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メッセージ2020年12月5日

幼子を腕に抱き ルカ2:28-32

皆さんおはようございます。
今年はコロナで暗いニュースが多かったですが、11月に入って、予定していたものではなかったのですが、幼児祝福式、今回の献児式と、子供のためにお祈りする機会に恵まれました。実は、まだ献児式を行いたいというお話を頂いているのですが、コロナの影響で、もう少し時期を見ましょうというご家族もいらっしゃいます。このような状況の中でも共にいて働いて下さる神様に感謝したいと思います。
先週待降節についてメッセージをさせていただきました。クリスマスにまつわるメッセージでしたので、今日のメッセージも少しクリスマスにまつわるものを神様から頂くことになりました。
皆さんが外に出られると、街はクリスマス。このクリスマスの季節にはたくさんの讃美歌が流れてきます。いつもであれば私たちも、今日はキャロリングでいくつもの施設を訪問させていただいている予定でした。訪問先の皆さんはクリスマスの讃美を聞くのを楽しみにしていてくださっています。もちろん、皆さんの中にもクリスマスの讃美歌を歌うことを楽しみにしておられる方も多いと思います。
讃美歌にはたくさんのクリスマスの讃美歌が収められています。なぜこんなに多くのクリスマスの讃美歌があるのでしょうか。もちろんイエス様の誕生そのものが賛美される物語だからでしょう。
でももう一つ大きな理由があります。そもそもクリスマスのことが書かれている聖書の箇所に、多くの賛歌、歌がすでに収められているからなのです。
皆さんよくご存じなのは、イエス様の母となったマリアが、神をほめたたえている「マリアの賛歌」があります。ルカによる福音書1:47以下のところです。冒頭の言葉が、伝統的にラテン語で「マニフィカート」という言葉ですので、そのままこれを取り出し、「マニフィカート」と呼ばれています。
また同じルカ2章では羊飼いたちが夜通し羊の群れの番をしていた時に、天使たちが現れ歌う場面があります。ルカ2:14で「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ。」と讃美しています。前半の「いと高きところには栄光、神にあれ」という言葉を、これもラテン語にしますと、「グローリア・イン・エクセルシス・デオ」という言葉になります。
皆さんよくご存じの希望46番「あら野の果てに」クリスマス讃美歌の有名に讃美歌になっています。

そして今日の聖書朗読で読んでいただいた「シメオンの賛歌」と呼ばれている讃美歌もあります。これは「ヌンク(今)・ディミティス(去る)」と呼ばれています。
今日の聖書箇所のシメオンの言葉をそのまま歌詞にしたものが歌われてきました。
み言葉を確認いたしましょう。聖書をお開き下さい。

ルカ(104p)
2:28 シメオンは幼子を腕に抱き、神をたたえて言った。
2:29 「主よ、今こそあなたは、お言葉どおり/この僕を安らかに去らせてくださいます。
2:30 わたしはこの目であなたの救いを見たからです。
2:31 これは万民のために整えてくださった救いで、
2:32 異邦人を照らす啓示の光、/あなたの民イスラエルの誉れです。」

元々はクリスマスの賛歌ですが、クリスマスの讃美歌の中で、この「シメオンの賛歌」だけは実は他とは扱いが異なります。「シメオンの賛歌」はクリスマスの讃美歌なのにもかかわらず、他にも歌われるのです。いつかというと「終わり」の時によく歌われています。
「終わる」まさに私たちにはいろいろな「終わり」があります。
一日一日の終わりであったり、今がまさにちょうどその時期になりますが、一年の「終わり」であったり、そしてまた私たちの一生の「終わり」もあります。
だから終わりの時、例えば、教会や修道院で、一日の終わりに祈りをするときに、この「シメオンの賛歌」が歌われるのです。それから礼拝や集会の最後の「終歌」としても歌われるのです。それだけでなく、「シメオンの賛歌」は一年の終わりの大みそかの礼拝でもよく歌われていたようです。
そして安らかに去らせてくださる、「安らかに終わる」という思いが込められているから、生涯の終わりを意味する言葉も用いられてもいるので、私たちがどういう「終わり」を迎えるのか、そのことを考える機会にもなっているのです。
今日は、この点について大きく広げるつもりはありません。しかし、シメオンになって考えてみましょう。
私たちの誰もが、安らかな終わりを迎えたいと思っています。シメオンも同じでした。しかしシメオンはこれまでは死ぬに死ねないことがありました。
しかしこの日を境に、安らかに過ぎ去ることができる、そのように言っているのです。
なぜか。
死ぬに死ねない問題が残っていたのに、それがかなえられた。安らぎを得たからのです。なぜ安らぎを得たのか。
死ぬに死ねないこと、そう待ち望んでいた救い主にお会いしたからです。
聖書は言っています。
ルカ
2:25 そのとき、エルサレムにシメオンという人がいた。この人は正しい人で信仰があつく、イスラエルの慰められるのを待ち望み、聖霊が彼にとどまっていた。
2:26 そして、主が遣わすメシアに会うまでは決して死なない、とのお告げを聖霊から受けていた。

「主が遣わすメシアに会うまでは決して死なない」この言葉を聞いた時から、いや、その前からずっと救い主を待ちわびていたのでしょう。待ち続けたのでしょう。そしてこの言葉を聞いた時、その思いはもっと大きくなったのです。「メシアに会うまでは決して死なない」どれだけ待ったか分かりません。
しかしこの時、ようやくお会いできたのです。
だから、シメオンは言うのです。29節です。
ルカ
2:29 「主よ、今こそあなたは、お言葉どおり/この僕を安らかに去らせてくださいます。

シメオンは「もう思い残すことはない、自分の使命はこれで果たした」と言っているのです。その後のことは分かりません。でもこの言葉から、この直後にシメオンはそのまま安らかに息を引き取ったのではないかと考える人さえいるくらいです。
幼子イエスを腕に抱いた時、おそらくシメオンは感極まった顔をしていたことでしょう。そしてアンナも、人々に救い主がお生まれになったことを伝えていますが、その顔は喜びに満ちた顔だったことでしょう。二人の顔つきは、救い主にお会いする前とお会いした後では全く変わったのです。

私たちの顔つきはどうでしょうか。
「主よ、今こそあなたは、お言葉どおり/この僕を安らかに去らせてくださいます。」
私たちはこのシメオンの言葉をなかなか言えないところがあると思います。引きずっているものがあるからです。
例えば、クリスマスの到来と共に、今年一年の終わりを迎えようとしています。今年一年、どうだったでしょうか。ああすればよかった、こうしておけば違った結果になったかもしれない、あんなことをしてしまった…、挙げればきりがありません。安らかに、という気持ちになれないものを抱えています。
それだけでなく、やってしまったこと、消えない傷跡があります。振り返ると、信仰を持ちながら、神様から離れてしまった、聖書でいう「罪」を行ってしまったことが心に浮かびます。まだまだ解決できていないことがたくさんある。だからなかなか安らかな明るい顔になれないのです。
シメオンはどうだったのでしょうか。私たちの同じように、シメオンにももちろん罪はありました。そんなシメオンを何が変えたのでしょうか。シメオンの心を吹き飛ばすようなこと。30節に理由が書かれています。

2:30 わたしはこの目であなたの救いを見たからです。

聖書では信仰について、見ないのに信じる大切さが説かれています。イエス様はトマスに言われました。見ないで信じないものになりなさい。ヘブライ書にもあります。
しかしここにあるように、救いが見えた時、シメオンはこれまで持っていた心のもやもやのすべてを吹き飛ばすことができたのです。
シメオンは救い主である幼子を見ました。それだけでありません。
手で触れました。幼子を腕に抱いたのです。
でもそれだけもなかったのです。シメオンの目の先にさらに見えていたものがあります。

ルカ
2:34 シメオンは彼らを祝福し、母親のマリアに言った。「御覧なさい。この子は、イスラエルの多くの人を倒したり立ち上がらせたりするためにと定められ、また、反対を受けるしるしとして定められています。
2:35 ――あなた自身も剣で心を刺し貫かれます――多くの人の心にある思いがあらわにされるためです。」

シメオンの目線の先に何が見えていたか。
結論を先に言うと、この幼子が十字架にお架かりになるということが見えていたのです。
「多くの人を倒したり立ち上がらせたりする」とシメオンは言っています。これは二種類の人がいるということではありません。ある人は倒れるけれども、別の人は立つということではありません。いったんは倒れた人が「立ち上がる」のです。
何のことでしょうか。イエス様の十字架の出来事です。イエス様ご自身もそうですし、それを見ていた人達もこの体験をしています。
マリアも自分の子の十字架の死を目の当たりにすることになります。「その心も刺し貫かれる。」
十字架の出来事は大きな試練です。イエス様は死の中に置かれることになります。マリアも心を刺し貫かれます。イエス様の弟子たちもみんな絶望してしまいます。
皆が倒れることになるのです。
しかしそれで終わりではなかったのです。
このシメオンの目の先には、「立ち上がる」ことも見えているのです。
まずイエス・キリストが死者の中からよみがえる、復活するのです。ここでシメオンが言っている「立ち上がる」という言葉は、「復活する」という言葉と同じ言葉です。
そして弟子たちもそうです。一度はイエス様のもとを離れ絶望しました。みんな散ったのです。
でも、それで終わらなかったのです。
救い主を信じる人たちが、罪のために倒れるけれども、救い主によってまた立ち上がることをシメオンは見たのです。
シメオンが幼子を腕に抱いて見たものには、その先があったのです。

先程言ったように、私たちには色濃く残っている汚点があります。消せない傷跡があります。振り返ればたくさんあります。私も皆さんにお話しできないこと、隠したいことがたくさんあるのです。それを考えると眠れなくなることもあります。
でもそれで終わらない。
この幼子が地上に来たからです。いや、もう一度来てくださるからです。
だからそこから「立ち上がる」のです。
その時、これらの汚点、傷跡が消えるのです。神様が消してくださるのです。それが、神様が与えてくださる「救い」なのです。

ルカ
2:30 わたしはこの目であなたの救いを見たからです。

シメオンは、このようなことを何時見たのでしょうか。
幼子を見た時、幼子を腕に抱いた時です。
なぜ見ることができたのでしょうか。
イエス様だからでしょうか。そうでしょう。でも、それだけではありません。
幼子には無限の可能性があるからです。すべてが可能だからです。何にでもなれる。
だから聖書の中には、幼子の時にささげられた人がたくさんいます。
なぜ、幼子を、人生の最初の時にささげるのでしょうか。

今日お読みしたこの箇所は、ヨセフ一家が律法の定めに従ってエルサレム神殿に参拝した時のことです。聖書の中で幼子を連れて神殿に行くのには二つの目的がありました。
一つは母親マリアの清めのため、そしてもう一つは幼子を聖別して、神に捧げるためであったと聖書は説明しています。
当時、子供を産んだ婦人は一定の期間、宗教的に汚れた存在と見なされ、その汚れの故に行動が大幅に制限されていました。マリアはそのために、清めの期間が過ぎ、その汚れから解放されたことを示すために神殿に行き、動物の犠牲を捧げたのです。このような理由がありました。でもそれだけではありません。
もっと大切なのは、律法の定めの通り「初めて生まれる男子は皆、主のために聖別される」必要がありました。これは簡単に言えば子供が神様のために働く者として、神様に捧げられると言うことを意味します。つまり神様のものとして特別に彼らが扱われることを意味しているのです。
今教会で行っている献児式、幼児祝福式の背景にはこのことがあります。

詩編127:3 見よ、子らは主からいただく嗣業。胎の実りは報い。

子供は神様からの賜物、その養育を任されたものとしての自覚を持って、子供に接する。自分の子であるのだけれども、神様から託された子供として育てていくことを誓うのです。
これは親御さんだけではありません。式を行う私もそうですし、証人として立たされた皆さんも同じ責任を負っています。教会に来ている子供を、神様から託された子供として責任をもって育てていくことを、みんなで誓うのです。
なぜそれをするのか。聖書に書かれているから。それもあるでしょう。でもそれだけではありません。その子供から幻を受けるからです。
シメオンがイエス様を腕に抱いた時見たものです。シメオンが、その幼子に無限の可能性があり、その可能性に神様が働いてくださることを見たのと同じように、私たちも子供たちの中に素晴らしい可能性を見たからです。そして、神様によって導かれる中で実現できるように、親御さんも私たちもそのお手伝いをするために集められたからです。
教会で献児式や、幼児祝福式を行う時、皆さん自身が、シメオンの幼子を腕に抱いて見た幻を今受け継いでいただきたいと思います。

でもそれだけではありません。
幼子ということであれば、聖書はもっと大切なことを皆さんに伝えています。
マタイによる福音書を開きましょう。
マタイ18:1-3(34p)
◆天の国でいちばん偉い者
18:1 そのとき、弟子たちがイエスのところに来て、「いったいだれが、天の国でいちばん偉いのでしょうか」と言った。
18:2 そこで、イエスは一人の子供を呼び寄せ、彼らの中に立たせて、
18:3 言われた。「はっきり言っておく。心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない。

私たちは年を重ねると、できないことに目を注ぐようになります。今年一年もそうです。振り返った時に、できなかったことを考えてしまうのです。でも、この聖句にあるように、私たちも幼子のようになった時、神様は私たちの中に素晴らしい可能性を持つことができるのです。神様は年を取った私たちの中にも幼子として素晴らしい可能性を見ておられるのです。

神に導かれて、私たちの今日があります。その先の可能性を見いだしていくこと、認めることによって、たとえ何歳であっても、人生をここからもう一度やり直すことができます。
今一度、私たちが子供たちのようにすべてを受け入れる心を持つように、そう神様のご計画されたすべてを受け入れ、その上を歩んでいくことができるようにお祈りしていきましょう。
そしてシメオンの言葉を私たちの言葉にしたいと願います。
「わたしはこの目であなたの救いを見たからです。」
この言葉を言えるように、そしてこの言葉を言われるように。
この言葉が実現されるようにお祈りいたします。

瞑想の言葉「子供たちは今でも福音の教えを最も素直に受け入れる。彼らの心は天来の感化力に対して開かれ、受けた教訓を固くもちつづける。小さい子供たちは、それぞれの年令にふさわしい経験をもったクリスチャンとなることができる。彼らを霊的な事がらに教育する必要がある。両親は、子供たちがキリストのご品性に型どって品性を形成するように、あらゆる便宜を彼らに与えねばならない。」(希望への光940p)