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メッセージ2020年10月3日

目で見る マタイ6:22,23

皆さんおはようございます。
9月19日の安息日礼拝のメッセージを皆さんは覚えていらっしゃるでしょうか。「目で語る」という題でマタイによる福音書6章22、23節を中心聖句のメッセージでした。あの時に、大きく2つの説明がなされる、ということを言って、そのうちの一つを説明させていただきました。今日はもう一つのメッセージをさせて頂きます。
最初に聖句を頂きましょう。

マタイによる福音書6章22,23節
◆体のともし火は目
6:22 「体のともし火は目である。目が澄んでいれば、あなたの全身が明るいが、
6:23 濁っていれば、全身が暗い。だから、あなたの中にある光が消えれば、その暗さはどれほどであろう。」

前回、皆さんはこの聖句を読みました。皆さんは、この聖句で何を、どのような場面を想像されるでしょうか。
そこで最初に皆さんに想像していただきたいと思います。
ただ単に想像するというと範囲が広くなります。そこで、最初に鍵となる言葉を「ともし火」にしてみましょう。
ともし火とは何でしょうか。
ともし火とは、暗闇の中に置かれることによって、周囲がその光によって照らされ、暗闇の中では見えなかったものが、見えてくる、その光の源です。
例えば、停電の時暗闇の中、一本のろうそくのともし火があるのとないのとでは全く違います。普段の生活では、あまり役に立たないような一本のろうそくが、暗闇の中では力を発揮するのです。イエス様は体のともし火は目である、と言われました。
そこで想像してみて下さい。この聖句で、光の源、ともし火はどこにあるのでしょうか。
もっと具体的に言うと、ともし火は皆さんの外にあるのか、皆さんの中にあるのか、それとも目が光ってともし火になっているのか。どれでしょうか。
そう、光の源であるともし火はどこにあるのかということです。

23節後半の聖句「あなたの中にある光が消えれば」という聖句から考えれば、私たちの中に光があると考えられます。だから、前回取り上げたメッセージでは、体は器、目は泉の意味を持っている、という点から説明いたしました。
そして目が澄んでいる状態、つまり泉が澄んでいる状態というのは、神様のそばにいる時、そばにいて整えられた時。つまり、神様とつながっている時に、霊の実が私たちの心に実り、光り輝くのだ、ということを説明いたしました。私たちの内に光がともっているようなイメージです。この場合ともし火は私たちの内にあると言えます。
それを写し出すのが目。「目は心の窓」「目は心の鏡」それはその心の状態が目を通して光り輝くイメージを持つことができたのです。
これは間違っていないと思います。

しかし、それだけではイメージできないものがあるのです。それは何か。
「目が澄んでいれば、あなたの全身が明るいが、 濁っていれば、全身が暗い」という言葉です。この言葉はどうでしょうか。内にあるともし火、心が、体が光っていれば、目がどのような状態にあっても全身が明るい、暗いとは関係ないのではないか、と思ってしまうのです。
では、もしそうでないとしたら…、どこに光があるのでしょうか。
そう、もし光が外にあったとしたらどうでしょうか。
私たちの外に光があって、目を通して体が明るくなったり、暗くなったりする。そう読めませんか。
だから、私たちの目が澄んだ、クリアな目であれば私たちは光を受け取ることができ、それによって全身が明るく照らされていくのです。
これはもちろん象徴としての目です。「目は心の窓」神様の光を通す扉を目と表現しているのです。
だから「目が澄んでいれば」、神様の光を妨げるものがなければ「あなたの全身が明るい」し、目が「濁っていれば」遮るものがあれば、光を通すことができずに「全身が暗」くなるのです。
私たちは神様に対して澄んだ目、澄んだ心をもち、体全体を輝かせたいのです。
こう読めば、23節後半の主イエスのお言葉にあるように、「だから、あなたの中にある光が消えれば、その暗さはどれほどであろう」も、私たちが明るい澄んだ目を通して光を取り入れ、その光を映し出すことができれば明るいけれども、しかし目が濁っていて、その光を取り入れることができなければ、光を体に映すことができずに暗くなってしまう、全身が暗くなってしまう。イエス様がおっしゃっていることはこのように読めるのです。
だから、このもう一つの考え方は、私たちの全身を明るく照らす光は、私たちの中からではなく、外から来るのです。その光を通す器官が目、窓であり、受け止める器官が体なのだ、という風に読むこともできるのです。

このイメージは2週間前の、直接的には「心の中に光を持ちなさい、そうすればあなたの全身は明るくなり、目は澄んだものになる」ではありません。これは私たちが、自分の心の中に光を生み出さなければなりません。それは霊の実、神様に結びつくことで生まれてくるもの。だから、それを大切にして自分の心を澄んだ、清い、汚れのない、偽りのないものとし続けなければなりません。そうなって初めて、その心の中の光が、澄んだ心のあり様が目に表れるのです。
しかし自分の心の中に自分で明るい光を灯すことが人間には可能でしょうか。そもそも私たちは、何もない所に、暗闇がおおっている所に、光を創り出すことができる者ではありません。だから霊の実を説明したのです。私たちが、暗闇に閉ざされてしまっている自分の心が光を造り出すことも出来ません。光は、私たちが自分の内に創り出すものではありません。だから、それを直接的に外から与えられるものとイメージするのです。
今年の中秋の名月、皆さん見ましたか。太陽ではない月は、自ら光るのではなく、太陽の光を受けて光るのです。私たちも神様が創って下さった光をいただくことによってこそ、私たちの中に、心に、光が灯るのです。その外からの光を受ける器官が体であり、光が私たちの中に入ってくる窓が目なのです。
だから、大切なのは私たちの目が、光をちゃんと受け止めているか、光をさえぎったり、曇らせたりしていないか、ということになってくるのです。
ここでは単に私たちの目が澄んでいるか濁っているかということだけが問題にされているのでありませんし、
それだけでなく、イエス様が単に私たちがもともと持っている性格、内面の清さや品性や純粋さについても指摘されているのではないと言えるのです。

ではイエス様が問われていることは、何か。
それは私たちが何に目を向けているか、ということです。
本当に光の方を向いて、光を受けようとしているのか、それとも光から目を背け、別のものを見つめてしまっているのか。
これは、目が澄んでいるか濁っているか以前の問題であり、それによって私たちの全身が明るくなったり暗くなったりするのです。

瞑想の言葉
「誘惑に負けるのは、心がぐらついて神への信頼が揺らぐ時にはじまる。わたしたちは、自分を完全に神にささげる道を選ばないならば、暗闇の中にいるのである。少しでも保留するところがあれば、それは、サタンが誘惑によってわたしたちを惑わそうと侵入してくる戸口を開いておくことである。わたしたちの視力をかすませて、信仰の目で神を見ないようにすることができれば、罪への障壁がなくなることを、サタンは知っている。」(希望への光1161p)

そうです。「神様を見ないようにすることができれば」私たちを神様から引き離すことができることをサタンは知っているのです。
そう考えると、このたとえの前に書かれているたとえ「天に富を積みなさい」であなたの心はどこにあるのか、というたとえに結びついて来るのです。
21節でイエス様はまとめとして「あなたの富のあるところに、あなたの心もあるのだ」と語られました。
富とは、私たちが拠り所としているもの。失うまいと必死になっているものです。ずっと見続けているものです。私たち人間は最初、神様を見るように造られていました。しかし今、何を見ているのか。サタンは人間に罪を犯させるために何をしたか、思い出してください。

最初の人アダムとエバの最初に罪を犯した場面を思い出してください。
創世記(4p)
◆蛇の誘惑
3:1 主なる神が造られた野の生き物のうちで、最も賢いのは蛇であった。蛇は女に言った。「園のどの木からも食べてはいけない、などと神は言われたのか。」
3:2 女は蛇に答えた。「わたしたちは園の木の果実を食べてもよいのです。
3:3 でも、園の中央に生えている木の果実だけは、食べてはいけない、触れてもいけない、死んではいけないから、と神様はおっしゃいました。」
3:4 蛇は女に言った。「決して死ぬことはない。
3:5 それを食べると、目が開け、神のように善悪を知るものとなることを神はご存じなのだ。」
3:6 女が見ると、その木はいかにもおいしそうで、目を引き付け、賢くなるように唆していた。女は実を取って食べ、一緒にいた男にも渡したので、彼も食べた。
3:7 二人の目は開け、自分たちが裸であることを知り、二人はいちじくの葉をつづり合わせ、腰を覆うものとした。

ここのキーワードは「目」という言葉です。アダムとエバは目が見えていなかったのでしょうか。そうではありません。目は見えていたのです。しかし、その目はそれまで神様を見ていた。神様の言葉を見ていたのです。だから罪を犯すことはありませんでした。しかし、「目が開け」「目を引き付け」その目がいったん神様から離れ、神様以外のものを見るようになった時、なりたい自分、裸の自分を見るようになった時、これまでとは違う世界へと、罪の世界へと入ることになったのです。
「信仰の目で神様を見ないようにすることができれば」サタンは戦いに勝利することができることを知っていたのです。

このことをイエス様が教えようとされていたとすれば、イエスは21節ですでに「あなたの目はどこを向いているか」と問われ、そしてそして22節で、再び、目は体のともし火として、光を受けるべきものだ、だからその目はまっすぐに光を見つめていなければならない、目を通して与えられる光であなたの全身が照らされるようにしなさい、と教えられているのです。

もしそうなら、この「光の方を向く」とはどうことでしょうか。ここでの私たちが向くべき「光」とは一体何のことでしょうか。
皆さんは思い出すはずです。ヨハネによる福音書第1章9節では
「その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである。」
また、ヨハネ8章12節では
「イエスは再び言われた。「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ。」という言葉を思い出さないでしょうか。

聖書は、イエス・キリストこそが私たちを照らす光であると言っています。そして、神ご自身が光の中におられるのです。光がなければ、ものを見ることが出来ません。イエス様はあなたはものを見ようとするのに、どこに目を、何にあなたの心を向けているかということを問うておられるのです。
私たちの心が光であるイエス様の方を向いているのか。もしそうなら、そのキリストの光が心の目を通して差し込んできて、私たちの内側を明るく照らし光り輝くのに。
けれども光であるイエス様のほうを向いていないならば、あなたにその光は差し込まなくなって、内側が暗くなっていくのです。
なぜそのことに気が付かないのか。光があってこそ、私たちは歩むことができ、光があってこそ、何をしたらよいかが分かるのに。

私たちは自分の心の状態に関心があります。みんな思うのです。私たち自身の心は澄んでいないかもしれない。なんでなんだ。
しかしそれは一番大切な問題ではありません。一番大切なのは、この罪にまみれた私たちであっても、光であるお方の方を向いているかどうかです。あなたはどこを向いているかということが一番大切なのです。
そもそも罪、という言葉はギリシャ語でハマルティア、「的外れ」という意味です。私たちがこの「的外れ」でなくなれば、徐々にきれいになって行くのです。なぜなら、目は単に光を通す器官でなく、泉でもあるからです。きちんと光を通すことができれば、いきなりではないにしても徐々にきれいになって行くことができる。
だから光の方を向いていれば、必ずそのキリストの光が射し込むはずです。この光であるお方、そしてイエス様を遣わして下さった神様の恵みを見ていくのです。この恵みをまっすぐに見つめる時、私たちの人生が、生活が、明るく照らされるのです。
私たちは、自分で自分の中に光を創り出すことはできない。光は、神様が創って下さったものだからです。それを私たちは心の窓を通して神様からいただくのです。私たちの全身が明るいか暗いか、私たちの中にある光が灯っているか消えてしまうかは、私たちが、神様が与えて下さる光を見ているか、その光を受けているかどうかにかかっているのです。光を見る時私たちは変えられていくのです。
だから、最初に考えなくてはいけないことは、あなたの目がどこを向いているかです。光の源である神様の方に向けられているかどうかなのです。
先週メッセージに出てきていた2人の弟子、ユダとペトロの違いはここにありました。二人とも罪を犯しています。その後に違いがあるのです。
イエス様のまなざしに背を向けたユダ。
イエス様のまなざしに気が付いてそちらを見たペトロ。

私たちの全身が明るいか暗いか、私たちの中にある光が灯っているか消えてしまうかは、私たちの心の目が、神様が与えて下さる光を受けているかどうかにかかっています。
それは、私たちの目がどこを向いているかによって決まります。
光の源である神様の方に向けられ、独り子イエス・キリストを遣わして下さったその恵みのみ業を見ているのか。それとも自分の富、つまり私たちの様々な意味での財産、自分が持っているものばかりを見つめていて、神様には背を向けてしまっているのか。
主の祈りもそうです。
マタ 6:9 だから、こう祈りなさい。『天におられるわたしたちの父よ、

そうです。最初に必ず「天にまします我らの父よ」で始まるのです。私たちが見ているもの、そこに私たちの心があるからです。
祈りは、皆さんがどこを見ているか、それを確認できる素晴らしい方法なのです。

新しい一週間、皆さんの体が輝くように、私たちの目が本当に体のともし火の役目を果たすことができるように、光の源である神様の方に向けられることをお祈りいたします。