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メッセージ2020年10月31日

キリストの体 1コリント12:27

皆さん、おはようございます。
最初に聖句を頂きたいと思います。聖書朗読の箇所1コリント12:27をお読みいたしましょう。(新約316p)

12:27 あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人はその部分です。

このみ言葉は何度も教会で伝えられているみ言葉です。
この手紙が送られたコリントの教会は初代教会の中でも活発な教会の一つでした。しかし活発であったが故に、いくつかのグループに分かれてしまい、そのグループの間で不一致が絶えない教会だったのです。その解決のためにこの手紙が送られたのでした。
パウロは不一致が絶えない教会のために何を伝えたのでしょうか。パウロは、この書の12章から14章の前半にかけて霊の賜物について説明をしています。教会が一致するために必要なものと考えたのでしょう。
この個所「霊の賜物」の中心は皆さんがよくご存じの13章、これは「愛の章」と呼ばれるもので、教会で行われる結婚式などでよく使われる言葉が書かれています。愛は霊の実でもあり、霊の賜物でもあります。有名な言葉がいくつもありますので、ぜひ読んで見て下さい。
ではこの「愛」が紹介される前に何が書かれているか。パウロは様々な「霊の賜物」を紹介しています。この霊の賜物。皆さんは興味がありませんか。
教会によっては、ここに書かれている霊の賜物、例えば異言を語る、いやしを行うと言ったことを非常に大切にしている教会もあると聞いています。それに引き付けられてしまう人もいます。私たちはどんな霊の賜物があり、自分にはどのような霊の賜物が与えられているかに引き付けられます。でも、具体的な霊の賜物の種類や働きを中心に読むことで、パウロが大切だと考えて伝えようとしていることを読み違えてしまうことがあります。
そもそもこの12章でパウロが伝えようとしていることは何でしょうか。それを読んでいきましょう。
まず、1節で
12:1 兄弟たち、霊的な賜物については、次のことはぜひ知っておいてほしい。
と言っています。これから書かれる霊的な賜物が大切なことがわかります。
そして、具体的な賜物については8節から書かれています。ここには読んでいただくと分かりますが、具体的に、ある人には霊によって「知恵の言葉」、ある人には、同じ霊によって「信仰」、「病気を癒す力」、「奇跡を行う力」、「預言をする力」、「霊を見分ける力」、「異言を語る力」「異言を解釈する力」が与えられると言っています。
当時の教会には実際にこのように、いろいろな賜物が与えられている人が集まっていたのでしょう。皆さんにあてはまることはありますか。霊の賜物はこれだけでなく、他の箇所でも紹介されています。(ローマ12:6-8、エフェソ4:11)
でもここで、その紹介されている8節の前に書かれていること、つまり3節から強調されていることは何でしょうか。

一コリ
12:3 ここであなたがたに言っておきたい。神の霊によって語る人は、だれも「イエスは神から見捨てられよ」とは言わないし、また、聖霊によらなければ、だれも「イエスは主である」とは言えないのです。

まず、霊に導かれていれば神様を否定的に語ることはしないし、そして神様を認めることを言うことはない、ということが言われています。皆さんは神様を信じていますか。自分を救い主として、導き手として信じ、認めていますか。それも霊の働きなのです。
その同じ霊の働きがあるのです。4節から。
12:4 賜物にはいろいろありますが、それをお与えになるのは同じ霊です。
12:5 務めにはいろいろありますが、それをお与えになるのは同じ主です。
12:6 働きにはいろいろありますが、すべての場合にすべてのことをなさるのは同じ神です。

このことは、まとめとして11節に続いています。
一コリ
12:11 これらすべてのことは、同じ唯一の“霊”の働きであって、“霊”は望むままに、それを一人一人に分け与えてくださるのです。

そう。信仰の告白をすることだけでなく、いろいろな賜物、勤め、働き、それをお与えになるのは「同じ唯一の霊の働き」なのだ。「同じ霊」「同じ主」であり、「同じ神」であるということ。神様のみがそれを与えることができる。そして、それはなんのためか。

12:7 一人一人に“霊”の働きが現れるのは、全体の益となるためです。

全体の益になるためなのだというのです。
これらすべては「一つの、同じ霊の働き」であり、神様が全体の益となるために与えているのです。「神様の思い」にしたがって一人一人に分け与えられているのです。

だからコリントの人々に素晴らしい力が与えられていて(確かにいろいろな人がいたのでしょう)その働きができるから自分は正しいのだ、偉いのだ、という人がいたかもしれません。
しかしパウロは言うのです。人が人に誇る理由はまったくありません。私たちが、その働きを選んでいるのでもなく、私たちが望んで与えられるものでもないからです。神様ご自身が考え、神様ご自身が与えておられるからです。そして目的は一緒、全体の益となるため。
このように、もし私たちの能力や力に関係なく、霊の賜物が与えられているなら、私たちが与えられているものを比較して、誰が優れているだとか、劣っているだとか考えることはできないのです。
だから私たちは自分の物差しで見てはいけないのです。神様から見た物差し、神様から見た計画、神様から見た時代性、神様から見た地域性、神様はいろいろなことから必要な賜物を与えようとされ、その賜物で私たちを用いようとされているからです。
そして、その目的はただ1つ、全体の益となるため。

この一つの霊から与えられた賜物、務め、働きから組み合わされできたものがあります。
それが、聖書朗読で読んでいただいた27節の言葉です。

一コリ
12:27 あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人はその部分です。

パウロは、霊の賜物、務め、働きを持った人たちの集まりを、人間の体を例にして例えました。
体は一つでも、多くの部分から出来ており、また体のすべての部分の数は多くても、体は一つであるように、「キリストの場合も同様です」と説明しています。
神様を信じる人の集まりからなっている集団、それはエクレシア、教会のことです。
だからパウロは最後にまとめとして、27節では、はっきりと、「あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人はその部分です」と、教会を「キリストの体」と呼んでいるのです。

しかし当時の教会は問題を抱えていました。
一コリ
12:13 つまり、一つの霊によって、わたしたちは、ユダヤ人であろうとギリシア人であろうと、奴隷であろうと自由な身分の者であろうと、皆一つの体となるために洗礼を受け、皆一つの霊をのませてもらったのです。

パウロは、コリントの人々に、一つの体になったことを思い起させます。すべての人は、バプテスマを受けて、教会に属した時に、「一つの霊によって、……一つの体となるために洗礼を受け」た、そして、「皆一つの霊をのませてもらった」といって、教会全員に一つの霊によって祝福が豊かに与えられたことを思い起させようとしました。
なぜなら、この教会は様々な問題を抱えていたからです。ユダヤ人、ギリシャ人。神の民と異邦人、当時の人の壁の象徴的なものです。奴隷、自由な身分のもの。今であれば男も女も、老いも若いも。私たちが区別する壁を持っていた。壁によってできたそれぞれのグループが、それぞれの人が、他の人に対して仲たがいを起こすような思いを抱き、ばらばらになるような問題を抱えていたのです。だから、その後にみ言葉が続くのです。
「足が、『わたしは手ではないから、体の一部ではない』と言ったところで、体の一部でなくなるでしょうか。耳が、  『わたしは目ではないから、体の一部ではない』と言ったところで、体の一部でなくなるでしょうか。」(12章14-16節)
「もし体全体が目だったら、どこで聞きますか。もし全体が耳だったら、どこでにおいをかぎますか。そこで神は、御自分の望みのままに、体に一つ一つの部分を置かれたのです。」(12章17-18節)
こんなことを言って、起こっている問題の本質を悟らせようとするのです。
このことについては、この教会でもこれまで礼拝の中で何人かの先生がメッセージをされています。それを繰り返すことはしません。

しかし、これはコリントの教会がまだ若い教会、伸びつつある教会であったからでしょう。もし、パウロが今の日本の教会を目にしたら、違うことを述べるかもしれません。
今教会が抱えている問題は何でしょうか。
教会内部の権力争いですか。教理の違いによる分裂でしょうか。そうであるならば、このコリント教会へに手紙をもう一度一緒に読む必要があります。

でも、今の時代、日本で起こっている問題は他にもあるかもしれません。
まず社会的には、例えば、世俗化、少子化、人口の減少、高齢化の問題。これは教会の外の問題であるとともに、影響を受ける教会の中の問題でもあります。
特に最近は区切られた世代を相手にしている機関、私たちの中では学校や福祉施設はすでに影響を強く受けています。そのうえで対応を迫られているのです。
世界的に考えると環境問題、格差問題など、それをもっと高い視点で見ると、聖書の中で、マタイ24章の終末のしるし、イエス様の再臨の前に起こる出来事が現実に起こっているのが分かります。私たちはその一つ一つに注目します。そして「もうここでは生きていけない」という世界がやってくることを考えるのです。
世界はSDGs持続可能な開発目標を掲げなくてはいけない社会となりました。
(説明)
惑わす人、戦争、飢饉、地震、多くの人の愛が冷える。
でもその中で、私たちは聖書の福音を宣べ伝えることを使命として集められました。

マタ 24:14 そして、御国のこの福音はあらゆる民への証しとして、全世界に宣べ伝えられる。それから、終わりが来る。」

誰かがやってくれるのではなく、これは私たちがしなくてはいけないこと。だから伝道の方法についても考えます。皆さんに関心を持ってもらえる健康から切り込もうか、音楽プログラムであれば来て下さるだろうか。聖書の真理を直接訴えたらどうか。そんなことを考えていきます。しかし、もう一つ大きな問題を抱えていることに気がつくのです。持続可能かという問題を、教会も突き付けられているのです。

私は北浦三育中学校で6年間働かせていただきましたが、実は大きな反省があります。
教会牧師として、チャプレンとして、中学校で生徒と交わり、聖書を教えて、活躍できるように考えていろいろとプログラムをさせて頂きました。直接かかわる宗教委員にも、将来教会で活躍してほしいという思いで、生徒たちの関心のあるものを中心に行っていたのです。それは間違っていなかったのかもしれません。生徒たちは、神様を受け入れ、奉仕にも喜んで参加してくれました。北浦三育教会だけでなく、他の教会での奉仕を終えて帰ってくる時の生徒たちの喜びを見ていて、ああ、よかったな。そう思えることはたくさんありました。本当に感謝です。
でも、彼らに十分伝えきれなかったことがあるのに気がつくのです。
この奉仕ができるのは、それを支えてくれている教会の存在があるということです。そのことを十分に伝えていなかった。誰かが、この教会を支えなければ、ある時突然倒れるしかないということ。
学校に例えて分かりやすく言えば、学校で生徒が見ることのできる人は、直接見るのは担任などの先生。しかし、学校にはその先生の活動を支えている人もいるということです。その両方で活動が成り立っている。
中学校支える人は、事務の職員の先生、管理を担当している先生。この先生がいなければ活動自体が成り立たない。
北浦で中学生は労作などで管理の先生をよく見ていましたから、その姿にあこがれて、たまにあの先生のようになりたいと言ってくれる生徒がいました。しかし、教会のことについて支える存在について十分伝えることができていなかった、という反省があるのです。

これは教会でも一緒です。持続可能にしていかなくてはいけない。
今はどの教会も、伝道だけでなく教会の活動を支える人をどうするかで悩んでいます。私が牧師になってからいろいろな問題が出てきました。最初は小さな問題でした。
30年近く前、牧師になって教会で最初に出てきたのは、教会の掃除をどうするか。「教会員ではできないので、外部の人にしてもらってもいいですか。」誰もいない、でも会堂の掃除を、未信者にお願いするのはどうだろうか、そういう思いからの相談だったと思います。これは今でもあるでしょう。ある教会ではルンバが頑張っている教会もあります。
ある教会では会計をやる人がいない、その時はまだ複式簿記が入っていない時でしたが、それでも自分たちでできない。計算だけでなく、銀行へ持っていくのも難しい。牧師夫人お願いします。お花係でいける人がいない。子供はいるけど、子供担当がいない。
これまでいろいろな教会でそんなことがありました。

そう、教会に来ればプログラムが準備されていて、それに参加すればいい。ではもう教会は成り立たないのです。それでは、できないのなら、それをやめる決断をすればいいのですが、それもできない。役員さんは前任者がやっているのだから自分で止めるわけにはいかない。そこで無理をしてやろうとする。無理をしてやっていることなので、今度は次の人に引き継げない。
悪循環です。そんなことが積み重なっていくと、教会を支えてくれるために新しい若い人を求めるわけです。そしてバプテスマを受けると、いろいろな仕事に引っ張り出される。疲れて燃え尽きてしまう。悪循環の連鎖です。
そんなことになってくるのです。

パウロ的に言うと、
一コリ
12:21 目が手に向かって「お前は要らない」とは言えず、また、頭が足に向かって「お前たちは要らない」とも言えません。
ではなく、教会の中で「目が手に向かって、お前手なんだからきちんと仕事しろよ。また頭が足に向かって「お前足なんだから、しっかり歩けよ」と言い合っていることになるのです。
ある日突然、もう手やめた、もう足やめた、そんなことが起きかねない。そんなことを言われるなら、私は手にはならない、足にはならない。
自分たちで自分たちの首を絞めてしまう。
そうすると、体は動くことができるのでしょうか。健康かどうか以前の問題です。

これはどうしたら解決できるのでしょうか。だからパウロは手紙で何をしたか。あえて、その問題を明らかにして、手紙で伝えて考えるように言うのです。
私は問題があることを共有せずに、隠しているところに問題を深くしている原因があると考えています。
今、キリストの体、教会が抱えている問題は何なのでしょうか。教団・教区が抱えている問題は何なのでしょうか。具体的に上げることはしません。
それがどんなに大きな問題であったとしても、その問題自体は大きな問題ではないのです。問題は、それを共有することなく、そのままにしていて、明らかになった時には手遅れになっていることが問題なのです。

基本にもどります。このキリストの体は、様々なタラント、霊の賜物を持った人たちの組み合わせによって成り立っています。そのために必要な賜物、タラントは、その必要に応じて神様が与えて下さるのです。弱くても用いられるのです。それを信じますか。
でもその必要が分からなければ祈ることもできない。

「あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人はその部分です」
私たちはキリストの御心を具体的に実現する手足とされています。キリストの体、教会を構成する一員なのです。教会の中で、全体の益となるために、霊の賜物が神様から与えられ、キリストの体を支える働きをすることができるのです。それはもともと私たちが持っているものではないかもしれないのです。だからそれを求めていかなくてはいけないのです。自分に何ができるか、いや、神様は何をされようとしていて、それにどのように参加できるのか。それを神様との間で求めていきましょう。
イエス様の再臨まで、もう少し時間があるようです。その中で神様の働き、ご計画、それにどのように参加できるかを今一度考えていき、人の集まりとしてのエクレシア、教会を元気にしていきましょう。

瞑想の言葉 「初代教会の歴史において、のちに、世界の各地で信者たちの多くのグループによって教会がつくられたとき、秩序と一致した行動とが保たれるように、教会の組織がいっそう完成された。教会員はみな自分の立場を尽くすようにすすめられた。誰でもみな、自分にゆだねられているタラントを賢明に用いなければならなかった。」(希望への光1390p)