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メッセージ2020年5月16日

わたしのもとに マタイによる福音書11章28節

皆さん、おはようございます。
亀甲山教会は、新型コロナウィルスの感染防止のためにお休みしています。私たち神奈川は緊急事態宣言が続いていますが、他の県、一部地域では宣言が解除され、少しづつ活動が再開されています。私たちの他の地域の教会も動き出したところがあるようです。
私たち神奈川県では、生活の中でまだ不自由を強いられています。皆さんはステイホーム守っていますか。コロナ疲れ、という言葉がマスコミでも言われています。疲れていませんか。
そこで、今日はこのみ言葉を頂きました。
 
聖句を開きましょう。イエス様は私共にこう語りかけておられます。
マタイによる福音書11章28節です。
11:28 疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。
「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」
イエス様の、何と優しい招きの言葉でしょう。この言葉は、教会の案内板などにもよく書かれている有名なみ言葉です。私が最初にSDA教会に行った山形教会の塀にあった看板にも、消えるような文字でこの聖句が書かれていました。今はもう残っていないかもしれません。
当時はちょっと前の聖書でしたので、口語訳聖書で
11:28 すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう。
こう書かれていました。

人は皆、それぞれの歩みの中で、様々な重荷を負っています。何の重荷も負っていない、そんな人は一人もいないでしょう。
重荷、普通であれば、人生の様々な段階における重荷を思い浮かべます。
進学のこと、就職のこと、恋人や結婚、子供のこと、職場での人間関係、経済のこと、将来のこと、若者には若者なりの不安があり、苦しみがあります。またお年を召した方には、自分の体の痛みや健康のこと、家族のこれからのこと、自分や親の介護のことなどもあるでしょう。誰もが、年齢や環境、生きてきた時代に応じた重荷を持っているのです。

実際、教会にいらっしゃる方もいろいろな重荷を負っておられます。外から分からない、人には言えないものもあります。人それぞれ違います。同じように見えても、それぞれ置かれている状況や立場で感じている重荷が違います。感じ方も違いますから、他の人に分かってもらえないもの、理解してもらえないものもあります。だから誰にも話すこともできない。そういう人もいます。どんなに明るい人でも、重荷を負い、多少なりとも疲れを感じている。
それが私共の現実なのです。

それだけではありません。私たちは共通の重荷も負っているのです。時代の中で背負わされる重荷です。昔だったら、自然災害、戦争、世界恐慌などの経済の問題。今のこのコロナの問題もそうです。職場の中で、学校の中で、家庭の中で、感じ方は違いますけれども、この時代を生きる者としての共通の重荷となっているのです。ですから、今まさにこの「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」とのイエス様の御言葉を聞く必要があるのです。

「わたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」
いやいや、今、私の働くところは経済的な問題を抱え、私は休むではなく、働きたいのだ、そう思う方もいらっしゃるでしょう。でも、働きたいのに働けない、そう思うことこそが、もうすでに重荷となっているのです。
そのために、全ての人にイエス様は「わたしのもとに来なさい。」と招かれているのです。
でもどうでしょうか。不思議なことに、誰もがこの招きには応じません。そして、「どうすればイエス様の所に行けるのでしょうか」とも問いかることもしません。そうすると、どうなるか。疲れを負ったままで過ごさなくてはいけなくなるのです。

最近よく北海道の友人の精神科医から電話がかかってくるのですが、その中で友人が真剣に心配していることがあります。「この後、自殺者が増えるのが怖い」というものです。
今、NHKでコロナ関連の情報を、放送している画面を小さくして、枠の部分で流しています。その中で「心の悩み電話相談」のようなものが流れているのに気づかれているでしょうか。神奈川の番号も出ています。
この騒動に巻き込まれ、重荷で苦しんでいらっしゃる人たち、それだけでなく重荷に真面目に取り組んだ人たちが、ふと、もうこの地上での歩みをやめて、いっそ死んでしまえば休めるだろう、すべてを投げ出してしまえ、そう思う人が増えてくる、というのです。
そんなことがあるの?実はこれは、これまでの災害の後にも起こったことだそうです。直接的にだけでなく、間接的にも、ボクシングのボディーブローのように、私たちは知らないうちに、しかし確実に力がそがれているのです。
先月、相談窓口を持っている団体が全国一斉の相談会を行ったようです。2日間、30か所で125電話回線で対応したそうです。実際に電話で受けることができたのは5000件弱。でもアクセスは42万件。対応できたのは1%。多くの人たちが重荷を負って相談しているのです。
皆さんはどうですか。同じように感じておられる方もいると思います。
大丈夫、そうおっしゃる方もいるでしょう。でも、他人事ではありません。私たちも、疲れ果てて、何もやる気が起きず、そんな風に思ってしまう時がないとは言いえないからです。
そしてたどり着くのが、「死こそが、問題解決の唯一の方法だ」。自分で自分の運命を選んでしまうことがあるのです。

しかし、イエス様が私たちを休ませようと招いておられるのは、自ら選ぶ死ではありません。確かに、自ら選ぶ死は一時的にその苦しみからは逃れることができるかもしれません。でも、気を付けて下さい。私たちの命はこの地上の生涯では終わらないのです。
聖書は、この地上の生涯が閉じられたなら、私たちは眠りにつくと言っています。そして再び目覚める時が来るのだと。これは聖書を信じる私たちの一つの希望、望みです。再び目覚める時があるとすれば、自ら閉じてしまった生涯が再び動き出したとき、どうなるでしょうか。不本意に終わるその方の死は、周りの人を悲しませ、苦しませることにつながります。そして再び目覚める時、愛する人と再会する時、そのことを解決しなかったこと、生み出してしまった問題を自分のこととして受け取らなくてはいけなくなるのです。だから、自ら運命を曲げる死は、決して真の解決ではないのです。だからイエス様の「休ませる」、この言葉は決して、自らの選ぶ死を指しているのではないのです。

では、イエス様はどのような「休ませよう」を考えておられるのでしょうか。イエス様は重荷を負って歩み続けている私たちの、疲れた心と体とを本当の意味で休ませて、再び元気に歩み出すことが出来るようにしてあげよう。そう言われているのです。心も体も疲れ果て、もうどうなってもいいやというような投げやりな思いから私たちを解き放ち、もう一度、元気とやる気を与えて、新しく歩み出すことが出来るようにしてあげよう、そう告げておられるのです。この言葉を信じてみませんか。

でも、面白いことに、イエス様はこの招きの言葉に続けて、こう言われています。
マタイ
11:29 わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。
11:30 わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」

イエス様は「休ませてあげよう。」と言われました。でも「わたしの軛を負いなさい。」と言われるのです。負うという言葉が引っかかるのです。
おかしいと思いませんか。自分が負っている荷物に、さらに新しい荷物が加えられるような表現です。自分が今負っている重荷に加えて、イエス様の荷物を負う。これでは休むどころではない。増えた重荷に押しつぶされて、倒れてしまうではないか。
そう思いませんか。そう感じるのですが、ここに、いつも使わない言葉ができてきます。「くびき」です。軛というのは、2頭の牛に車を引かせたりする時に、その2頭がバラバラに動くことがないように、首の所に木の枠をくくりつけて、一緒に働くようにする道具です。
この軛をつけられる牛は、一方はベテラン、もう一方は新人、経験の浅い牛だそうです。つまり、ここでイエス様が「わたしの軛を負いなさい。」と言われているのは、ベテランのイエス様と一つにされて歩む者になりなさい、ということを意味しています。イエス様と一緒に歩むとき、その時何かが起こるのです。

では、どうして、イエス様の軛を負うならば休むことになるのでしょうか。安らぎを得ることになるのでしょうか。そこで、まず「疲れること」について考えてみましょう。
私たちが重荷を負って疲れてしまうのは、その重荷が、誰かに強いられて、嫌々負わされている重荷だからです。強いられて負っているから、嫌だと思いながらなので疲れてしまうのです。決して荷物の重いか否かでは決まっていないのです。
皆さんの周りを見て下さい。不思議な人がいませんか。本当に大きな責任、重荷を負っている、そして忙しくしている人のだけれども、元気な人、生き生きしている人。どうしてそんなに元気なのか。重荷とは単に、責任が重いとか、忙しいとか、面倒くさいから重いのではないからです。同じことでも、嫌々負わされているものでないのなら、好きなものなら、自分から進んで負っている重荷ならば、そんなに疲れないし、喜んでできるからです。

今年は本来ならばオリンピックが行われる予定でした。開会式は7月24日の予定でした。
このオリンピックを目指している選手たちはどうでしょうか。様々な人の期待、責任、国旗を担いで競技に臨んでいる人の重圧はすごいものでしょう。人の何倍も努力しないといけない。すごい重荷のように感じます。それに応えるために、それこそ血のにじむような努力を積み重ねていくのです。でも、その人たちに共通することがあります。だれもが、嫌々やっていないといことです。嫌々努力するような人は、多分、あの場に残っていないのだと思います。その根底にあるのは「好きだから」、そこに喜びがあるのです。あの素晴らしい能力をもった選手たちでも、誰かに命令されて嫌々やっていたならば、途中でやめてしまっていたでしょう。しかし、彼らはやり続けることができる。それは、どこか喜びを感じているからです。

これは特別なことではありません。誰もがどこかで経験しているはずです。それは皆さんの好きなこと、そして人に喜んでもらえるもの。このようなことは、大変なものでも、決して重荷にはならないのです。

今、皆さんは、コロナで不自由な生活をしていますがどっちでしょうか。ステイホーム。好きでやっていますか。嫌嫌でやっていますか。
私たちが重荷と思っている嫌々負っているもの、それをイエス様は一緒に負ってくださるというのです。全部あなたが負うことはない。だから、イエス様は心の不安を取り去って下さったり、力を下さったり、助け手を送って下さったり、ある時には逃げ道を示して下さったり、結果の責任を負ってくださったり。
そのようにして、私たちの重荷を一緒に負ってくださることで、この重荷を軽くしてくださるのです。でも、イエス様のもっとすごいのは、嫌々やっていたことを、そうでないものに変えて下さることがあるのです。
コロナの問題で、外出自粛が叫ばれている時に、急に流れが変わった時がありました。
緊急事態宣言が出された時、80%削減と言われました。とにかく外に出ないでください。これは多くの人にとってどうですか。好きで好きでたまらないものでしょうか。それとも嫌で嫌でたまらないもの出しょうか。
嫌で嫌でたまらないもの。なぜなら、私たちは自由でいたいからです。
だからその時、特に若者たちが渋谷に出かけるのを止められなかったのです。
でもある時に流れが変わりました。何が変えたか。訴え方が変わったからです。あなたの愛する人を守るために、家にいましょう。
最初、若者たちは、コロナは重症化しない、そして自分たちは体力があるから死んだりしない。自分たちの重荷をそう考えていました。でも、コロナが自分の重荷ではなく、愛する人の重荷でもあったこと、愛する人の重荷でもあることに気が付いた時、若者たちの行動が変わっていったのです。若者たちは外に出るのをやめ、渋谷に若者たちが一斉に消えたのです。
反省しなくてはいけないのは、逆に、それまで若者たちを非難していた50代60代の人たちが、実は縛られた仕事の関係で外に出ていることが逆にクローズアップされていったのです。守っていないのは自分中心の年配者だ。
繰り返します。なぜ若者たちは外出を控えたのか。それは自分の重荷は、自分一人の重荷でないことが分かったからです。これは自分の愛する人の重荷でもあることに気が付いたからです。一緒にいる人たちも、その軛につながれていることが分かったからです。
決して重荷は変わっていません。しかし、誰もがその重荷を変えることのできる、素晴らしい心を持っているのです。愛する他の人のために。
自分の重荷を軽くするシステム。神様は私たちの心の中に、このシステムを置いて下さっているのです。

このシステムをきちんと動かすために大切なことがあります。
聖句をもう一度見て下さい。イエス様が何度も「わたし」と繰り返しておられます。
「わたしのもとに来なさい」「わたしは柔和で謙遜な者」「わたしの軛を負い」「わたしに学びなさい」「わたしの軛は負いやすく」「わたしの荷は軽い」。
私、とは誰でしょうか。イエス様です。この聖句は「わたし」であるイエス様というお方を抜きにしては全く成り立たないことを示しています。
私たちは、この心にあるシステムを動かすために、100%動かすためには、イエス様の許に来て、イエス様の軛を負って、イエス様に学ぶしかないのです。
私たちの心にある、自分と愛する人との間を、価値観の変わる物差しでなく、変わらない物差しに変える必要があるからです。
変わらない物差し、変わらないイエス様の姿。
ステイホームの間、ぜひ聖書を開いてみて下さい。その中に私たちを愛して下さる姿、十字架にお架かりになって下さった姿、私たちのために命をも捨てられた姿、その姿を見ることができます。
そのイエス様が、私たちが負うことのできない重荷を一人で負わせるはずがないのです。イエス様は本当に柔和で謙遜な方であり、イエス様と共に負うことで重荷は軽くなるのです。私たちがそれが感じられないとしても、イエス様はあえいでいる私と共に、あえいでくださっているのです。
そして、私たちに告げるのです。「大丈夫。わたしは三日目に復活した。肉体の死さえも、あなたを潰すことは出来ない。わたしが共にいる。あなたは自分の力で、自分の努力で何とかしようとしているかもしれない。その努力は大切なことだ。でも、わたしが共にいて、わたしがあなたを支え、守り、導き、力を与え続けていることを忘れないように。わたしがいるから、あなたは決して潰れない。そんなことは誰にもさせはしない。だから安心して、今日やれることを、精一杯やりなさい。それで十分。明日のことは、また明日にしよう。5年後、10年後、20年後、そんな先のことも心配しなくて良い。わたしが共にいる。大丈夫。」
そのようにイエス様は私たちに語り続けてくださるのです。

このイエス様の言葉は、イエス様と切り離した所では成り立たないのです。
イエス様以外の誰に従ってもだめです。牧師に従っても、私に従ってもだめです。
これから終わりの時代に出てくる偽キリスト、偽預言者、イエス様の生まれ変わりと称する人に従っても、それは全く救いに至りません。何故なら、イエス様以外に、あなたを愛して十字架にお架かりになった方はいないからです。三日目に復活された方もいないからです。イエス様以外に、本当にあなたと一つになって歩んでくださる方はいないからです。

イエス様が私と同じ軛をおってくださる。このことに対して、申し訳ないという思いが生まれることがあります。しかし、イエス様がこれを重荷とは感じておられません。なぜなら、イエス様はあなたを愛しておられるからです。若者といっしょです。重荷を、一緒に歩むことを喜びと感じておられるからです。
そして、オリンピック選手たちが、オリンピックの日の来るのを楽しみにしているように、イエス様もご再臨の時に、あなたと会うことを楽しみにしておられるからです。

わたしのもとに来なさい。イエス様はそう言われます。
この招きに答えましょう。重荷をイエス様のもとへもっていってください。
重荷を取り去ったり、他の方法を教えて頂いたり、そして重荷を喜びへと変えて頂きましょう。
私たちの地域はまだまだ緊急事態宣言が解かれていません。不自由を強いられています。しかし、これは愛する人のため。イエス様によって重荷を喜びに変えて頂きましょう。
最後にお祈りをして、この礼拝を閉じたいと思います。