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メッセージ2018年12月1日

待つ時、待つ民 ハバクク2:1-4

 

皆さん、おはようございます。

今年ももう12月になりました。早いですね。

教会ではもうクリスマスの行事を行う時期が来ました。この教会は少し早くプログラムが始まります。今日の午後はキャロリング、明日は小学校のクリスマス会です。

小学生は明日のために一生懸命に練習をしてきました。学校は少し早いクリスマス会になります。確かに12月24,25日から考えれば、ちょっと早いクリスマスです。でも仕方ありません。大人の都合です。でもみんなでクリスマスをお祝いすることができます。イエス様のことを喜ぶことができます。本当に感謝です。

さて、教会の暦、特別なキリスト教の教会のカレンダーを持っている教会、多くの日曜教会では明日から待降節(たいこう)に入ります。クリスマスではないですが、クリスマスを、キリストを待ち望む時を持つのです。約4週間の間、ひたすら救い主を待ち望む、こういう期間を過ごします。

私たちはこの教会暦をもっていませんが、この期間に私たちは学ぶべきことがたくさんあるのではないかと思っています。

なぜなら、待降節は英語でアドベント。私たちはアドベンチスト。待ち望む民だからです。

そこで、今日与えられたみ言葉は旧約聖書のハバクク書です。

最初にみ言葉をいただきましょう。

 

ハバクク書2章1-4節 (旧1465p)

2:1 わたしは歩哨の部署につき/砦の上に立って見張り/神がわたしに何を語り/わたしの訴えに何と答えられるかを見よう。

2:2 主はわたしに答えて、言われた。「幻を書き記せ。走りながらでも読めるように/板の上にはっきりと記せ。

2:3 定められた時のために/もうひとつの幻があるからだ。それは終わりの時に向かって急ぐ。人を欺くことはない。たとえ、遅くなっても、待っておれ。それは必ず来る、遅れることはない。

2:4 見よ、高慢な者を。彼の心は正しくありえない。しかし、神に従う人は信仰によって生きる。」

 

このハバクク書は、これまであまり説教で使うことはありませんので、最初に少し背景の説明をしたいと思います。

ハバククは「祈りの預言者」と呼ばれています。神様への祈りの中で、神様と語ることで、神様への信仰に目覚めた預言者です。紀元前7世紀頃の人です。

この時代、イスラエルの王国は分裂をしていました。北王国イスラエルと南王国ユダ。ハバククは南王国ユダの人でした。この時、南王国ユダの人々はおびえて生きていたのです。なぜか。世界最強の軍事力を持つバビロニア帝国の軍隊が近づいていたからです。アッシリアの軍隊よりも大きな力を持ってきていたバビロニア帝国。その軍隊が近づいていました。

ユダの人々はこのバビロニアの軍隊が迫ってきているのを知っていました。ラッパの音、兵士の行進する音。今にも聞こえてくるような恐れの中で生活していたのです。

戦争になるのは今日か、明日か。

世界を征服する力を持つバビロニアの軍隊に、こんな小さな国が勝つことなど考えられない。誰もがそう思っていました。

そして、戦って自分たちは生き残れるのか。そして負けてしまったらどうなるか。戦いに負けた後、どんな生活が待っているのか。捕虜として捕らえられるか、奴隷として生活をしないといけないのか。いや生き残ったとしても殺されるかもしれない。そんな不安の中にいたのです。

こんな恐れと戦っていたのです。

これからどうなるだろうか。みんながそう思っていた時、そういう緊迫した状況の中で、ハバククは祈るのです。

 

「わたしは歩哨の部署につき/砦の上に立って見張り/神がわたしに何を語り/わたしの訴えに何と答えられるかを見よう」。

リビングバイブルでは、「今、私は見張り台に立ち、神が私の訴えにどう答えるか待っていましょう」そう訳しています。

 

ハバククは今、どこにいるでしょうか。歩哨として、見張りとして立つところ、物見櫓の上、見張り台、高いところに立っているのです。想像してみて下さい。そこからはすべてが見渡せます。自分たちの国の側を見ると、人々がうろたえて、右往左往している様が見えるのです。誰もが怖れを抱いていて、落ち着いていないのです。

そんな光景を見ながら、神から遣わされた預言者ハバククは、自分にできること、そう物見櫓の上で、神に祈ったのです。

何を祈ったのでしょうか。「神様、答えて下さい」そういう祈りでした。

その祈りはイスラエルの民たちの声、思い、苦しみでした。

救いはあるのですか。

助けはあるのですか。

生きる道はあるのですか。

ハバククは、そんな民の苦悩をそのまま受け止めました。

そしてそれを神様に祈り、神様に訴えたのです。

そしてどうしたか。沈黙を続ける神様に、激しく問い、ジッと神の答えを待ったのです。

神様は必ず応えてくださると信じて待ったのです。

(間)

神様はどうされたでしょうか。

 

このハバククの祈りに神は応えてくださったのです。

神は語られました。

「幻を書き記せ。走りながらでも読めるように/板の上にはっきりと記せ。定められた時のために/もうひとつの幻があるからだ。それは終わりの時に向かって急ぐ。人を欺くことはない。たとえ、遅くなっても、待っておれ。それは必ず来る、遅れることはない。」

 

最初に言っています。幻を書き記せ。「板に私からの幻を書き記しなさい」

 

「幻」とは神のメッセージです。これから知らせるべき幻を与える、と神様は言っておられます。受け取ったハバククはどうすればいいのでしょうか。自分の心に納めておくのですか。人々に伝えるのでしょうか。受け取った幻をどうすればいいのでしょうか。

書き記しなさい、板に書きなさい、と言われるのです。なぜ書かなくてはいけないか。

大切だからです。間違ってはいけないからです。

十戒が石の板に書かれたように、大切なことは間違わないように書かれるのです。

そのために神様はまず書くための板を用意しろと言われたのです。

でも、単なる板ではありません。今ですと「掲示板」です。おそらく遠くから見ることのできるような大きな大きな板だったに違いありません。それを用意しなさいと言っているのです。誰でも、そして遠くからでも読めるように。車からでも、新幹線からでも読めるものを用意しなさいと言っているのです。

そうです。うろたえて走りまわっている人でもきちんと読めるように大きな板を用意しろ、と。

その板はどうするのですか。

そう、そこに幻を書くのです。神様から頂ける幻、メッセージです。

その大きな板に書けと神様は言われています。

何と書かれるのでしょうか。小学生がいるので分かりやすく言いましょう。

「神様は終わりの時、救いの時を定めているよ。

その時は、必ず来る、遅れることはない。

だから待っていなさい。失望しないようにしなさい。

これらのことは必ず起こる。だから忍耐していなさい。

この神のことばに信頼するならば、大丈夫だ、生きることができる」

 

この言葉を大きな板を用意して書きなさい。書いてみんなに読めるようにしろ、と言われたのです。

「終わりの時」とは、神が定めた救いの時のことです。神はイスラエルの民の救いを計画している。それはずっと昔からの神様の約束でした。でも、今イスラエルの民たちは滅ぼされようとしている。神様が約束してくださったのに、なんでこんな目に合わなくてはいけないのか。そうみんな思っていたのです。

でも、神様は言われるのです。

「神は終わりの時、救いの時を定めている。その時は、必ず来る、遅れることはない。

だから待っていなさい。失望しないようにしなさい。これらのことは必ず起こるのだから。

 

救いの時、当時の人の待ち望んでいた時には何が起きるのでしょうか。

彼らは何を待ち望んでいたのでしょうか。

救い主の誕生です。自分たちがこんなにも苦しんでいる。この苦しみから救ってくれる方、救い主、自分たちの王を待ち望んでいたのです。

イスラエルの民たちは、それまで神様のことを考えない時代もありました。自分勝手にしたいことをして、神様から離れていた、そんなときもたくさんありました。

そして、周りの状況はだんだんと悪くなっていく。

でも、彼らはそんな時に指折り数えて待っていたのです。救い主を待っていたのです。

今日来るのだろうか、明日来るのだろうか。

 

私たちは、イスラエルの民たちは、そんな苦難にあって当然ではないか、蒔いたものを刈り取っているだけではないか。そう考えて今います。

でも、神様は言われるのです。私は約束したのだ、と。だから、その時を、その約束の時を忍耐して待て、と言われるのです。

この言葉に信頼するならば、その人は生きるのだと言われたのです。

 

これは今から2600年くらい前の出来事です。

忍耐して待て。

そう言われて救い主がお生まれになったのは、今から約2000年前。ハバククの時代の人たちが救い主を目にすることはできませんでした。

しかし、苦難の中、救い主を待ち望む思いは引き継がれていったのです。

 

この季節はそのことに最も注目が集まる時です。

そして、まさにそれを現在体験する期間、これがこの待降節なのです。

待降節、アドベントとは、主イエスのご降誕を待つ季節、救い主の誕生に向かって心の備えをする準備の時期です。教会のカレンダーを持っている教会では、クリスマスから4週間前からこれを行います。

例えばアドベントカレンダーで一日一日待ちつつ過ごすのです。子供たちのためには、11日、クリスマスの近づくのを、カレンダーで確認します。

もういくつ寝るとお正月。日本で正月を迎えるために準備するのと同じです。

 

ある教会ではアドベントクランツを飾ります。週毎にローソクに一本づつ火を灯していきます。4本灯された時にクリスマスが来るようにするのです。その間に、教会でも、家庭でも、個人でも、神様がおいでになる時を考え、クリスマスの心備えをしていくのです。

 

でも、これは2600年前の時代だけのことなのでしょうか。約2000年前にイエス様がやって来るまでしかなかったのでしょうか。

イエス様がおいでになってから後、それはなくなったのでしょうか。

 

違います。今もまた私たちは同じように、救い主を待ち望んでいるからです。

いや、むしろハバククの待ち方は、今の私たちに近いものがあると言えるのです。

ハバククには「終わりはもう定められている」と神様は言っています。そして、その時に向かって歴史は急いでいる。流れているというのです。

でも、今、クリスマスを待つ人々と違うことがあるのです。

この救い主はいつ来るか、それが分かっていないのです。はっきりした時が分かっていないのです。

そうクリスマスは12月の24日が来れば、やって来るのです。

アドベントカレンダーが、アドベントクランツをなぜ飾れるか、なぜそれができるか、というと、それはいつ来るか分かっているからです。今から24日後にクリスマスはやって来ることが分かっているからです。

 

でも神様は言われます。

「たとえ遅くなっても、待っておれ」と。

ハバククの語る「定められた時」「終わりの時」とは、メシア・キリストの到来です。救いの時が来るという確かな約束が与えられ語られながら、いつなのかを示されない中待ち望まなくてはいけなかったのです。

それは、私たちアドベンチストが、イエス様の再臨を待ち望んでいるのと同じなのです。

私たちの今の状況と同じなのです。

イエス様のご再臨があるという、確かな約束があり、それを語りながら、それがいつかを示されていない状況。

神様は言われます。

「それは終わりの時に向かって急ぐ。人を欺くことはない。たとえ、遅くなっても、待っておれ。それは必ず来る、遅れることはない。しかし、神に従う人は信仰によって生きる。」

 

そう、「たとえ遅くなっても、待っていないさい」と言われているのです。

 

私たちは知っています。ハバククに言われた神様は、その約束を守って下さったことを。

確かに神様はその約束は守られたのです。

2600年前の約束は、ハバククの時代には成し遂げられなかったけれども、神の御子は人となり、十字架で贖いをしてくださいました。

それを私たちは知っているのです。そして、私たちはこの救いの時の後にいて、もうすでに私たちは救われているのです。

そう、私たちは神様の約束は必ず守られるということを知っているのです。

 

ここで、この時に思い浮かべてほしい一人の人がいます。

アブラハムです。神様はアブラハムを選んで1つの約束を与えられました。

子孫の約束です。アブラハムから多くの子孫が出て、全ての国民の祝福の基となるという約束です。どんなに人の罪が深くなっても、世の人を救う神の愛が、このアブラハムに与えた誓いという形で示されたのです。

ところがアブラハムは、この約束の実現を見ることは出来ませんでした。何十年も待ち続けてやっとイサクが与えられましたが、多くの子孫も救い主も見ることは出来ませんでした。自分の目で神の誓いの実現を見ることの出来なかったアブラハムは、その希望を次の世代に託します。次の世代はまた次の世代に託します。

そのようにして、アブラハムから始まってヨセフまで1800年の年月が流れることになりました。これは旧約の人々すべてにつながったのです。

こうして、旧約の人々は、旧約の全ての民は「待ち続けた民」なのです。旧約を貫いているのは「待つ」ことでした。

同じことが、新約の民にも言えます。

私たちも待つ民、待ち望む民です。救い主は現れましたが、救いの完成は、終わりの時を待たねばなりません。旧約の民と同じように、新約の民も「待つ民」なのです。

 

そう言う意味でハバククの預言はまだ完全には成就してはいません。

私たちは神の子ですが、神の子としてのすばらしさ、その果実を味わうのは終わりの時です。私たちはこの世界に使命を持って送り出されていますが、その働きが報いられるのは終わりの時です。

キリスト者は、やがて来る終わりの時を待つのです。

待つ民として、この世界はハバククの生きた時代と同じです。

ニュースを見て下さい。連日様々なことが起きています。

テロが起こり、報復が連鎖して恐怖が世界を覆っています。

これから日本は、世界はどうなっていくのでしょうか。

人の心はささくれ立ち、憎しみが増大している。

そんな時代であっても、クリスチャンは、この時代の中で、希望をもって終わりの時を待つ者とされているのです。

 

この意味では、信仰とはこの世界の中で「待つこと」なのです。

 

私たちの日常生活を見ても「待つことは」大きな意味を持っています。

親は生まれた子が成長し成人する日を待ち望みます。命の成熟・成長のためには待たねばなりません。あせったり無理をしたら、その命はゆがみます。時をかけて待たねばいけません。

同じように、私たちの礼拝には小学生がたくさん出席してくれています。私たちは、彼らの信仰の成長を望み待っています。神様はきっとこの素晴らしい子供たちを成長させてくださる。

信仰のいのちも同じです。ここにまだ神様を受け入れていない方々がいます。しかし、神様はその方々の心に小さな種を植えて下さいました。その種が芽生えて成長し、やがて主に従っていく者となることを私たちは祈って待たなくてはいけません。

同じように、私たちも信仰者として成長することができますが、それには時が必要なのです。

教会もそうでしょう。完全な教会はありません。いつもどこかが成長しているからです。私たちの教会も、もっともっと成長することができるはずです。でもそのためには時間が必要なのかもしれません。

 

私たちが神の言葉に信頼して待つことが、信仰そのもので、この信仰によって人は生きるのだと、ハバククは私たちに語るのです。

 

神の約束の言葉を信じて従う者はその信仰によって生きる。

今は待つとき、私たちは待つ民なのです。

どんな時でも、この神の約束の言葉に信頼して、何よりもキリストが再び来られる時を待つ者として生きていきたいと思います。

忙しい季節ですが、しっかりと焦らず一歩一歩歩んで行きたいと思います。