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メッセージ2020年11月7日

私の歩みを照らす灯  詩編119:105

皆さん、おはようございます。
今日から教会は「秋の祈祷週」に入ります。プログラムに参加できなくても、この一週間、皆さんがそれぞれの場所で、時間を聖別して下さってお祈りの時間を持っていただきたいと思います。私たちの神様は、場所を聖別される神様ではなく、時を聖別される神様です。この一週間という時を特別に祈っていきたいと思います。

今年の秋の祈祷週の読み物は「忠実なクリスチャンの生き方」という総題がついています。
この読み物の最初の挨拶のところで、世界総会総理のテッド・ウィルソン先生は、マタイによる福音書の大宣教命令を「クリスチャン」という視点で、私たちの価値観、優先順位、時間や財産をどのように活用していくのか、どのような生活を送っていくかということについて取り上げると言っておられます。ぜひ読んで見て下さい。

そして最初の安息日の記事は、クリスチャンの生き方の土台は聖書である、というテッド・ウィルソン先生の記事から始まっています。題は「私の歩みを照らす灯」

この記事は、先生の体験から始まっています。家を離れ、学びを続けようとした時に、お父さんから1枚のカードが送られたそうです。そこにはこう書かれていました。
「毎朝、神に自己をささげ、これを最初の務めとして、次のように祈りましょう。
『主よ、僕を完全にあなたのものとしてお受入れ下さい。私のすべての計画をあなたのみ前に置きます。どうか、僕を今日もあなたの働きのために用いて下さい。どうか、私とともにいて、すべてのことをあなたにあってなさせてください。』と。
これは毎日のことです。毎朝、その日一日神に献身して、すべての計画を彼にお任せし、摂理のままに実行するなり、中止するなりするのです。こうして、日ごとに生活を神のみ手にゆだねるとき、次第にあなたの生涯がキリストに似てくるのです」

この言葉はホワイト夫人の原稿から取られたものです。もう一度読んでみましょう。
「毎朝、神に自己をささげ、これを最初の務めとして、次のように祈りましょう。
『主よ、僕を完全にあなたのものとしてお受入れ下さい。私のすべての計画をあなたのみ前に置きます。どうか、僕を今日もあなたの働きのために用いて下さい。どうか、私とともにいて、すべてのことをあなたにあってなさせてください。』と。
これは毎日のことです。毎朝、その日一日神に献身して、すべての計画を彼にお任せし、摂理のままに実行するなり、中止するなりするのです。こうして、日ごとに生活を神のみ手にゆだねるとき、次第にあなたの生涯がキリストに似てくるのです」

テッド・ウィルソン先生にとってこの言葉は本当に大切な言葉になったのでしょう。先生の説教の中で、これまでにも何度もこれが使われていたことがあります。そして先生の説教を聞いた人からも、この言葉を聞いたことがあります。
このことで、私にも祈りに一つの祈りが加わりました。「今日、あなたがこの世界にしようとされているご計画に私も参加させてください。」
記事には、このカードがとても大切だったので、テッド・ウィルソン先生は「一度はなくしてしまったけれども、もう一度お父様にカードにしてもらった」そう書いてあります。

ではこのカードにあるように、神様に自分自身をささげ、日々の計画を神様にゆだねるためには何をすればいいのでしょうか。
考えて見て下さい。
祈り、もちろん必要です。
でも、自分の思いだけで祈る時、私たちはそれが神様の御計画が分からない存在です。いやそれだけでなく、自分の計画を神様の計画だと思い込み、行ってしてしまうことがあります。では本当に神様の御計画であると分かるためにはどうすればいいか。
それが神様からのものであるか検証すればいいのです。では、どのようにすれば検証できるのでしょうか。聖書によってです。
だから、私たちは聖書を通して、神様の声に耳を傾ける時間を持つことが大切なのです。
そのことを聖句は私たちに告げています。
詩編119編105節の言葉です。今日の聖句です。

詩 119:105 あなたの御言葉は、わたしの道の光/わたしの歩みを照らす灯。

み言葉こそが私たちを導いてくれるのです。み言葉こそが私たちに神様の御計画を示してくれるのです。このことをこの聖句は示しています。

今の世界は皆さんにとってはどのような世界でしょうか。
私たちの世界、社会がどんなに素晴らしいものになっても、その根底に流れているのは神様のみ心とは違うものです。私たちの考えだけで、神様が描いたゴールにたどり着くことはできません。なぜか。根底が違うからです。
以前にもお話したかもしれません。私が大学院の入試の時面接で問われたことです。
「あなたは創造論についてどう思いますか。創造論を本当に信じているのですか。」
学校で進化論しか教えられなかった私にとって本当に厳しい質問でした。
皆さんはどう考えますか。
私たちの日本は、世界の中で恵まれた国の一つと考えられています。物質的に恵まれ、少なくとも75年以上戦争のない国です。しかし本当にこの中に住んでいる人は幸せに過ごしているのか。どうでしょうか。

現在大国と呼ばれている国はアメリカと中国。これらの国も恵まれている国です。そう言いたいです。でもどうでしょうか。他の国についてどうこう言えるものではありませんが、大統領選挙や香港の問題を考える時、これから先はどのようになってしまうのか。外から見て不安になってしまいます。決して幸せな未来を描くことはできないような気がします。
これはこの日本も一緒です。これはただ悪い面に目を注いでいるのではありません。
どんなに素晴らしいリーダーが導いたとしても、私たちの世界の根底に流れているもの、私たちに興味を抱かせ、私たちを導いてるものは、決して私たちを幸せへとは導いてくれないのです。なぜなら、私たちの存在そのものが、罪によって神様の造った創造論から離れてしまっているからです。
私たちは自分たちだけの幸せを考え、他の人と比較し、目に見えるものを追い求めていく存在です。なぜ、そのようになるのか。自分たちが今、ここにいる意味・目的が見いだせないからです。何のために自分が今ここにいるのか分からないからです。だから、自分たちの幸せを追い求めていくのです。これは生まれてくることに意味を見出せていない。偶然に存在していると考えるからです。
しかし、創造論は違います。
創造論の大切なことは、私たちがいることの意味を教えてくれること。あなたを愛しておられる神様が、あなたを作ったのです。あなたに意味を与えて下さっているのです。愛される存在として、そして愛する存在として造って下さった。そこに喜びを見いだせるのです。私たちは愛し、愛されることで自分の存在する意味を見いだせる。幸せになれるのです。
でも、この大切な考え方、創造論を知っていても、その大切なことをきちんと知るだけでなく、実際に関係を持つことができないと意味がありません。
だから聖書は、まずその大切なことを私たちに伝えてくれるのです。聖書はそのために私たちの道を照らし、神様への道筋を教えてくれます。

それだけではありません。
大切なイエス様との関係を築き、築くだけでなく維持するための土台を教えてくれるのです。
私たちは、私たちを造って下さった神様が、私たちのために計画して下さった人生とはどのようなものか、そしてその人生を生きるとはどのような意味を持つのかを教えてくれます。
まさに、
詩 119:105 あなたの御言葉は、わたしの道の光/わたしの歩みを照らす灯。
だから、イエス様は言われたのです。
マタ
4:4 …「『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』…」

神様の口から出る一つ一つの言葉で生きる。そうです。一つ一つの言葉が私たちにとって大切なのです。
クリスチャンの生き方の土台は何なのでしょうか。それをみ言葉、聖書によって確認できます。聖書は私たちが生きる意味を教えてくれます。罪の中、滅びることしかできない私たちが、失ってしまった、生きるために必要な道を示してくれます。それを与えて下さる救い主イエス様へと導いてくれます。そして、この世界を生きるエネルギー、希望を与えてくれるのです。
私たちが、誰かと比較して、自分で考えた世界、自分の作り上げた世界、その時その時に変わってしまう世界を生きるのではなく、揺らぐことも変わることもない価値を教え、絶対的な真理の中で生きるために必要なこと、そのすべてをこの聖書が教えてくれるのです。

「キリストへの道」にはこう書いてあります。週報にあります。
「もし救い主を知りたいと思えば、聖書を研究してください。神のみ言葉で心を満たしましょう。神のみ言葉こそ、渇きをいやす生ける水、天からの生けるパンです。」

さあ、このパンを皆さんはどれほど食べているでしょうか。どれだけ、自分の身につけているでしょうか。
そう聞くと多くの人は「自分は足らない」そう思われませんか。確かに誰もその恵みを十分に受けている、そう言い切ることはできないと思います。でも、考えて見て下さい。足りないと皆さんが思われているこの状況でも、皆さんは教会へ導かれています。神様は聖書を通じて皆さんをこの教会へと導いてくださっているのです。
皆さんが教会に導かれている状況は不十分なのでしょうか。そうではありません。

でも、もっともっとこのみ言葉は素晴らしいものを与えてくれるのです。それを体験してほしいと神様は思われているのです。

富士山を皆さんは好きですか。今年に入って、コロナでどこにも行けない状況が続き始めて、私は家内と東名で静岡にドライブに行くことが幾度かありました。残念ながら、毎回富士山を見ることができたわけではありません。むしろ見られないことが多かったです。
この富士山の素晴らしさはどこにあるのか。父がお墓を置くことで望んだことは何か。素晴らしい富士の絶景でしょう。見ているだけでも素晴らしい。多くの人を引き付けるのです。
でも、それだけで富士山は語れないのだと思います。もう一つ、富士山の楽しみ方。実際に登ってみることです。
実際富士山に登る方、昨年度は23万人をこえた人が登っています。1日8千人以上登った日もあったそうです。今年はコロナで登ることができません。登りたい人はうずうずしているでしょう。なぜか。
見ているだけでは分からないことがあるのです。実際に経験してみる、取り組んでみる。
聖書もそれに似ているのです。礼拝でみ言葉に触れるだけでも、読んでいるだけでも面白いし、楽しいこともあります。ある時は耳に痛いこともあるでしょう。でも引き付けられる。
しかし、もっと深くかかわることによって、これまでなかった世界が広がってくるのです。

このように大切な聖書。だからこそ、基本に戻らなくていけません。
私たちは聖書研究によって導かれてきた教会です。
再臨に光をあて、再臨運動をおこした、ミラーは「聖書を聖書によって解釈する」という素晴らしい遺産を私たちに残してくれました。聖書を、牧師、リーダー、聖職者と言われる人だけにまかせて解説してもらうのではなく、自分たちで味わってみることをしたのです。
そしてミラーはそのことにより、聖書の中に隠れた真理にたどり着くことができたのです。
ただ、その時に注意しなくてはいけないことがあります。自分の思込みを排除しなくてはいけません。だから聖書を注意深く読むためには、個人の考えや文化に基づいて聖書を解釈しようとする方法ではなく、聖書そのものに聖書を解説してもらうことが大切だとミラーは考えたのです。聖書を聖書によって解釈する。それができる本なのです。なぜなら、神様がこの本を書かれているからです。ただ、それには忍耐も必要です。
今水曜日にジョン・ポーリン先生の本を用いて黙示録の聖書研究をしていますが、解説を読んでいると本当に面倒くさいと思うことがあります。この聖句は、聖書のこの場所に出ていることと同じだ、この言葉はここでこういう風に用いられている。そんな解説が細かいのです。ポーリン先生は全体が分かっているからいいけれども、私たち全体がまだ分かっていないものにとっては行ったり来たり、まどろっこしいと感じるのです。でも、これが聖書を聖書によって解釈するという基本なのです。
ミラーは、最初分からないことを無理に解釈するのではなく、立ち止まった、そして聖書を読み進めれば、いずれ分かって来るものとして先に進んだと聞いています。そして、読み進めたその先に、疑問に思っていたことの解答を見つけるのです。聖書を聖書で解釈するということはこのようなことなのです。
キリスト教の歴史は、この聖書を忠実に解釈する時に、多くの迫害にあうという歴史を持っています。聖書の解釈を世に倣ったものにしていれば、世に合わせていけば迫害が起こるわけはありません。しかし、世と神様のみ心、聖書は違う全体像を持っているのです。だからぶつかり合うのです。ぶつかった時、どちらが正しいのでしょうか。聖書だ、そのことを信じているのが真のクリスチャンなのです。
使徒言行録のべレアのユダヤ人の模範に倣いましょう。

使 17:11 ここのユダヤ人たちは、テサロニケのユダヤ人よりも素直で、非常に熱心に御言葉を受け入れ、そのとおりかどうか、毎日、聖書を調べていた。

祈りつつ、日々聖書を見ていく。
終わりの世ではそれが大切です。なぜならば、偽預言者が出て来るからです。偽キリストが出て来るからです。
これから1週間、祈りの時を持っていただきたいのですが、同時に聖書を開いて、聖書に足場を置いて歩んで行ってください。そして、この習慣を祈祷週が終わった後の習慣にもしていっていただきたいと思います。
終わりの時代を生き抜くために、祈りと、あなたの歩みを照らす灯である聖書を大切にしていきましょう。

瞑想の言葉「もし救い主を知りたいと思えば、聖書を研究してください。神のみ言葉で心を満たしましょう。神のみ言葉こそ、渇きをいやす生ける水、天からの生けるパンです。」『キリストへの道』125p文庫版