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メッセージ2019年2月16日

強くなりなさい エフェソ6:10

 

最初にみ言葉をいただきましょう。

聖書朗読の箇所、エフェソ6:10をお開き頂きたいと思います。

エフェソ6:10

最後に言う。主に依り頼み、その偉大な力によって強くなりなさい。

 

さて、最近ニュースでいろいろなことが取り上げられるのを耳にしています。

私が注目したこと、心に残っているニュースとして、

①小学4年生が家族の中で、死亡したニュース

②自動車のあおり運転のニュース

③水泳のオリンピック候補選手が白血病になったニュース

どれも、今の世の中にあって「どうしてなんだろう」という思いに駆られるものです。巻き込まれて苦しんでいる人にどんな言葉をかけることができるだろうか。なにかやりきれない思いになります。その中で一つ、心を打つメッセージがありました。

競泳女子選手のコメントです。

この方は高校3年生、昨年から水泳女子の多くの種目で素晴らしい成績を残して、おそらく最も期待されていた選手の一人です。しかし、「ご報告です」と題したツイートを投稿。

「この度、体調不良としてオーストラリアから緊急帰国し検査を受けた結果、『白血病』という診断が出されました。私自身、未だに信じられず、混乱している状況です。ですが、しっかり治療すれば完治する病気でもあります」

と、白血病と診断されたことを報告したのです。衝撃が走りました。

何も関係のない私でもびっくりしました。どうなるかな。気にかけていると、いろいろな人が助けてあげたいという思いで、いろいろな励ましのメッセージを。

そんな中、先日2回目のメッセージが出されました。

 

「昨日から沢山のメッセージありがとうございます。ニュースでも流れる自分の姿に、まだ少し不思議な気持ちにもなります。そんな中でみなさんにどうしてもお伝えしたく、更新させていただきます。(中略)私は、神様は乗り越えられない試練は与えられない、自分に乗り越えられない壁はないと思っています。

もちろん、私にとって競泳人生は大切なものです。ですが今は、完治を目指し、焦らず、周りの方々に支えていただきながら戦っていきたいと思います。しばらくの間、皆様に元気な姿をお見せすることができないかもしれません。そしてしばらくの間、私も皆様と同じく応援側に回ります。改めて皆様のメッセージとご協力に心から感謝します。必ず戻ってきます。」

 

すごいメッセージだな、と思いました。

私たちが、その人たちに贈る言葉があるだろうか。そう思っていましたが、逆に励まされたのです。

 

私は、神様は乗り越えられない試練は与えられない、自分に乗り越えられない壁はないと思っています。この言葉は、聖書の言葉です。

一コリント 10:13 あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます。

 

そこで今日は、今、苦しみの中にある人に、パウロの言葉を送りたいと思います。

パウロは、エフェソの信徒への手紙の中で実に様々なことを取り上げてきました。

そして、その手紙の終わりにおいて、最後にもう一度大切なことを伝えようとするのです。

読者たちに改めて言っています。それが最初のみ言葉です。

「最後に言う。主に依り頼み、その偉大な力によって強くなりなさい」(10節)

「強くなりなさい」と命じているのです。

 

今、困難の中にいる人に、簡単にこの言葉を投げかけることはできません。慎重にしないといけない言葉です。でも、心で祈りながら思うのです。「強くなりなさい。」しかし、これは何も、今困難の中にいる人だけに当てられた言葉ではありません。私たちにも言われている言葉です。皆さんは変わりたいと思うことはありませんか。今の自分を考えて、これではいけないと思い、そのために変わりたいと思うことはないでしょうか。誰でもそのように思います。でも問題はどのように変わるのかということです。弱くなりたい、と思う人はいないでしょう。むしろ強くなりたい。そう思うのです。では強くなるためにはどのようにすればよいのでしょうか。強くなりたい。そのために多くの人は鍛錬を積んで、自分を鍛えて変わろうとすることをする人はたくさんいます。

以前いた中学校、中学生は本当に正直でした。いろいろ悩んで、変わりたくて、変わりたくて、どうするか。一番手っ取り早いことを考えるのです。何か。筋トレをする生徒がいます。筋トレは裏切らない。そう思っているからです。ある牧師が、北浦三育に祈祷週の講師としてやってきて、中学時代の話をしていきました。どうしてもいやな先輩がいて、その先輩に負けないために、筋トレをしたのだ、体を鍛えた。そうすると、自信が出て、変わることができた。そう言っていました。間違ってはいません。中学の男子生徒の中で目の色が変わった生徒が何人もいました。本当に正直です。体を鍛えていったのです。

 

これは大人も変わりません。同じように強くなりたいという思いで、手っ取り早く、自己啓発のためにいろいろなことをしたり、資格を取る勉強をしたり、いろいろする人がいます。

そう、自分の価値を高めることで変わろうとするのです。間違ってはいません。

 

しかし、パウロが「強くなりなさい」と勧めたのは、この手紙の読者たちが、このように私たちが考えるような、私たちが普通行うような自分を高めることで強くなることを勧めてはいないのです。

最初に上げたニュースの中でこのように強くなることで解決するものはどれほどあるでしょうか。家族の中で、苦しみながら亡くなって行った小学生。車であおられながら、恐怖の中逃げなくてはいけなかった人たち。この言葉は逆にあおる人にも当てはまると思います。

そして、白血病になった競泳の選手の人。どれも、それでは解決できない問題に直面しているのです。

ではパウロは強くなるために何をすればいいと言っているのでしょうか。

パウロは、弱さを持った人を強くして下さる方に目を向けるようにと勧めているのです。

だから彼は「主に依り頼み、その偉大な力によって」と言う言葉を最初に語っているのです。

 

誰かに「強くなりなさい」と言ったり、逆に誰かから「強くなりなさい」と言われる場合、多くは、自立するためです。家族や、身近な友達の力に頼る状態から抜け出して「これからは自分の力でしっかり立ちなさい」と言う自立をうながすために言うのです。誰かを守りたいときもそうです。ところがパウロがここで「強くなりなさい」と勧める時、これとは全く反対のことを言っているのです。自分一人の力でがんばろうとするのではなく、むしろ「もっともっと主に頼りなさい」とパウロは教えるのです。なぜパウロはそのことを強調するのか。その生き方に、神様は必要なくなるからです。そう、自分自身で強くなることで解決しようとしているからです。もし、それをするならば、私たちは神様を信じているにもかかわらず、神様に関係なく生きることになるからです。私たちは、頭では自分がどのような存在か、本当は弱い存在であることが分かっているはずなのに、自分でどうにかしようとする。そんな生き方しかできなくなるからです。そして、私たちは神様の助けを求めることを忘れてしまうのです。そしてどうなるか。私たちはいつも自分一人の力でも人生はなんとかなると思うようになるからです。いいことではないですか。自立して生きること。でもパウロはそれはいけないというのです。どうしてなのでしょうか。それは私たちが、今直面している本当の戦いの相手を知らないからです。そう、私たちの戦いの相手を見誤っているからです。戦いの相手の力を見くびっているからです。だから、自分でどうにかなる、神に頼るほどではないと勘違いしてしまっているのです。だからパウロはここで私たちの信仰生活における戦いの相手が誰であるかを読者たちにもう一度、思い起こさせようとしています。

御言葉に耳を傾けましょう。

エフェソ6:11,12

「悪魔の策略に対抗して立つことができるように、神の武具を身に着けなさい。わたしたちの戦いは、血肉を相手にするものではなく、支配と権威、暗闇の世界の支配者、天にいる悪の諸霊を相手にするものなのです」

 

パウロは信仰者が戦うべき相手を「悪魔」、あるいは「暗闇の世界の支配者」と呼んでいます。「悪魔」と言うと私たちはホラー映画が描くような現実離れしたイメージを抱きがちです。しかし、聖書の語る「悪魔」はきわめて現実的な力を持ったものです。その「悪魔」の働きの具体的な姿はなかなか説明ができませんが、その目的ははっきりしています。「悪魔」は私たちを神から遠ざけ、あるいは敵対させようとするために働くのです。そのためにまず悪魔は人を苦しめます。その苦しみによって、その人の神への信頼を失わせようとするのです。苦難を与える。これが悪魔の働きの特徴です。

でも、そんな困難、自分の力で、忍耐で乗り切れる。そう思っている方もいるでしょう。素晴らしい思いです。でもここにも大きな落とし穴があるのです。悪魔は、そんな人には、少しの力を与えて「私に神の助けなど必要ない」と感じるような状況を与えるのです。そのことによって、その人を神から引き離すこともできるのです。そう、私たちに自信を与えて、神様から引き離す。これも悪魔の働きです。

私たちを神から引き離そうとする出来事の背後にはこの暗闇の世界の支配者である「悪魔」が存在しています。だからこそ、パウロはその敵と戦うためには「神の力」が必要であることを力説しているのです。

そこで神に信頼しながら、この悪魔との戦いに向かう信仰者に対して、パウロは当時の兵士が身につけた装備を例にあげて、信仰者が装備すべき「武具」が何であるかを教えてくれているのです。

エフェソ6:14-17

「立って、真理を帯として腰に締め、正義を胸当てとして着け、平和の福音を告げる準備を履物としなさい。なおその上に、信仰を盾として取りなさい。それによって、悪い者の放つ火の矢をことごとく消すことができるのです。また、救いを兜としてかぶり、霊の剣、すなわち神の言葉を取りなさい」

「真理」、「正義」、「平和の福音」、「信仰」、「救い」。いずれも私たち信仰者にとって大切なものです。そしてそのすべてを、神様ご自分の持っているものを私たちに与えようとしています。私たちが悪魔との戦いに勝利するためにはいつもこれらのものを、神からいただく必要があるのです。その一つ一つを今日詳しく見ていくわけにはいけません。しかし、そのうちの一つ、特にパウロはここで「霊の剣、すなわち神の言葉を取りなさい」と言っています。

「帯」、「胸当」、「履物」、「盾」、「兜」はいずれも敵の攻撃をかわして、自分を守るための防衛の道具と言えます。しかし、最後に登場する「霊の剣」は自分を守るための物であるだけでなく、相手を倒すためにも使われる道具であるからです。パウロはその道具を「神のみ言葉」と言っていることに注目すべきです。何故なら、最初、人が罪を犯したとき、誘惑にあったエバが、悪魔の誘惑、攻撃を前にして足りなかったものは何か。この神のみ言葉を忘れてしまったことから始まっているからです。創世記3章に登場する蛇はエバに神様の言葉を変えて質問しました。そして「などと神は言われたのか」と疑問を投げかけたのです。しかも、このときのエバの答えはどう答えればよかったのか。シンプルに「こう神様はいわれました」と答えればよかったはずです。彼女はその神の言葉を勝手に換えてしまって、神様の言葉に疑問を抱くという悪魔の策略に入り込んでしまったのです。つまり、エバはここで神のみ言葉である霊の剣を使うことができずに、悪魔に敗北し、その策略から逃れることができなくなってしまったのです。

しかし、私たちの主イエスは、このエバとは全く対照的な戦い方を私たちに示してくださいました。そのイエスの戦い方は福音書の語る「荒れ野の誘惑」の中に示されています(マタイ4章1~11節、ルカ4章1~13節)。この荒れの誘惑も細かく解説することはここではできません。しかしここでのイエスの戦いのポイントは悪魔の働きかけに対して、「~と書いてある」という言葉で立ち向かっていることです。「~と書いてある」神のみ言葉を武器にして立ち向かい、その戦いに勝利することができるのです。

私たちはこのように神のみ言葉こそが私たちを悪魔やこの世の暗闇の世界の支配者との戦いに勝利させる強力な武器「霊の剣」であることを実践したいのです。

だから霊の戦いは実はシンプルなものなのかもしれません

「などと神は言われたのか」「~と書いてある。~と神は言われた」この戦いなのです。

だから、パウロは、私たちの戦いの相手が「悪魔」であると言いながら、特別な悪魔払いの方法を学びなさいと私たちに教えているのではありません。私たちにとって大切なのは神の武具を身にまとうことです。そして、その戦いに決着をつけるのは、「~と書いてある」という必殺技なのです。自分の力ではありません。私たちがみ言葉に頼っていくとき、神のみ言葉に耳を傾けていくならば、イエスは必ず私たちを最後の勝利へと導いてくださるのです。

 

そして、パウロは悪魔との戦いに勝利する秘訣として最後に「祈り」の大切さを語っています。エフェソ6:18「どのような時にも、”霊”に助けられて祈り、願い求め、すべての聖なる者たちのために、絶えず目を覚まして根気よく祈り続けなさい」

ときどき、ご年配の方から「自分には祈ることしかできません」と言う言葉を聞きます。私はこれを聞くと本当に感謝の思いでいっぱいになります。でも、これは、自分には力がない、これしかできない。そんな思いからおっしゃっているような気がします。「自分には何もできない」と言う言い訳に、祈るしかできないという言葉になっているとすれば、・・・。でもどうでしょう。聖書は祈りこそ私たちの問題を解決する最善も手段であると言っていませんか。自分の持っている力で勝利できるのならば、その人は他に助けを求める必要はありません。祈る必要はないのです。私たちが、神様に頼る象徴が、この祈りなのです。

パウロは言います。「どのような時にも、”霊”に助けられて祈り」なさい。

困難の中、神様への歩みをしてきたパウロは自分の体験から私たちに霊の助けがなければ私たちは祈ることさえできない。

そこで、パウロはローマの信徒への手紙の中でこの祈りにおける霊の助けについて次のように語っています。

ローマ8:26(新286p)

「同様に、”霊”も弱いわたしたちを助けてくださいます。わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、”霊”自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです」

私もこの言葉にこれまで、どれだけ励まされたか。皆さんも祈ることができないときに是非思い出してほしい御言葉です。「言葉に表せないうめき」と言う表現がここでは使われています。これは誰のうめきですか。元をただすと、私たちのうめきです。本当に苦しいとき、私たちは言葉を失ってしまいます。「ただ、うめくしかない」しかしパウロはここで「”霊”自らがうめく」と語っています。そうです。聖霊が同じように感じて下さっているのです。

問題に出会い、神に絶望して、神から離れていく人がたくさんいます。しかし、その時こそ聖霊が最もあなたの身近にいる時です。あなたが苦しんでいすそのままに、同じうめきでもって、あなたが祈ることすらできない時に、神様へとりなして下さっているのです。悪魔が、サタンが最も力を用いて、あなたを神様から引き離そうとするとき、神様も、特に聖霊の神様はあなたに最も近くいて下さっている。私たちは、そのような神様の姿をしっかりとイメージしていきましょう。

エフェソ6:10 最後に言う。主に依り頼み、その偉大な力によって強くなりなさい。

もう一度言います。

皆さん。主により頼み、その偉大な力によって強くなりなさい。主により頼み、主により頼み、主により頼み、強くなっていきましょう。

私たちも神様により頼むことで変わっていきましょう。

神様の豊かな導きをお祈りいたします。