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メッセージ2020年12月19日

大きな喜びを告げる ルカ2:8-11

メリー・クリスマス。
これは世界で最も有名な誕生日のお祝いに使う言葉です。誕生日のお祝いなのにHappy Birthdayではないのはなぜか。たぶん本当の誕生日ではないからでしょう。
でも「メリー・クリスマス」この言葉が今、街の至る所に飛び交っています。お祝い好きの日本人にとってクリスマスとは、クリスマスツリーを飾り、パーティーを行い、プレゼントを交換し、ケーキを食べる。ずっと教会とは無縁だった私のクリスマスもそうでした。
しかし、聖書を読むときこのようなクリスマスはどこにもありません。
クリスマスは言うまでもなくイエス・キリストの誕生を思い出しお祝いする時、それを記念し、感謝する時です。では世界で初めのクリスマス、それはどのような出来事だったのでしょうか。聖書の中には2つの福音書がそれを告げています。マタイとルカです。
聖書朗読で読まれた箇所はその一つルカです。
今日はルカ2章のクリスマスの記事を読みながら進んでいきましょう。(102p)

2:1 そのころ、皇帝アウグストゥスから全領土の住民に、登録をせよとの勅令が出た。
2:2 これは、キリニウスがシリア州の総督であったときに行われた最初の住民登録である。
2:3 人々は皆、登録するためにおのおの自分の町へ旅立った。
2:4 ヨセフもダビデの家に属し、その血筋であったので、ガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。

幼稚園や学校、教会で見るクリスマスの絵や置物などは、静かな聖なる夜としてのクリスマスを私たちに見せています。しかし、子供たちに大切なことを教えるために読まれるグリム童話が実は怖いお話であったように、クリスマスのお話も実は穏やかなものではありませんでした。
ルカによれば、ヨセフとマリアの夫婦は、ローマ皇帝アウグストゥスの勅令によって住民登録のために旅をしなければならなかったのです。この時代の住民登録は日本でいう国勢調査のようなものです。それを戸籍のあるところ、当時で言えば出身の部族の町で手続きをしなくてはいけない、そんな制度でした。
そもそも当時のこの制度はローマが税金を取るために行った調査。言い換えれば税金を取られるために強いられた旅行です。コロナで生まれたGo To~とは違うのです。ヨセフはそれを身重のマリアを連れて行ったのです。その時何が起こったのでしょうか。

2:6 ところが、彼らがベツレヘムにいるうちに、マリアは月が満ちて、
2:7 初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである。

この旅先のベツレヘムでマリアはイエス様を生むことになったのです。
旅先で出産するというのは誰もが避けたいもの。知らない人の中で出産をするのは心細いことです。しかも、宿屋には彼らの泊まる場所がなかったとあります。
聖書は直接書いていませんが、イエス様は「飼い葉桶に寝かされた」そう馬小屋のようなところでマリアは出産しなければならなかったのです。
この若いヨセフとマリアは、知らない土地で、誰にも頼ることなく、迎えてくれる人が一人もいなかった中で、大切な使命をもった赤子を迎えることになったのです。
ここまでを穿った見方をすれば、無力な民が、権力者である皇帝の命令によって望んでもいない旅を強いられ、その旅先で出産を迎え、乳飲み子を飼い葉桶の中に寝かさなければならなかった。これがクリスマスの出来事です。
この世の不条理、人間社会にある、権力のある者と弱い者、豊かな者と貧しい者の格差を見せつけられるような出来事なのです。
そんなクリスマスのお話ですが、暗い出来事だけではありませんでした。
ルカ福音書2章の8節以下に進みましょう。
◆羊飼いと天使
2:8 その地方で羊飼いたちが野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていた。
2:9 すると、主の天使が近づき、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた。
2:10 天使は言った。「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。
2:11 今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。

その地方で野宿しながら羊の群れの番をしていた羊飼いたちに天使が現れたことが語られています。羊飼いたちは主の栄光によって、輝かしい光によって照らされたのです。
これは素晴らしいことです。しかしどうでしょう。その光は、彼らの置かれている状況、持っている背景の暗さをかえって浮き彫りにしています。
野宿をしながら夜通し羊の群れの番をしなければならない羊飼いたちは、町に住む普通の人々のように生活することができませんでした。そのため当時の人々からさげすまれていたのです。安息日を守ることができない、神様への義務を果たしていない人たちと見られていた彼らは夜の暗さの中にいただけでなく、当時の社会における暗さ、格差や差別、そこから生まれる苦しみや悲しみ、恐れや不安の闇の中にいたのです。その闇は、焚き火をどんなに燃やしてもはらうことのできない深い闇だったのです。

このように見ていくと、ルカの伝えるイエス・キリストの誕生は深い闇の中での出来事です。権力の支配の下で、弱く貧しい夫婦が体験しなければならなかった苦しみ、人々の差別や偏見の中で弱い立場に追いやられている羊飼いたちの悲しみ、人間の社会に存在するつらく悲しい闇の現実の中に、救い主イエス・キリストが小さな赤ん坊として生まれたのです。
だからでしょうか、いつもなら誕生は大きな喜びのはずなのに、周りには誰もその誕生に気づいていません。喜び祝う人など一人もいないのです。
暗闇の中で喜びを伝えた人たちがいます。主の天使でした。この天使は暗闇に隠されている喜びを羊飼いたちに伝えたのです。
「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった」
救い主、待ちに待った光、でも自分たちには関係ない、羊飼いたちがそう思ってもしょうがないかもしれません。でも違う。天使は、「布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子」こそが救い主だ、と言ったのです。「飼い葉おけ」自分たちと同じような弱さと貧しさの中で誕生し、今飼い葉桶に寝かされた小さな乳飲み子。羊飼いたちは、単なるニュースでなく自分たちへの知らせと感じたでしょう。人々に蔑まれ、社会の片隅に追いやられている自分たちために、神様がこの世に送られた救い主なのだ。
そして自分たちだけでなく、世界中の人に与えられる大きな喜びの知らせなのだ。
それを裏付けるように、天の大軍も加わって、声高らかに賛美を歌い始めます。
「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ」グローリアです。
これが世界で初めのクリスマスなのです。

少しまとめてみましょう。
ヨセフとマリアは強いられた旅の途上でイエス様を産むという苦しみを体験しました。両親にとって生まれたばかりの赤ん坊を飼い葉桶の中に寝かさなければならないことはとてもつらいこと、新しい子供に十分なことをしてやれない自分たちのふがいなさを感じはずです。
そして夜通し羊の群れの番をしていた羊飼いたちも、差別と偏見の苦しみの闇の中を生きていました。
しかし神様は、この闇の現実の中に、光の子として、救い主イエス・キリストを送ることによって、すべての人々のための救いのみ業を始めて下さったのです。
クリスマスカラーは全部で6色。赤、白、緑、金、銀。きらびやかな色ですが、一番大切なのはそれらの背景になっている黒。闇の色です。
光あれ、天地創造の時に神様の言葉が一筋の光を生み出したように、イエス様は暗闇の中にさした光。素晴らしい始まりの出来事です。
しかし、救い主を待ち望んでいた人々はまだ本当には誰もそれに気づいていなかったのです。
ある人は言うでしょう。当事者とされたヨセフとマリアは知っていたではないか。
確かに天使たちから生まれてくる子供についての情報を知らされていました。でもそれは決して楽しいことの始まりではありませんでした。マタイを見るとイエス様の誕生は婚約破棄が起こっても致し方ないことでした。ヨセフが正しくあろうとすればするほど、つらく苦しいことであり、どうして自分がこのような目に遭わなければならないのか、と思うようなことでした。だから素晴らしい出来事と心から喜ぶことはできなかったはずです。
だから本当の暗闇の中。
しかし神様は、この暗闇の中に主イエス・キリストを送ることで全ての人々のための救いのみ業を確かに始められたのです。
そしてその救いの恵みと喜びを、この闇の中で生きていた羊飼いたちに初めて伝えて下さったのです。
「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそメシアである。」

天使を通じて神様が彼らに告げて下さったこの言葉は、今も私たちに対しても語りかけられています。
今年一年を振り返って、皆さんの1年はどうだったでしょうか。もし、素晴らしい一年であったとしたら、神様に感謝してください。
でも、もしそうでない一年であったとしたら、どうでしょうか。
この一年いろいろなことを思い出されると思います。そして、今もなお、苦しみや悲しみ、恐れや不安の闇の中にいらっしゃるかもしれません。
しかし、皆さんに対して大きな声がかけられていることに気づいてください。
このクリスマスに語られた言葉、「恐れるな」。「恐れるな」という神からの語りかけをまず聞いてください。

聖書は、神様が作られた世界に罪が入りこんだことを告げています。そのため、私たちを取り巻く現実は、確かに恐れと不安に満ちています。自分の力ではどうにもならない、またいくら考えても解決策の見つからない緊張、対立のもたらす危機の中に私たちは今もいるのです。もし、この闇のような現実に目を背けることなくしっかり見るなら、恐れを抱くことしかできないし、恐れを抱くことの方が正しいでしょう。しかしこのクリスマスに、神様は私たちに「恐れるな」と語りかけて下さっています。目を閉じたり、目を背けることでやり過ごすために語られたのではないのです。
私たちの目は、この世の暗い現実でも目を閉じたり、目をそらすことでごまかすためにあるのではありません。しっかり見るために与えられたのです。
神様もそうです。その暗闇をしっかりと見て、人間の罪が渦巻いて、貧しい者弱い者が苦しめられているこの世の闇の中をしっかり見て、現実にご自分の独り子イエス・キリストをお遣わしになったのです。だからイエス様は、私たちの全ての罪と苦しみ悲しみをご自分の身に背負って、十字架によって私たちの罪を赦し、神の子として新しく生かして下さるという救いを始めて下さったのです。
この救いのみ業の、言葉ではない実際的な、決定的な一歩はいつ始まったか。まさにこの時、神様は一歩をこのクリスマスの出来事において踏み出して下さったのです。
神様が実際踏み出した一歩、その恵みの事実のゆえに、私たちへの「恐れるな」との語りかけを、希望を持って聞く事ができるのです。

神様からのこの語りかけを聞いた羊飼いたちはどうしたでしょうか。
「さあ、ベツレヘムへ行こう。主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか」と言って新しく歩み出しました。これは羊飼いだけの言葉でしょうか。羊飼いだけが新しくあゆむことができるのでしょうか。
私たちも「恐れるな」という神様の語りかけを聞くことによって、新たに歩み出すことができるのです。この世の現実から目を背けしゃがみ込んでやりすごそうとしたり、自分の力、努力でどうにかしようとしているうちは、いつまでたっても私たちは恐れや不安の暗闇からぬけ出して新しく歩み出すことはできません。しかししっかりを闇を見つめ、神様が一歩踏み出して下さったのです。人間の罪とそのもたらしている闇の現実のただ中に、独り子を救い主として遣わして下さった、そのみ業を見つめる時、私たちは「恐れるな」という神の語りかけとそれに続くメッセージ「大きな喜びを告げる」を聞く事ができるのです。
恐れてはいけないことは何か、そして本当に恐れるべきことは何か。同じルカの中でイエス様は言っておられます。

ルカ12:4-7(131p)
◆恐るべき者
12:4 「友人であるあなたがたに言っておく。体を殺しても、その後、それ以上何もできない者どもを恐れてはならない。
12:5 だれを恐れるべきか、教えよう。それは、殺した後で、地獄に投げ込む権威を持っている方だ。そうだ。言っておくが、この方を恐れなさい。
12:6 五羽の雀が二アサリオンで売られているではないか。だが、その一羽さえ、神がお忘れになるようなことはない。
12:7 それどころか、あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えられている。恐れるな。あなたがたは、たくさんの雀よりもはるかにまさっている。」

この「恐れるな」という神様からの語りかけを聞く時、初めてそのみ業のために自分のこの身を用いていただきたい、という願いが与えられるのです。

有名な「アッシジのフランチェスコの平和の祈り」ご存じでしょうか。これはまさにそこから生まれた祈りです。ご紹介しましょう。

フランチェスコの平和の祈り
主よ、わたしを平和の器とならせてください。
  憎しみがあるところに愛を、
  争いがあるところに赦しを、
  分裂があるところに一致を、
  疑いのあるところに信仰を、
  誤りがあるところに真理を、
  絶望があるところに希望を、
  闇あるところに光を、
  悲しみあるところに喜びを。

ああ、主よ、慰められるよりも慰める者としてください。
  理解されるよりも理解する者に、
  愛されるよりも愛する者に。
  それは、わたしたちが、自ら与えることによって受け、
  許すことによって赦され、
  自分のからだをささげて死ぬことによって
  とこしえの命を得ることができるからです。

この(太文字)はすべて私たちが恐れるものです。しかし、私たちが神様によってそれを恐れないとき、そのすべてを神様の御計画により素晴らしいものに変えて下さるのです。だからこそ、「わたしをあなたの平和の道具として用いて下さい」という祈りにつながるのです。救われるためではないのです。
この祈りは、神様がクリスマスによって始めて下さったみ業は必ず実現する、と信じる時にのみ、心から祈ることができます。
そしてこの祈りを自分のものとした時、今年一年説教で何度も出てきました「この私を用いて下さい」と願いつつ生きていくことにつながっていくのです。皆さんを取りまく闇のようなこの世の現実の中でも、恐れずに、希望を失うことなく歩み続けることができるようになるのです。
「わたしは独り子をあなたのための救い主としてこの闇の世に遣わした。私はもう一歩を踏み出しているのだ」という神の語りかけに応えて、神様と一緒に次の新たな一歩をいっしょに踏み出していきたいと思います。

主よ、わたしを平和の器とならせてください。
  憎しみがあるところに愛を、
  争いがあるところに赦しを、
  分裂があるところに一致を、
  疑いのあるところに信仰を、
  誤りがあるところに真理を、
  絶望があるところに希望を、
  闇あるところに光を、
  悲しみあるところに喜びを。

ああ、主よ、慰められるよりも慰める者としてください。
  理解されるよりも理解する者に、
  愛されるよりも愛する者に。
  それは、わたしたちが、自ら与えることによって受け、
  許すことによって赦され、
  自分のからだをささげて死ぬことによって
  とこしえの命を得ることができるからです。

羊飼いたちに与えられた天使の言葉「恐れるな、大きな喜びを告げる」は、今、皆さんにも語られています。
神様との一歩を始めるために、主の導きをお祈りいたします。

瞑想の言葉 「イスラエルに救い主がおいでになったのだ。権力と栄誉と勝利が主の来臨に連想されている。しかし天使は、彼らが貧しさとはずかしめのうちにあられる救い主をみとめるように彼らを準備させねばならない。…天の使者は彼らの恐れを静めた。彼はどうしたらイエスに会えるかを教えた。人間の弱さに対する思いやりから、彼は羊飼たちが天来の輝く光になれるように間をおいた。」(希望への光686p)