Home » 礼拝メッセージ » メッセージ2020年11月28日

メッセージ2020年11月28日

天の国は近づいた マタイ3:1,2

皆さん、おはようございます。
最初にみ言葉をいただきましょう。聖書朗読の箇所をお開き下さい。
マタイ3:1,2(新3p)
◆洗礼者ヨハネ、教えを宣べる
3:1 そのころ、洗礼者ヨハネが現れて、ユダヤの荒れ野で宣べ伝え、
3:2 「悔い改めよ。天の国は近づいた」と言った。

今年も早いもので来週から12月になります。街では少しずつクリスマスムードになってきて、私たちの教会でもクリスマスの準備が始まる時となりました。日曜日の教会掃除の時にクリスマスツリーを出してこれから飾り付け、今年は小学校のクリスマス会を教会の礼拝堂で使いませんので、あまりクリスマスの飾り付けはされないと思います。コロナのために今年はこの会堂に人を集めてのクリスマス会の計画はすべてキャンセルになりました。しかし今、ネットで子供向けのクリスマスのプログラムを流すために、児童伝道の人が中心に作っています。本当に大変だと思いますが、素晴らしいプログラムができるのではないかと期待しています。
クリスマスの準備をするこの時期にわざわざこのようなお話をするのは、私たちの教会は教会暦を制度として取っていない、教会歴がないのにいつもこの時期からクリスマスを行っているからです。今年はアドベンチストライフもクリスマスについて少し記事を組んでいるようです。「私たちはクリスマスを祝うべきか」読んでいただければと思います。エレン・ホワイトがクリスマスについてどのように考えていたか、について書いてあります。このような記事が載るということは、それだけ微妙な問題があるということでしょう。
そこで今日はクリスマスを考えるのであれば、そのクリスマスだけでなくその前の準備のこともしっかり考えていこうということでお話ししたいと思います。

実は教会歴を取っている多くの日曜教会では明日からクリスマスの準備の期間、待降節に入ります。今年の待降節、アドベントは11月29日からです。この待降節、アドベントとは救い主キリストの誕生を待ち望む期間。2000年前ユダヤの人々が救い主を待ち望んでいたように、私たちもイエス様の誕生に向けて待ち望もうではないか、という意味を持っています。
繰り返し確認しますが、私たちは教会暦を取っていない教会です。クリスマスもアドベントもない教会です。だからイエス様の誕生を取り上げるクリスマスも本来ならば12月25日に行うことが当たり前だとは考えていません。なぜなら事実として、この時期にイエス様がお生まれになったとは考えていないからです。ということは、いつイエス様の誕生についていつ取り上げても問題ないと思っています。ただもしするのであれば、社会や人々がクリスマスをお祝いし、注目する日、特にイエス様の誕生を伝えるということであれば、この人々が注目しているこの時期にしよう、そんなことでクリスマスを行い始めたのです。
同じように、この時期アドベントを行うことは必要ないのです。しかし、私たちはアドベンチストです。アドベントについて語らなくてはいけない教会です。そうであれば、せっかくなのでこの時期に取り上げよう、そういう思いでこの時期にお話をしています。

皆さんはこのアドベント、ご存知でしたか。ある教会ではこのアドベントについて分かりやすく次のように説明しています。
「待降節は二重の特質をもつ。それはまず、神の子の第一の来臨を追憶する降誕の祭典のための準備期間である」
つまりこの時期はこれまで見てきたようにクリスマスを行う準備期間であると言っています。
でも二重の特質を持つ、もう一つあるのです。この説明は続けて「また同時に、その追憶を通して、終末におけるキリストの第二の来臨の待望へと心を向ける期間でもある。この二つの理由から、待降節は愛と喜びに包まれた待望の時であることが明らかになってくる。」
アドベントとは何か。第一にはイエス様のお誕生、ファーストアドベントを思い準備する。それととともに、大切なことがもう一つあるというのです。
第二として、ファーストアドベントを通してセカンドアドベント、終わりの時のイエス様の再臨を待ち望むことへ心を向ける期間なのだ、というのです。日曜教会がどれだけ本当に2番目の再臨を意識してこの時期を過ごしているかは分かりませんが、私たちはまさにセカンドアドベント、主のご再臨を待ち望む教会として、この時期イエス様のお誕生を通して考えていきたいと思うのです。

そこでますキリストの誕生を見てみましょう。
福音書を見ると、イエス・キリストがやってくる時、イエス様が公生涯に入るまでの間、多くの人々に伝えられていたメッセージはどのようなものだったでしょか。天使によって伝えられたメッセージの多くが、人々にではなく、ヨセフとマリアといった個人にあてたメッセージでした。でも、その中で人々に伝えられたものがあります。
そのメッセージがルカによる福音書にあります。ルカの1:67をお開き下さい。イエス様の誕生が予告されていた時期にさまざまなことが起こった中で出されたもの。イエス様がお生まれになる時に、そのことが人々に知らされた言葉、ザカリアの賛歌、預言と言われているものです。
ルカによる福音書1:67から読んでみたいのですが、この言葉は「ほめたたえよ」という言葉で始まっているのでラテン語で「ベネディクトゥス」と呼ばれているものです。
このザカリアの賛歌・預言は大きく2つに分かれていて、最初の部分に神様が預言を成就させ、契約を果たして下さったこと、神の民に救いをもたらして下さったことを先取りして、神様への賛歌がうたわれているのです。イエス様がお生まれになる前に、イエス様のことが個人的にではなく、人々に伝えられた唯一のものだと思います。この最初の部分前半を見てみましょう。

ルカ1:67-70(新102p)
◆ザカリアの預言
1:67 父ザカリアは聖霊に満たされ、こう預言した。
1:68 「ほめたたえよ、イスラエルの神である主を。主はその民を訪れて解放し、
1:69 我らのために救いの角を、/僕ダビデの家から起こされた。
1:70 昔から聖なる預言者たちの口を通して/語られたとおりに。

ザカリアは68節で救い主について語っています。これは神様が天使を使うのではなく聖霊の神様自身が働いてザカリアを通して人々に語っているメッセージです。
主なる神は何をするのか。この時「主はその民を訪れて解放し」つまり、「訪れ」と「解放」の二つのことが行われることを高らかに宣言するのです。
ではなぜ、訪れと解放の2つのことを強調するでしょうか。
皆さんがその時代にいたら、何を神様に期待していたでしょうか。救いである解放ではないですか。もちろんそれもあります。私たちは救いを求めていますが、でも救いだけを求めてはいないはずです。
以前モーセの出エジプトを扱ったメッセージをいたしました。出エジプト33章でした。この中で、神様がイスラエルの人々が罪を犯すので、自分の代わりに天使を遣わして人々を守り、約束の地に導くことをメッセージとして語られた部分を取り上げました。なぜそうするのか。神様が一緒にいると、罪を犯し続けるイスラエルの人々を神様自身が滅ぼしてしまうかもしれないからです。そうすれば約束の地に導くという約束を果たすことができない、神様にそういう思い、イスラエルの民から離れようとなさったのです。
その時人々は喜んだか。滅ぼされることなく約束の地に入れるのですから喜んでもよかったはずです。でもそうではありませんでした。
出エジプト33章4節で人々は「民はこの悪い知らせを聞いて嘆き悲しみ、一人も飾りを身につけなかった」と書いてあるのです。人々は、このことを嘆き悲しみ、神様に思いとどまるように願ったのです。彼らにとって、約束の地、カナンに入ることが一番大切なことではなかったからです。では何が大切だったのか。そう、神様と一緒に歩むことが大切だったのです。大切なのは、約束の地に入ることだけではなく、神様と一緒に歩むこと。だから、旧約聖書の中で大切な言葉は、「わたしはあなたと共にいる」という言葉なのです。これは大切なところで何度も何度も出てくる言葉です。
この言葉を考えたとき、ザカリアの預言で「主が訪れる」というメッセージは、現在の状況からの「解放」と、いやもしかすると「解放」よりも大切な言葉かもしれないのです。私たちにとっても同じはずです。私たちにとって救いとは大切なものです。イスラエルの人たちにとってカナンに入るのと同じように大切なことです。しかし、それよりも大切なことがある。それは「わたしはあなたと共にいる」今、一緒に歩んでくださる神様なのです。

この後のメッセージはどのようになっているでしょうか。イエス様がお生まれになって公にはメッセージは出されません。しかし、時を隔ててメッセージが出されます。
皆さんがよく知っています。
聖書朗読で読んでいただきました。
マタイ3:1,2(新3p)をお開き下さい。

◆洗礼者ヨハネ、教えを宣べる
3:1 そのころ、洗礼者ヨハネが現れて、ユダヤの荒れ野で宣べ伝え、
3:2 「悔い改めよ。天の国は近づいた」と言った。

当時の人々に向けられた言葉が今度は洗礼者ヨハネを使って語られています。
3:2 「悔い改めよ。天の国は近づいた」
このメッセージはイエス様が公生涯、働きを始められたときにも語られました。
同じマタイによる福音書4:17を見てみましょう。

4:17 そのときから、イエスは、「悔い改めよ。天の国は近づいた」と言って、宣べ伝え始められた。

この時期、洗礼者ヨハネもイエス様メッセージでこれまで大切だったことが欠けていることに気が付くのです。何でしょうか。
そう、ザカリアの預言での「訪れる」という言葉です。なぜでしょうか。
理由は明白です。この時すでにイエス様はいらっしゃっていたからです。
イエス様の誕生の時の個人的なメッセージ、イエス様の父ヨセフに天使たちが言った言葉を思い出してください。

マタイ
1:23 「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」この名は、「神は我々と共におられる」という意味である。

イエス様がお生まれになる前に、イエス様について語られた言葉です。イエス様がお生まれになることによって「神は我々と共におられる」ということが実現された。だから、洗礼者ヨハネもイエス様も「訪れる」というメッセージを省かれたのです。
それは今も続いているのでしょうか。聖書はこの時一緒に歩まれたイエス様がこの世を去る時のことを述べています。
そしてイエス様はそのために代わりに聖霊の神様が来られることを述べています。

ヨハネ
16:5 今わたしは、わたしをお遣わしになった方のもとに行こうとしているが、あなたがたはだれも、『どこへ行くのか』と尋ねない。
16:6 むしろ、わたしがこれらのことを話したので、あなたがたの心は悲しみで満たされている。
16:7 しかし、実を言うと、わたしが去って行くのは、あなたがたのためになる。わたしが去って行かなければ、弁護者はあなたがたのところに来ないからである。わたしが行けば、弁護者をあなたがたのところに送る。

代わりにやってくる弁護者とは誰ですか。

ヨハネ
16:13 しかし、その方、すなわち、真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる。

聖霊の神様です。これはイエス様が天に昇られる時に、使徒言行録の時に実現しました。
天に昇られる時に、イエス様はもう一度聖霊の神様について約束されています。
使徒行伝
1:8 あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」

こうイエス様が約束され、使徒2章でのペンテコステにおいて実現しました。だから、神様はともにおられる、はある意味続いているのです。
しかし、どうでしょうか。私たちのために血を流されたイエス様は去られました。確かに救いのために地上では聖霊の神様が働いてくださっている。でも皆さんはイエス様と一緒に歩みたいと思われませんか。弟子たちもそうでした。だから使徒行伝で弟子たちに天使が告げています。みんなイエス様と一緒にいたいからです。

使徒行伝
1:11 言った。「ガリラヤの人たち、なぜ天を見上げて立っているのか。あなたがたから離れて天に上げられたイエスは、天に行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになる。」

という約束が、私たちにもう一度イエス様が「訪れる」という約束が、預言でもって与えられたのです。それは今もまだ生きている言葉なのです。

今年は主の祈りをよく取り上げていますが、今日のメッセージはこの祈りの中で「御国を来たらせたまえ」にあたるものです。み国を来たらせたまえ。皆さんはこの言葉にどのような思いを込めて祈られているでしょうか。
私たちは黙示録21章1節からの見ることのできる光景を思い浮かべます。

黙示録
21:1 わたしはまた、新しい天と新しい地を見た。最初の天と最初の地は去って行き、もはや海もなくなった。
21:2 更にわたしは、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために着飾った花嫁のように用意を整えて、神のもとを離れ、天から下って来るのを見た。

この光景は「み国を来たらせたまえ」でしょうか。もちろんそうです。しかし、このきらびやかな光景に惑わされてはいけないのです。神様は大切なみ言葉を続けているからです。

黙示録
21:3 そのとき、わたしは玉座から語りかける大きな声を聞いた。「見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、
21:4 彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである。」

この中心は何か。「神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり」、そうです。神様と共にいるということ。インマヌエルの実現です。イエス様と共に歩むことの実現なのです。
ではこれは本当に実現するのでしょうか。
今日の瞑想の言葉を見て下さい。主の祈りが与えられた時のことを解説したホワイト夫人の言葉です。

「キリストの弟子たちは、神の栄光のみ国がすぐに来るものと期待していたが、イエスは、この祈りを彼らにお与えになることによって、み国は、その時代に建設されるべきものでないことをお教えになった。…しかし、この祈願は、彼らに対する保証でもあった。彼らは、自分たちの時代にみ国の出現を見ることはできなかったが、イエスが彼らにそのことを祈るようにと言われたことは、神ご自身がお定めになる時に、み国が必ず来るという証拠である。」

私たちが今、この弟子たちに伝えられた主の祈りを祈っている、行っていることは、必ずみ国が来ることの証なのです。それはイエス様にお会いできることの証でもあるのです。

だから、私たちはこの祈りとともになすべきことを行っていかなくてはいけません。イエス様はご自分の再臨の前になすべきことを。

希望への光「祝福の山」主の祈り1168pは続けています。
しかし、その出現の前に、「この御国の福音は、すべての民に対してあかしをするために、全世界に宣べ伝えられるであろう」と、イエスは言われた(マタイ24:14)。み国は、恵みのよきおとずれが全地に伝えられるまで、出現しないのである。それだから、わたしたちが自分を神にささげ、他の人々を神のためにかち取る時、わたしたちはみ国の出現を早めるのである。自己を神の奉仕にささげ、盲人の目を開き、人々を「やみから光へ、悪魔の支配から神のみもとへ帰らせ、また、彼らが罪のゆるしを得、……聖別された人々に加わるため」に、「ここにわたしがおります。わたしをおつかわしください」と言う者だけが、心から「御国がきますように」と祈るのである(使徒行伝26:18、イザヤ6:8)。

クリスマスは人々がイエス様に目を向ける時期です。今年はイベントを行うことはできませんが、親しい方々と一緒に過ごし、イエス様について伝えて下さい。
そのために、この時期、まず皆さんがインマヌエルの神と共に歩んでいただきたいと思います。
落ち着かない年末になると思いますが、心落ち着けて過ごすことができますようにお祈りいたします。

瞑想の言葉 「キリストの弟子たちは、神の栄光のみ国がすぐに来るものと期待していたが、イエスは、この祈りを彼らにお与えになることによって、み国は、その時代に建設されるべきものでないことをお教えになった。…しかし、この祈願は、彼らに対する保証でもあった。彼らは、自分たちの時代にみ国の出現を見ることはできなかったが、イエスが彼らにそのことを祈るようにと言われたことは、神ご自身がお定めになる時に、み国が必ず来るという証拠である。」(希望への光1168p)