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メッセージ2020年5月23日

小さい羊が ルカ15:3-7

皆さん、亀甲山教会ライブ配信へようこそおいでくださいました。
新型コロナウィルス感染防止のために、教会のプログラムは中止しています。緊急事態宣言が解かれた地域から活動が始まり、再び感染が広がらないかという不安と共に、このコロナ後に何が起こるのかに関心が移っています。よく言われるのが元の生活に戻れない、ということです。
政府、厚生労働省が呼びかけている「新しい生活様式」、感染予防のために、3つの基本。身体的距離の確保、マスクの着用、手洗い。これを基本に、日常生活をどのようにしないといけないか。様々な場面での注意事項、そして働き方の変化、などが取り上げられます。
これは、コロナウィルスに感染しないこと、を中心に描いたものです。人々の関心はもっと違うところにあります。ステイホームが実施され、本当に生活に必要な仕事と、そうでないものが振り分けられました。最も必要な仕事にもかかわらず、そのことが評価されていないということも分かりました。もしかすると、長い通勤時間を使って会社に行くことも、実は必要なかったのではないか、ネットを使うことで会議の方法も変わりました。仕事のあり方についても考え方が変わって来るでしょう。学校はどうでしょうか。9月か4月かの議論もありますが、学び方も変わってくるのかもしれません。
こんな変化が起きている中で、私たちが生きるとは、幸せとは何か、考えることはないでしょうか。もしかすると、今回のコロナ問題は、終わりの時代への黒船なのかもしれません。

振り返ると、日本に住む私たちはこれまで、本当に恵まれた生活を送ってました。喜びを手に入れるために、いろいろなことに挑戦してみたり、行ってみたり、学んだりできていました。食べていくため、生活していくためだけでなく、いかにしてより充実した、喜びの多い人生を送るか、を考えることができていました。
「教会の礼拝に出席すること」もその一環になっていたかもしれません。しかし、どうでしょうか。私たちは本当に幸せを手に入れていたのでしょうか。
私は小学校の時に、メーテルリンクの青い鳥を読んだことがあります。チルチルミチルの青い鳥です。
簡単に言うと、チルチルとミチルという兄・妹が、幸せをもたらす青い鳥を捜して、あちこちを旅するというお話です。
青い鳥を求めて「思い出の国」「夜の御殿」「ぜいたくの国」「未来の国」いろいろな国をめぐります。どこでも青い鳥を見つけることができました。でも、青い鳥をつかまえても、その国を出ると黒い鳥に変わったり、死んでしまったり。ついにあきらめて家に帰る…、とそれはすべて夢の中のことで、目を覚ましてみると、自分たちが家で飼っていた鳥が青い鳥だった。
そんな話です。読んで見て下さい。
よくこのお話は、私たちは幸せを求めてあちこち捜し回り、あくせく苦労するけれども、幸せは手元にある、幸せの青い鳥は実はすぐ身近な所にいる、ということを語っている、と言われます。

ところが、メーテルリンクの書いたもともとの「青い鳥」は子供向けの劇。この結末はちょっと違っています。
チルチルとミチルが青い鳥を捜しに出たのは、お隣に住む病気の女の子のため。最後に飼っていた鳥が青い鳥だったことに気付いた彼らは、その鳥を女の子にあげます。しかし、女の子に餌をやるやり方を教えるために籠の扉を開けたところ、鳥は逃げてしまうのです。
チルチルが最後に観客に言います。
「誰か、あの鳥を見つけた人は僕たちに帰してください。僕たちにはあの鳥が必要なんです」
そう訴える台詞でこの劇は終わるのです。

だから本当は、幸せは身近な所にある、気付かないだけだ、ということではなく、身近な所に幸せがあったと気付き、やっとそれを手に入れたと思ったとたんに、それは私たちの手からするりと逃げ去る。私たちの人生は、いつも、幸せの青い鳥を捜し求めて歩く旅、その旅には終わりがない、ということを語っているようなのです。

幸せは、確かに、案外身近な所にあるもの。普段の平凡な生活の中にこそ幸せがあります。でも、コロナ前に私たちはそれを幸せに感じていたでしょうか。それを幸せだと思えずに不平不満ばかりだったのではないでしょうか。だからその平凡な日常の有り難さに気付くなら、幸せを見いだすことができる。それも青い鳥の一つの真理です。
しかしそれだけではないのです。
むしろメーテルリンクがこの結末で描いているのは、幸せは、手に入れたと思ったとたんに手の中からするりと逃げてしまうもの。
もっと先を考えれば、逃げてしまうという不安が私たちにはいつもつきまとっている。だから、今は幸せだと感じていても、その幸せがいつ失われてしまうか、それを失ったらどうしよう、という不安がいつもあり、その幸せを守ろうと必死になったり、幸せを得ても、その幸せを守るためにさらにあくせく苦労し続けなければならない。青い鳥が教える真理は、このようなもの、と考えることもできるのです。

幸せを捜し求めながら歩む私たちの人生は、苦労に満ちています。幸せを求めれば求めるほど、苦労が増し加わってくる、そんな矛盾の中を私たちは生きているのです。その苦労の中で私たちは道を見失い、迷ってしまいます。幸せを得るためにどこへ行ったらよいのか、どちらの方向に進んでいったらよいのかが分からなくなってしまい、迷子になってしまうのです。

イエス様はこのことをたとえでお話になっています。
ルカによる福音書15章3節から7節まで。見失った羊のたとえです。迷える羊の話です。
◆「見失った羊」のたとえ
15:3 そこで、イエスは次のたとえを話された。
15:4 「あなたがたの中に、百匹の羊を持っている人がいて、その一匹を見失ったとすれば、九十九匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか。
15:5 そして、見つけたら、喜んでその羊を担いで、
15:6 家に帰り、友達や近所の人々を呼び集めて、『見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください』と言うであろう。
15:7 言っておくが、このように、悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある。」

子どもの讃美歌にこれを歌ったものがあります。讃美歌21の200番に入っています。
この曲の第1節は、主イエスのたとえ話には語られていない、この羊が迷子になった様子を想像して歌っています。
「小さいひつじがいえをはなれ、ある日とおくへあそびにいき、花さく野はらのおもしろさに、かえるみちさえわすれました」。
これは、私たちが、幸せを求めてあちこちさまよい歩き、苦しんでいる、結局迷子になってしまう姿と同じです。あそこに幸せがありそうだ、こっちかも。そのうち、どちらへ行ったらいいのか、どこに本当に幸せへの道があるのかがわからなくなり、途方にくれてしまう。
そして幸せを捜して歩き回るのに疲れて座り込んでしまう。
そういう私たちの姿がこの迷子の羊と重なるのです。

この曲の第2節には、「けれどもやがてよるになると、あたりはくらく、さびしくなり、うちがこいしくひつじはいま、声もかなしくないています」とあります。
皆さんは迷子の経験はありますか。子供の頃の迷子よりも大人の迷子はもっと深刻です。なぜなら、自分を探してくれる両親がいないからです。子供はいつか自分を見つけてくれるだろうと希望を抱くことができます。しかし、大人は自分で見つけないといけません。
本当に自分を暖かく迎えてくれる場所、心の拠り所はどこにあるのか。私たちはその場所を探し求めているのです。本当に安心して憩える場所、疲れを癒し、新たな力をくれる場所、そういう場所にこそ本当の幸せがある、そう信じているのです。しかし、どこにあるか分からない。さまよっている私たちは、幸せを求めて右往左往しているのです。

そんな時、ふと教会に行ってみようかという思いを持つ人もします。教会へ行って、聖書の話でも聞いたら、そこに幸せが、自分の居場所が見つかるかもしれない。教会こそ私たちの魂のふるさとであり、捜し求めている幸せを得ることができる所。そう期待します。
でも、それは違います。教会は、私たちの魂のふるさとではありません。チルチルミチルが行った国の一つに過ぎないのです。教会に行けば青い鳥も持ち帰ることができる。それは夢の中の話なのです。
私が聖書から皆さんに伝えられることは、迷子の私たちには幸せの青い鳥を手に入れることはできない、ということです。
何故ならば、私たちには罪があるからです。罪というのは、的外れ、神様に背き、逆らう思いのことです。私たちが魂の故郷を失い、幸せを捜し求めつつ迷子になってしまっているのは、実は神様に背き逆らい、神様のもとを飛び出してしまったからです。
羊が、ある日遠くへ遊びに行ったのは、いつもの牧場がつまらないと思ったからです。羊飼いの下に管理され、いつもその指示に従って歩み、群れの中でばかり暮らしているのが窮屈に思えたからです。一人で、自由になって、思いっきり羽根を延ばし、行きたい所にこそ、自分の幸せがあると思ったからです。
そこで、羊飼いのもとへはいることはできない、と思ってしまったのです。
聖書のこの後に続く、ルカ14章11節からの放蕩息子も同じです。
私たちは、神様のことを、自分の自由を奪う存在のように感じ、神様を信じて生きることを、窮屈で自由のない、自分らしく生きることができない生活であるかのように思っているのです。そんな束縛からは自由になって、自分の思い通りに歩みたい、神様に支配されるのは嫌だ。
そういう思いを聖書は、罪と呼び、その罪によって人間は神様のもとを飛び出し、自由を追い求めてこの世をさまよい、迷子になっているのだと語っているのです。
では、本当はどこにいるべきだったか。神様のもとにいるべきだったのです。神様のもとこそが私たちの魂の故郷です。神様こそ、私たちを養い、守り、導いて下さる方なのです。
だから、そこ以外の場所では、幸せ、青い鳥はつかまえることはできないのです。

ではどうすればいいのか。聖句に戻りましょう。
この迷える羊の話が語っているのは、中心にいるのは誰なのでしょうか。羊飼いです。
一匹の羊を見失った羊飼いが、残りの九十九匹を野原に残しておいて、見失った一匹を見つけ出すまで捜し回る、ということです。
なぜ捜さなくてはいけないのか。迷子の羊は自分で戻ることができないからです。神様に背き、自由を求めて飛び出してしまった私たちは、戻るべき故郷を捨ててしまったのですから、自分でそこに帰ることができないのです。
だから、羊飼いが、迷子の羊を捜しに来る。
「なさけのふかいひつじかいは、このこひつじのあとをたずね、とおくのやまやまたにそこまで、まいごのひつじをさがしました」。
羊飼いが、捜しに来てくれる、迷子の羊を、見つけ出すまで捜し回ってくれる、それが、聖書が教え、教会が信じている神様なのです。

私たちは神様のもとを離れた罪人です。自分の思い通りに生きるのだと言って神様のもとを飛び出し、幸せを求め迷子になり、帰るべき故郷を失っている者です。だから、私たちが何をしてもだめなのです。
そのような私たちを、神様が、捜しに来て下さるのです。そして私たちを見つけ出して、「うち」へと、魂の故郷へと連れ帰って下さるのです。

そのために神様がして下さったこと。それがイエス様を私たちのもとに遣わして下さったことです。イエス様は神様の独り子。まことの神であられる方です。そのまことの神様が、私たちと同じ人間になってこの世に来て下さり、私たちの全ての罪を背負って、身代わりになって十字架にかかり、死んで下さったのです。
なぜか。私たちが迷子だからです。罪を持っているからです。罪を負ったままでは、どんなに連れ帰ってもすぐにまた離れてしまうのです。それを解決するため、罪から解放するために十字架にお架かりになったのです。イエス様は自分が罪を犯したからではなく、私たちの罪を引き受け、背負って下さったのです。その死によって、私たちは罪を赦され、解放され、安心して憩える所、慰められ、疲れを癒され、新たな力を与えられる魂の故郷に立ち帰ることができるのです。
自分で帰るのではありません。自分では帰ることができない私たちを、主イエスがご自身の命をささげて捜し出し、連れ帰って下さるのです。
このたとえ話はそのことを告げています。

迷子になった私たちは自分では帰ることができない。しかし、神様が、その独り子イエス・キリストによって、私たちを捜し出して下さり、魂の故郷へと連れ帰って下さるのです。
だから教会は魂の故郷ではありません。教会に来れば幸せになれる、というものではありません。
では教会はどんなところか。教会、そして礼拝は、迷っている私たちを捜し出し、見つけ出して連れ帰って下さる、その神様と出会うことができる場所の一つにすぎません。大切なのは場所ではなく、神様と出会うことが大切なのです。
幸せを捜し求めて死ぬまでこの世をさまよい続ける私たちが、自分のことを捜しに来て下さる神様と出会うのです。
神様に出会うならば、私たちはもう迷子ではないのです。神様にしたがえば、本当に自分を暖かく迎え、育み、癒し、支えてくれる魂の故郷に生きることができるのです。

旧約聖書の神様の姿も同じことを言っています。エゼキエル34:11-13節。
「まことに、主なる神はこう言われる。見よ、わたしは自ら自分の群れを探し出し、彼らの世話をする。牧者が、自分の羊がちりぢりになっているときに、その群れを探すように、わたしは自分の羊を探す。わたしは雲と密雲の日に散らされた群れを、すべての場所から救い出す。わたしは彼らを諸国の民の中から連れ出し、諸国から集めて彼らの土地に導く。わたしはイスラエルの山々、谷間、また居住地で彼らを養う」。
34:16節に飛びます。
「わたしは失われたものを尋ね求め、追われたものを連れ戻し、傷ついたものを包み、弱ったものを強くする。しかし、肥えたものと強いものを滅ぼす。わたしは公平をもって彼らを養う」。

神様はご自分の羊を捜し出し、集め、失われたものを尋ね求め、連れ戻し、傷ついたものを包み、弱っているものを強くして下さる、そういう方なのだということは、旧約聖書と新約聖書を貫いて語られている、聖書の教えの中心なのです。

最後に、ちょっとだけ理屈っぽいお話をして終わりたいと思います。
讃美歌200番の4節は、「とうとうやさしいひつじかいは、まいごのひつじをみつけました。だかれてかえるこのひつじは、よろこばしさにおどりました」となっています。
素晴らしい終わりです。神様が、迷える羊である私たちを捜しに来て下さり、見つけ出して、魂の故郷へと連れ帰って下さる、それは私たちにとってどれほど大きな喜びでしょうか。
しかし、この讃美歌が歌っていることは、イエス様がお語りになった話とちょっとだけ違っています。抱かれて帰る羊が喜んだとはどこにも書かれていないからです。
5~7節「そして、見つけたら、喜んでその羊を担いで、家に帰り、友達や近所の人々を呼び集めて、『見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください』と言うであろう。言っておくが、このように、悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある」。

喜んでいるのは羊飼いなのです。大きな喜びが天にある、それは天の父なる神様の喜びです。神様のもとから幸せを求めて飛び出して、迷子になり、さまよっている私たちを、捜しに来て、見つけ出し、ご自分のもとに養い、育み、守って下さる、その救いのみ業を、神様ご自身が心から喜んでおられるのです。
まず、喜ばしさに踊っているのは、私たちではなくて、イエス様ご自身なのです。教会、礼拝で私たちは、私たちを捜しに来て下さる神様と出会います。そして私たちを見つけ出して心から喜んで下さる神様の喜びを知らされるのです。皆さんの喜びはどのような喜びでしょうか。自分が救われた喜びですか。それも大切です。でも、あなたが救われたことを喜んでくださっている方がいる。その喜びを見ることを喜んで頂きたいのです。私たちの喜びは自分勝手なもの、私たちの感情は変わります。でも、この神様の喜びは変わらないのです。この変わらない神様の喜び、天の喜びを喜ぶこと、この喜びの中で生きることこそが、キリスト教の信仰なのです。

「新しい生活様式」このことによりコロナからの危険は減ります。でもそれだけでいいのでしょうか。生活様式を変えるだけでなく、私たちの生きる方向も変えましょう。神様の喜びを喜ぶ生き方をしていきたいと思います。
この苦しい時期の歩みが、皆様の生き方の大きな転換となるように、神様の導きをお祈りいたします。

それではお祈りをもって礼拝を閉じさせていただきます。