではなくて、花を咲かせるために私たちは自分のできることがあると考えることもできます。
悪い地は良い地に変えることができるのです。周りを見て下さい。私たちが外出自粛をしていても植物は力強く成長しています。花が咲き、青葉が茂っています。それをよく見て下さい。どれも条件が整っていたわけではありませんでした。成長するにはたくさんの条件がいる。それを整えて育っているのです。
畑であれば、土から整えなければなりません。土の性質を変えるために灰を混ぜる、腐葉土を混ぜる、肥料を足す。その種によって配合が違います。水のやりかたも違います。手をかけて、ようやくきれいに咲く花や実ができるのです。
でも環境が整えれば育つのか。実は植物自身、大きな力を使っているのです。
前にもお話しました。桜、今年は皆さんは教会の桜を見ることができなかったと思います。でも桜は1か月前までは桜色の花びらを一生懸命出していました。今は緑の若葉を伸ばそうと一生懸命です。あの花びらが桜色を出る時、体中が桜色を出そうとしているそうです。だから染色、染め物で桜色を取る時は、花びらでなく、花びらが出る前の桜の皮を取るそうです。実は体全体で一つのことに集中しているのです。

私たちの信仰の歩みも、本当はそれに似ているのです。何もない時には求めていかず、なんとなく過ごしていたり、神がきっと働いてくださると思い込んでしまいます。そして、なにか起こると「神様、何故ですか」と不満を抱くのです。そして、神は沈黙しておられると、不平不満を口に出してしまうのです。
けれども、困難なときにこそ、慌てふためくのではなく、じっと留まって、体全体で神の御声を聞くことが大事な時もあるのです。まさに桜が桜色を出そうとしている時です。「私の魂は沈黙して、ただ神に向かう」。一つのことに集中する。その時信仰者としての到達する一つの答えが頂けるのです。
ダビデは沈黙して、神の答え、救いの確信を頂くことができたのです。そのことが「神に救いはある。わたしは決して動揺しない」につながったのです。沈黙する、これが第一に必要なことです。

でもそれだけありません。ダビデはそれで終わっていないのです。
詩編62編はまだ始まったばかり。この祈り手は2節と3節の神への祈りの言葉を、自分の目の前にある困難な事態を言い表した後で、もう一度5節と6節で再び同じ言葉を繰り返しています。なぜなら「私は動揺しない」は2節の救いだけでは本当にはつかむことはできなかったからです。
だから、もう一度繰り返します。何が足りなかったのでしょうか。
この2節でダビデが獲得したもの。それは救いの確信でした。「神にわたしの救いはある」でも気を付けて下さい。揺るがない信仰を得るためには「救い」だけでは不十分なのです。
だからダビデはもう一度沈黙し言っています。

62:6 わたしの魂よ、沈黙して、ただ神に向かえ。神にのみ、わたしは希望をおいている。
62:7 神はわたしの岩、わたしの救い、砦の塔。わたしは動揺しない。

何が違いますか。2節と6節を比べてみて、一番大きな違いは、救いが希望に変わっていることです。希望はどのように生まれるのでしょうか。

ローマ5:3-5「そればかりでなく、苦難をも誇りとします。わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。」

苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生む。この希望は私たちを欺くことはない。聖句はそう言っています。苦難の時に希望が生まれるのです。ただ注意しなくてはいけません。苦難だけ見つめていると立ち止まるしかない。しかし、この苦難の時にあって前に進めば、希望を見ることができるのです。
皆さんはこれまで、様々なことを経験してきました。苦痛だったと思うことも経験してきたはずです。でも乗り越えることができました。どうしてですか。その後に必ずそうでないもの、つまり希望があったからです。そこへ進んだからです。神様はそれを与えることで真の岩、砦、そう動揺することのない力を与えられるのです。

今、私たちは沈黙しています。その沈黙はどちらの沈黙なのでしょうか。
2節ですか。6節ですか。2節と6節では同じ「沈黙」ですが、2節の沈黙は静かな、動きのない沈黙。ただ神の声を聞くための沈黙です。でも、6節の沈黙は動きのある、積極的な沈黙。希望を頂く、希望へ向かうための沈黙なのです。
だから、その次の言葉も違っています。
2節は、ただ神に向かう。神の方を向く。
でも6節はどうか。神へ向かえと言っている。歩みだせと言っているのです。

神様から頂くことのできる希望は「棚から牡丹餅」のように降っては来ません。私たちが歩み出すことが必要なのです。だから、そこにとどまるのではなく、そこから一歩前進するのです。だから今、沈黙しなくてはいけない状況にある皆さんには、2節だけでなく、6節の希望へ続く沈黙へ進んでいただきたいのです。苦難の中、沈黙して神様から救いの確信を頂くだけでなく、神様から希望を頂くこと。これが私たちには必要なのです。

もう少しこの詩編62編を見ていきましょう。
8節です。ダビデが結論として得た確信の言葉です。
詩 62:8 わたしの救いと栄えは神にかかっている。力と頼み、避けどころとする岩は神のもとにある。

救いと栄え、救いと将来、希望は神のもとにある。ダビデの中でこれが本当にゆるぎないものになったのです。これを確信したダビデはもう一歩先に進んでいきます。
それが9節です。
詩 62:9 民よ、どのような時にも神に信頼し/御前に心を注ぎ出せ。神はわたしたちの避けどころ。〔セラ

これは何でしょうか。そう、ダビデは民に向かって語っている、伝えているのです。このダビデの民に向けられた言葉は、口先だけの言葉ではありません。心からの確信に満ちた言葉です。自分の得た恵みを、自分の確信を民に話しているのです。話すこと、証しすること。これは素晴らしいことです。恵みは民たちだけではありません。証しすることで、ダビデ自身もその確信をもっと大きく強くすることができているのです。
ダビデは、沈黙の中、神様から頂いた素晴らしい恵み、救いと希望を自分の中にため込むことはしませんでした。それを誰でも知ることができるように詩編、歌にしたのです。そして主の宮で、愛するイスラエルの民たちが知ることのできるようにしました。なぜでしょう。神様の大きな恵みがそこにあるからです。自分でため込んでいるとその素晴らしさがわからないけど、他の人にそれをつたえることが、神様の素晴らしさをもっと大きくするからです。受けた恵みを、神様のことを愛する人に伝えること。これが大切な最後のステップです。

この2節の「沈黙」で始まった詩編62編は、ただの「沈黙」では終わりませんでした。2節から6節へと進み、沈黙で得た素晴らしい恵みは、8節の確信、9節のあかしへと広がり、人々への大きな声に変わっていったのです。

私たちは今、ステイホーム、家に居続けることが求められています。詩編62編の沈黙のように、今は、神様と向き合う時、沈黙の時なのかもしれません。しかし、単に「救い」を感じるだけでなく、それを「希望」へと変えて下さい。希望へと変えることができた時、私たちは沈黙で終わるのでしょうか。そうではないでしょう。このステイホーム、自粛の期間が過ぎた時、私たちは受けた恵みを、他の人に伝えること。これが私たちの使命となるのです。

今、私たちは教会でのプログラムを持つことはできません。しかし、この時を単なる沈黙で終わらせないでください。皆さんを神様の祝福の出発点として、神様の恵みが大きな流れとしてくださるようにお祈りしています。沈黙が出発点なのです。
まだまだコロナとの戦いは続きます。教会へ行けないことは不本意ですが、すべてを益としてくださる神様のご計画です。沈黙の時を持つことにも、み心があることを信じ歩んでいきましょう。
今、この時の皆さんの沈黙が、その初めとなるようにお祈りしています。