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メッセージ2020年12月26日

切に願う ルカ22:14-16

皆さんおはようございます。
2020年が終わろうとしています。今年一年、教会はコロナに振り回されました。
本来ならば、今日は期の最後の安息日ですので、洗足聖餐式を予定していました。第一期もできなかった、第二期・第三期も再開できませんでした。教会理事会では12月こそは、と予定を立てました。感染の恐れのないように、聖餐式のセットを用意したりもしていたのですが、12月に入って「勝負の3週間」、そして今「真剣勝負の三週間」感染の広がりから、洗足式を含めた式は困難と判断、断念いたしました。
しかし、今年1年の締めくくりとして、聖餐式の場面に思いを向けていきたいと思います。

最初にみ言葉を頂きましょう。聖書朗読の後の聖句もお読みします。
ルカ22:14-23
◆主の晩餐
22:14 時刻になったので、イエスは食事の席に着かれたが、使徒たちも一緒だった。
22:15 イエスは言われた。「苦しみを受ける前に、あなたがたと共にこの過越の食事をしたいと、わたしは切に願っていた。
22:16 言っておくが、神の国で過越が成し遂げられるまで、わたしは決してこの過越の食事をとることはない。」
22:17 そして、イエスは杯を取り上げ、感謝の祈りを唱えてから言われた。「これを取り、互いに回して飲みなさい。
22:18 言っておくが、神の国が来るまで、わたしは今後ぶどうの実から作ったものを飲むことは決してあるまい。」
22:19 それから、イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えて、それを裂き、使徒たちに与えて言われた。「これは、あなたがたのために与えられるわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい。」
22:20 食事を終えてから、杯も同じようにして言われた。「この杯は、あなたがたのために流される、わたしの血による新しい契約である。
22:21 しかし、見よ、わたしを裏切る者が、わたしと一緒に手を食卓に置いている。
22:22 人の子は、定められたとおり去って行く。だが、人の子を裏切るその者は不幸だ。」
22:23 そこで使徒たちは、自分たちのうち、いったいだれが、そんなことをしようとしているのかと互いに議論をし始めた。

ここは聖書を良く知らない人でも「最後の晩餐」として知られている場面です。
イエス様が12人の弟子たちと共にとったこの最後の晩餐。教会の聖餐式をイエス様が制定された時の出来事です。
制定された、どこでわかるか。19節でイエス様が「わたしの記念としてこのように行いなさい」とおっしゃっておられるからです。だから呼び方は違うかもしれませんが、伝統的にこの聖餐は、説教と共に礼拝の中心にありました。
イエス様の晩餐はまさに十字架にかけられる前の夜の出来事。しかし弟子たちには、このあと何が起こるか分かっていませんでした。イエス様だけがご存じでした。
15節でおっしゃっています。
「苦しみを受ける前に、あなたがたと共にこの過越の食事をしたいと、わたしは切に願っていた。」
ここでおっしゃっている「苦しみ」とは何でしょうか。十字架です。十字架につく前にこの食卓を「切に願っていた」のです。
なぜでしょうか。
それは、単に明日死ぬことになるから、なんでもいいから愛する弟子たちと共に最後の食事をとりたかった、ということではありません。
この食事が単なる夕食なのではなく、「過越の食事」という特別な時であったからです。
「過越の食事」
それは年に一度ユダヤ人が必ず守る大切な食事でした。起源は旧約聖書の出エジプト記にまでさかのぼります。この時、イスラエルの民はエジプトの国で奴隷生活、労働に苦しんでいました。そこに神様がモーセを指導者に立て、イスラエルの民をエジプトから脱出させたのです。旧約聖書最大の出来事、それが出エジプトです。
しかし、エジプトの王は貴重な労働力であるイスラエルの民を奴隷から解放しませんでした。そこで神様が、モーセを通して10の災いをエジプトにもたらし、罰を与え、イスラエルの民を解放させるのです。その10番目の災い、最後の災いが、この「過越」と呼ばれるものでした。簡単に言えば、真夜中に神様が御使いを遣わして、エジプト中の家の初子、すなわち長男の命をとるという恐ろしいものでした。
エジプトにいたイスラエルの民たちも例外ではありません。その中にいたからです。しかし、イスラエルの民たちには災いが及ばないように、道を備えて下さったのです。
神様は小羊の血を家の玄関の柱と鴨居に塗れとイスラエルの民にお命じになりました。そのようにした家については、神様の罰が過ぎ越して、初子は死から免れるのです。ただ必要だったのは、神様を信じる信仰。
イスラエルの民たちは、①神様を信じ②災いが起こることを信じ③神様の示す方法を行う時、その災いから救われることも信じなくてはいけなかったのです。
そのことを信じたからこそ、災いが過ぎ越したのです。
神様は実際に災いと救いを行われました。そして信じたイスラエルの民たちは救われたのです。
だからそれを記念して、命じられた方法で小羊の肉を食べ、また、酵母を入れないで焼いたパンを食べるなどして記念したのです。それが過越の食事です。
神様は、この過越の食事を子々孫々にわたって守るように命じられました。ユダヤ人はずっと1年に一度の過越の食事を守ってきたのです。
ではそこで記念していることは何だったのでしょうか。
神様が奴隷から解放してくださったこと。
それだけではありません。イスラエルが神の民とされたことを記念するものとなったのです。

イエス様はこの特別な過越の食事を共にとることを切に願っておられたと言われているのです。
先程の質問に戻りましょう。
なぜ「過越の食事」を弟子たちと共にとることを願っておられたのでしょうか。
それは十字架前夜であったことにヒントがあると言えるでしょう。
それはまず、これからイエス様が捕らえられて十字架にかけられる、その十字架の意味を教えたかったのに違いありません。
すなわち、玄関に小羊の血を塗った家を神の罰が過越したように、小羊なるイエス様の十字架で流された血によって、私たちが受けるべき神の罰が過ぎ越すということです。
私たちにとっては、イエス様があの過越の時の小羊である、それが十字架のイエス様なのだと。
この出来事、小羊の血を玄関の柱と鴨居に塗ることによって神の罰が過ぎ越すという出来事は、血なまぐさいし、たいへん奇妙に思いませんでしたか。
「なぜ小羊の血を塗ったのだろう?」
でも、これがイエス様の十字架を指していたのだ、ということに気がついた時、イエス様の十字架で流される血・命によって救う、赦すという尊い犠牲の意味分かるのです。まさに人類の罪を贖う神様のご計画に気がつくのです。
皆さんにも関係があるのです。
これによって、皆さんはどのような立場になるのでしょうか。
朝ドラで「ちよちゃん」主人公がお父さんの借金の肩代わりに犠牲を払う場面が今週出ています。そこで借金が分かりやすいので例えさせていただきます。
私たちは自分で払うことのできない借金を抱えています。それは自分の命で払うしかない。そこに救い主が現れて、その借金の肩代わりをしてくれる。あなたはそれを信じて受け入れればいい。よく言われる説明です。
救い主が借金の肩代わりをして下さった。皆さんは借金が払われたことにより、その重荷を下ろすことができて良かった。そう思われるでしょう。
本当に良かったのですか。私はそうは思いません。
予言ではないですが借金をして生活が上手くいかなくなった人の多くは、また借金を繰り返すことになります。
なぜか。新しい道を見つけることができないからです。
私たちも一緒です。ここで助かっても、また同じ失敗を繰り返す。同じことをしてしまうのです。
神様の準備して下さったことはそんなことなのでしょうか。

そうではありません。
これはただ、私たちの罪の支払い、代償としての意味を持つだけではないのです。
20節でイエス様が杯を手に取られはっきり言っておられます。
「この杯は、あなた方のために流される、わたしの血による新しい契約である」
そう、これには新しい契約伴っているのです。
「新しい契約」
イエスさまが十字架で流される血、すなわち十字架でささげられる命によって、神さまと私たちの新しい契約がなされるのです。
イエス様は弟子たちにそれを告げなくてはいけなかったのです。
その契約とは何だったか。
イスラエルの民がエジプトで過ぎ越しの犠牲によって奴隷から解放されました。でもそれだけではなかった。
何がありましたか。それからの歩みのために新たに律法が与えられ神の民となったのです。今、イエス様が十字架にお架かりになって流される血によって、私たちは罪の奴隷・悪魔の奴隷から解放されます。でもそれだけでなく、イエス・キリストを信じることによって新しい神の民となる新しい道、契約の道を進むことができるのだというのです。
これが十字架の意味であることを、この最後の晩餐によって教えておられるのです。
それを伝えないといけない。なぜなら、また同じ道を進むからです。
私たちも誤解しているかもしれません。
私たちはイエス様が言われた通りに、主の晩餐を聖餐式としてずっと守ってきました。
もしそんな素晴らしいものであるならば、誰でもその食卓に招けばいいではないか。そう思います。しかし、ルカは言っています。

22:21 しかし、見よ、わたしを裏切る者が、わたしと一緒に手を食卓に置いている。

ユダです。イエス様の時にも実は大変なことが起こっていたことが分かるのです。
なぜこのことが言われるのか。主の聖餐は罪が赦されることを告げるだけの意味を持っているのではないからです。その後、新しい道を歩むためのものでなければいけなかったからです。それを理解しなければひどいことになる。マタイのたとえを思い出してください。

マタ
◆汚れた霊が戻って来る
12:43 「汚れた霊は、人から出て行くと、砂漠をうろつき、休む場所を探すが、見つからない。
12:44 それで、『出て来たわが家に戻ろう』と言う。戻ってみると、空き家になっており、掃除をして、整えられていた。
12:45 そこで、出かけて行き、自分よりも悪いほかの七つの霊を一緒に連れて来て、中に入り込んで、住み着く。そうなると、その人の後の状態は前よりも悪くなる。この悪い時代の者たちもそのようになろう。」

同じことがこの主の晩餐についても書いてあります。
1コリント11:27
一コリ 11:27 従って、ふさわしくないままで主のパンを食べたり、その杯を飲んだりする者は、主の体と血に対して罪を犯すことになります。

食卓に着けばいいのではないのです。いやそれがひどいことを引き起こすことがあるかもしれないのです。もし、新しい道を受け入れる気持ち、その覚悟がなく食卓に着いてしまえばどうなるか。その人にとって大変なことになるのです。
たとえは悪いですが、これは「義兄弟の杯(さかずき)」にたとえられるのかもしれません。なぜたとえは悪いか。皆さんが義兄弟の盃というと、何を思い出しますか。
三国志の劉備玄徳、関羽雲長、張飛翼徳の「桃園の誓い」であれば大丈夫です。
「我ら三人、生まれし日、時は違えども兄弟の契りを結びしからは、心を同じくして助け合い、困窮する者たちを救わん。上は国家に報い、下は民を安んずることを誓う。同年、同月、同日に生まれることを得ずとも、同年、同月、同日に死せん事を願わん。」
いいですよね。一番最初の盛り上がるところです。
イエス様とそのような思いになれれば一番いいです。
しかし、そうでないかもしれないのです。

もしかすると皆さんが思い出すのが、ヤクザの酌み交わす義兄弟の杯であればどうでしょうか。意味はいっしょなのです。
赤の他人でもこの杯を酌み交わせば、それからはもう兄弟分である。
しかしこれを、杯の意味を何も知らないで飲んでしまったときに、突然ヤクザから「おまえも杯を受けたのだから兄弟だ」と言われたらどうでしょうか?
「知らなかったのです。仲間になるのは勘弁してください」と言うでしょう。それを喜ぶどころか、逆に離れてしまったり、いやいや一緒にいることになるのです。
それと同じことです。
教会もまさに兄弟姉妹と呼び合います。
でも、まだ神さまイエスさまを信じていないばかりか、その意味も知らないのに、聖餐の杯をとったのだから「あなたも兄弟だ」と言われたとしたら困ってしまうでしょう。
信じていないのに聖餐にあずからせるというのは、それと同じ思いをさせてしまうのです。
それは神様に対しても、その人に対して不誠実なことになるのです。

単に罪の赦しを受けるというものではない。
最後の晩餐の本当の意味を考えるならば、聖餐式は、私たちはイエスさまによって罪を赦され、それだけでなく、一歩進んで神の民として新しい歩みを始めさせていただいた、ということを繰り返し確認しているものだからです。

このように聖餐式はイエス様の十字架によって罪が赦される、そして神の民として新しい一歩を踏み出すことを意味しますが、もう一つたいせつなことがあります。
それは16節でイエス様が言われていることに関係しています。
「言っておくが、神の国で過越が成し遂げられるまで、わたしは決してこの過越の食事をとることはない。」
これは何を意味するのでしょうか。
それまでは食べない、ハンガーストライキをしておられるのでしょうか。
違います。
神の国が来たときに、また共に食べよう、ということを意味しているのです。イエス様が言うということは、すなわち、これは神の国の到来、天の国が必ずやって来ることを預言されているのです。

今年はずっと主の祈りに結びつけていますが、前に「御国を来たらせたまえ」と結び付けてメッセージをしたときがありました。この時、私たちが主の祈りを祈ることが、実は御国が来ることの保証になっているのだということをお話しましたが、イエス様は、私たちが聖餐式を行うことで、天の国の到来の誓いをされているのです。
すなわち、イエスさまの十字架によって罪が赦され、そのイエスさまを信じることによって新しい神の民とされる契約が結ばれ、そして永遠の神の国の希望が与えられているだけでなく、必ずやって来ることを示しているのです。
アドベンチストの希望は、主のご再臨の希望は、この聖餐式を行うことにも結び付いているのです。この小さな式の中に私たちの希望のすべてが詰まっているのです。

さて、もう一度15節をご覧ください。
この最後の晩餐を始めるにあたって、イエスさまは「苦しみを受ける前に、あなたがたと共にこの過越の食事をしたいと、わたしは切に願っていた」とおっしゃいました。
この「切に願っていた」という言葉ですが、前にも説明いたしました。実は原文ではもっと強い意味の言葉になっています。ある解説では「欲望によって熱望する」というような意味と説明されていますが、要するにたいへん、非常に、とても、すごく望んでいた、というようなことになるでしょう。イエス様は、十字架の前の晩の、この過越の食事を弟子たちと共にとることを、そんなにも、ものすごく望んでおられたのです。
イエス様がそんなにも、弟子たちとの最後の晩餐を望んでおられたのであれば、イエス様は今も同じように、この亀甲山教会の聖餐式も切に望んでおられるに違いありません。
私たちはどうでしょうか?
残念ながら今日は聖餐式ができませんでした。ホッとしていますか。それとも本当に残念でしょうか。メッセージで意味を知るだけでなく、イエス様の思いに応えていけるように、今年最後の安息日に、み言葉をもう一度大切に味わっていただきたいと思います。
「わたしは切に、切に願っていた」‥‥イエスさまはそうおっしゃいます。
イエスさまは私たちと共に聖餐の食卓に着くことを、それほど願っておられる。あらためてそのイエスさまのお気持ちを受け取って一年を振り返っていきましょう。そして神の民としての一歩を踏み出していきましょう。

瞑想の言葉 「聖餐式は、キリストの死の結果達成された大いなる救済を記念するために与えられたのであった。主が力と栄光のうちにふたたびおいでになるまで、この儀式は守られる。それは、われわれのためのキリストの大いなるみわざがわれわれの心のうちに生きつづけるための手段である。」(希望の光1018p)