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メッセージ2019年1月19日

祝いの安息日は 使徒言行録2:1,2

 

皆さん、おはようございます。

教会では長老会を中心にして、「10日間の特別祈祷」と題してプログラムを行ってきました。

毎日、「神様とのより深い経験」をするために、時間を取り、神様との祈りの時間を持ってきたのです。10日間の祈りを経験した人にとって今日は祝いの安息日です。

これまで教会では777の祈り、2,3,4の祈りのアピールを行ってきましたが、この10日間の祈りも実はもうずっと回数を重ねているプログラムです。

小学校では2月25日から5日間祈祷週を持ちますが、教会でも、春、秋と8日間の祈祷週を持ちます。

でも、この特別な期間は1週間ではなく10日間。なぜ10日間なのでしょうか。

これには理由があります。

6年生はちょうどこのところを授業でやっていますが、皆さん、イエス様が復活されてから天に昇られるまで何日あったか、覚えていますか。

40日です。

その後、弟子たちは何をしたのか。実はイエス様の約束を待ち望んでいたのです。

どんな約束だったか。

 

使徒言行録1:8(新213p)

1:8 あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」

 

聖霊がくだり、証人となる、という約束です。その聖霊がくだるという約束が果たされたのはいつだったか。これが今日の聖書朗読の箇所からの言葉です。

使徒言行録

2:1 五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、

2:2 突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。

 

この時です。この時に何が起こったのでしょうか。聖句はこの時のことを書いています。

2:3 そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。

2:4 すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。

 

そうです。聖霊が炎のような、舌のようなものが現れたのです。それが一人一人に降ってきたのです。

これまでなかったことが起こったのです。

ではそれはいつですか。1節にあります。そう五旬祭の日です。この時にこの出来事が起きたのです。

 

ではこの五旬祭はどんな日だったのでしょうか。

それには、少し前に行われた祭りから見ていかなくてはいけません。

その前にしていた祭り、実はイエス様が十字架につけられた時のお祭りです。

そう過越しの祭でした。

五旬祭はその50日後に行われていたお祭りです。

実はこの50日間は、聖書の舞台であったパレスチナ地方の農業にとっては、春の収穫をお祝いする期間です。そしてその50日の後に、イスラエルの人々は大きな祭りをしていたのです。

ではなぜ、過越しの祭りの50日後にお祭りをしていたのか。この「50日後」に意味があります。

過越しの祭りの起源は過越しの時、つまりイスラエルの民が奴隷の状態にあって、神様の導きによってモーセに導かれてエジプトを出る時の過越しの出来事に由来しています。

神様はイスラエルの人たちがエジプトから出ることができるために、エジプトに様々な災いを起こされました。このことで王様のかたくなな心を崩されようとしたのです。そして最後の災い、エジプト中の長子、つまり最初に生まれた男の子が死んでしまうという災いを起こされたのです。それをイスラエルの民たちは、神様の指示にしたがって鴨居に血を塗ったことにより免れた、という出来事に由来しています。

このイスラエルの人たちが免れた災いにより、イスラエルの民たちはエジプトを出ることができたのです。災いを受けずに済んだ、過ぎ越したことを記念したのが過ぎ越しの祭でした。

問題はその出エジプトの後、50日後にあるものがイスラエルの民たちに神様から与えられました。何が与えられたか。

イスラエルの民たちに、シナイ山で与えられたものがあったのです。

何ですか。そう、十戒です。この時、神様から大切な律法が与えられたのです。

イスラエルの民たちは、このことを記念する日として五旬祭という祭りを行っていたのです。

それはずっと守られていまいました。

 

だから、イエス様が十字架でなくなった過越しの祭りの後にも、同じようにこの五旬祭が行われていたのです。そしてまさにこの時、先ほどお読みした素晴らしい出来事が起きたのです。

 

問題は10日間の祈りの起源です。

イエス様は40日地上におられました。そして天に昇られたのです。天に昇られてから、この五旬祭までの期間は何日間でしょうか。

50日引く40日、そう10日間です。

この10日間の間、イエス様が天に昇られるのを見た弟子たちは何をしていたか。

 

使 1:8 あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」

 

そうヨエル書に預言されているとおり、聖霊の力強い注ぎをエルサレムで待っていたのです。この約束を受けるために、

使

2:1 五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、

 

そうです、みんなが一緒になって一つとなる、そうお祈りをしていたのです。

キリストのご命令を受けた弟子たちは、神様の指示に従い、10日間、エルサレムにある「二階の広間」で、彼らは祈り、罪を悔い改め、信仰のなさを告白して、心を謙虚にして、聖霊の働きを求めて、自らの人生を改めてささげていたのです。

 

「キリストの昇天後、弟子たちは神に心から嘆願をささげるために一つの場所に集まっていました。心を探り、自己を吟味する10日の後に、清められ、ささげられた魂の宮に、聖霊がお入りになる道が備えられました。」(Evangelism、698p)

エレン・ホワイトはこの時のことをこう語っています。

 

だから、ある人たちは、この五旬祭を「キリスト教会の誕生日」と呼んでいるそうです。

 

さて、皆さん、日本にクリスチャンはどのくらいいるでしょうか。日本の人口にクリスチャンが占める割合はもう1%とは言われていません。

0,4~0.8%だと言われています。

その中で、私たちの教会、アドベンチストにおいては、わずか00 1%という数字です。

でも、私たちは大きな使命が与えられています。

これは私たちの教会に限らず、全ての教会の存在意義でもあります。

マタイによる福音書であれば、

28:18 イエスは、近寄って来て言われた。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。

28:19 だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、

28:20 あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」

 

マルコによる福音書であれば16:15、「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい」

 

この言葉がイエス様から与えられているのです。そうです。大宣教命令です。でもどうですか。

でも、実際には厳しい、難しい命令です。簡単に、はいそうです、とは言えないものです。

私たちはこのことを認めないといけません。

何故か。あまりに大きな命令だからです。でも、それは教会の誕生の時も変わりません。当時は私たち以上に大きな壁が立ちふさがっていたのです。

 

だから、私たちは同じように大きな壁にぶつかっていた初代教会、イエス様の弟子たちの姿に倣いたいと思い、祈るのです。

 

現在の教会は、まさにゴリアトを前にしたダビデのようです。誰もができないと思っていたことに立ち向かおうとしている姿です。

小学生は大好きではないですか。巨大な兵士ゴリアトを倒したダビデ。大人の皆さんは、あのダビデ像を思い出してほしいと思います。戦争の経験もない、人と戦ったこともないダビデは、多くの大人、兵士がしり込みする中、3メートルにも及ぶ大きな敵ゴリアトに戦いを挑んだのです。

誰もが相手にならないと思っていた中、ダビデはゴリアトを倒すことができました。

なぜ、ダビデはゴリアトを倒せたのでしょうか。

あの時、ダビデはゴリアトを見ていませんでした。ゴリアトを恐れませんでした。ダビデにあったのは神様への思いだけです。ダビデは自分の持つ信仰をもって立ち向かい巨人を打ち倒しました。

ではなぜダビデは恐れなかったのでしょうか。その勝因は何だったでしょうか。勝利の秘訣はどこにあったのでしょうか。

 

実はダビデが勝つことのできたもの、これまでも説教の中でいくつものことを指摘してきました。杖、石、石投げ紐、自分の普段からの格好、神様への思い。

それは素晴らしい力を発揮しました。でも、私たちがこの戦いの場面で見たものは、戦いが始まってからのことです。ダビデが戦った時の光景と、そしてその直前の準備のことです。

 

でも、ダビデが勝利できたのはそれだけではありません。

実は皆さんにまだ指摘していないことが一つあります。

実はダビデが聖書に登場した、その時に一つの言葉が書かれているのです。

ダビデが聖書に登場するのはサムエル記上16章が最初です。ここにヒントが隠されています。

サムエル記上16章(旧453p)です。

ここでダビデは他の人の持っていないものを持つことになりました。他の人がされていないことをされているのです。何でしょうか。

そう最後の士師、そして最初の預言者であるサムエルから特別な油を注がれて特別な召しを受けているのです。

それは神様の働きを受ける準備、王となる準備でいた。

そのために特別なことが起こっているのです。サムエル記上の16章を見て下さい。

 

サムエル記上

16:13 サムエルは油の入った角を取り出し、兄弟たちの中で彼に油を注いだ。その日以来、主の霊が激しくダビデに降るようになった。サムエルは立ってラマに帰った。

 

なんと言っているか。

その時に、油を注がれ、そして「主の霊が激しくダビデに降るようになった」(サムエル記上16:13)のです。油を注ぐことによって、聖霊が降って行くのです。油は聖書の中では聖霊を象徴するものです。

今でも教会でも油を注ぐことがあります。病気の人に対してお祈りをする時です。

先ほど行った執事の按手の祈りでは、実際の油を注ぐことはしません。聖霊を注ぐからです。

 

さて、ここで注目したいことは、ダビデがゴリアトを倒したのと、油が注がれたのはどちらが先に起こった出来事かということです。

ゴリアトを倒したから油を注いだり、聖霊が注がれたのでしょうか。それとも油が注がれ、聖霊が激しく降るようになっていたからゴリアトを倒すことができたのかです。

 

そうです。ゴリアトとの対決は、サムエル記上17章での出来事です。つまり、ゴリアトを倒す前にダビデは油注ぎを受けていたのです! 少年ダビデがなぜ不可能だと思われるあの巨人ゴリアトを倒すことができたのか?それは聖霊の油が注がれていたからです。

 

聖書の時間で5年生は士師記を取り上げましたが、そこにも同じことを経験した人がいました。サムエルの前に取り上げたサムソンです。

サムソンにも主の霊が激しく臨んだという記録があります。そしてその力によって彼は多くの偉大なことを成し遂げました。

しかし、サムソンが間違いを犯し続けて、聖霊が彼を去ったあとはどうなったでしょうか?

簡単に敵につかまり、打ち負かされてしまったのです。

でも悔い改めて、髪の毛が伸びた時、再び聖霊がサムソンに臨んで、力を発揮することができるようになりました。

 

このように、聖書を読んでわかることは、聖霊が臨むことによって神の民は力を受けるということです。

 

このような聖霊は誰に注がれるのでしょうか。特別なことなのでしょうか。

よく使徒言行録を学んだあとに、中学生から質問を受けていました。

バプテスマのヨハネは水でバプテスマを授けていた。イエス様は火のバプテスマ、聖霊のバプテスマを授ける。私たちはいつ、この聖霊のバプテスマ、火のバプテスマを受けることができるのでしょうか。

この質問は大切な質問です。私たちは聖霊をいつ受けるのでしょうか。

 

実は、イエス様を救い主として受け入れたクリスチャンには、すべて聖霊が与えられています。

一コリント

12:3 ここであなたがたに言っておきたい。神の霊によって語る人は、だれも「イエスは神から見捨てられよ」とは言わないし、また、聖霊によらなければ、だれも「イエスは主である」とは言えないのです。

 

そうです。聖霊によらなければ、イエス様を救い主として受け入れることはできないからです。ここにいるクリスチャンは誰もが聖霊の満たしを受けたのです。でも、ここで注意しなくてはいけません。

 

私は中学校でチャプレンをしている時に100人以上の子供たちのバプテスマにかかわってきました。50人以上の子供たちに実際にバプテスマを授けることができました。

その子供たちがバプテスマを受けた後に異口同音に言ったことは「さっぱりした」という言葉です。すがすがしい気分になった。これが、バプテスマの時に水に入ったからか、聖霊のバプテスマを受けたからかは分かりません。

でもその後が問題なのです。

そのままバプテスマ前と同じ生活を続けていると、前のように戻って行くと、彼らは言います。

そうです。

そこでとどまってしまっては、神様のみ旨を力強く行うことはできないのです。

何をする必要があるか。

イエス様に出会うだけでは十分ではないのです。

聖霊の油がさらに注がれることを願い、祈っていく必要があるのです。

そして、聖霊が注がれたものとして歩みを始めていく必要があるのです。

 

聖書の中の弟子たちを見ていきましょう。

弟子たちはどうだったでしょうか?

五旬祭(ペンテコステ)の出来事が起こった日まで、彼らが大きなみ業を行ったという記録はありません。

十字架の出来事のあと、彼らは失望していました。その時彼らがしたことは、ユダヤ人を恐れて、部屋に閉じこもっていたことだけでした。

復活のイエス様に出会ってからはどうでしょうか。イエス様に出会っても、彼らは出ていくことはできませんでした。その時、自分たちには聖霊の油注ぎが必要なのだと気づいたのです。

そして、彼らが祈り続けた時、そう10日間の祈りの時、あのペンテコステの日に、聖霊が求める一人ひとりに注がれました。

初めて彼らは出発することができたのです。

でも、それは決してゴールではないのです。

そこから始まったのです。

その結果、福音が全世界に広まっていったのです。

 

初代教会が経験した10日間の祈りへ進みましょう。

私たちは聖霊の油注ぎがなくてもクリスチャンとして歩むことはできます。ラオデキアの教会のように熱くもなく、冷たくもない。

しかし、聖霊の力なくして、今の日本の中で、家族や職場や地域の人たちに影響を与えていくような力ある効果的な働きはできません。

私たちにも使徒たちのように聖霊の油注ぎが必要なのです。

 

私たちは聖書と証の書を通して、ペンテコステの日に起こったことが、終わりの時代に、それももっと大きな規模で起こることを知っています。その時に弟子たちが信仰によって行ったことが、私たちのモデルとなるのです。

今回10日間の祈りを経験した人は歩み始めて下さい。参加できなかった人も聖霊の注ぎを求めて下さい。

私たちも特別に、10日間の祈りの期間を聖別し、聖霊を祈り求めたいと思います。

この終わりの時代に、約束の雨、後の雨は必ず降り注ぐはずです。

聖霊の神様来てください。

この祈りを今神様は求めておられます。そして一緒に大胆に福音を宣べ伝えていきたいと思います。