» » メッセージ2018年11月17日

メッセージ2018年11月17日

よい麦も悪い麦も マタイ13:24-30

 

皆さんおはようございます。

イエス様はよく「耳のあるものは聞きなさい」と言われます。イエスさまがわざわざこうして言われるのは、私たちが聞いているようでいて、実際にはその一番本質のメッセージをちゃんと聞いていないからです。イエスさまが神の愛について語っているのに、聞いていない。神さまが一人ひとりの神の子たちに、「私はお前を愛しているよ、ゆるしているよ、ちゃんと見守っているよ」って言っているのに、それをちゃんと聞けていない。

だから、イエスさまは分かりやすいたとえを用いてお話しくださるのです。

 

今日のたとえは、あまり、これはこういう意味で、あれはああいう意味で、と細かく考えないで、そのままを受け取って、「これは神さまが私たちに語り掛けてくれている愛の言葉だ」って受け入れた方が、良く読める場所です。お読みしましょう。

 

マタイ

13:24 イエスは、別のたとえを持ち出して言われた。「天の国は次のようにたとえられる。ある人が良い種を畑に蒔いた。

13:25 人々が眠っている間に、敵が来て、麦の中に毒麦を蒔いて行った。

13:26 芽が出て、実ってみると、毒麦も現れた。

13:27 僕たちが主人のところに来て言った。『だんなさま、畑には良い種をお蒔きになったではありませんか。どこから毒麦が入ったのでしょう。』

13:28 主人は、『敵の仕業だ』と言った。そこで、僕たちが、『では、行って抜き集めておきましょうか』と言うと、

13:29 主人は言った。『いや、毒麦を集めるとき、麦まで一緒に抜くかもしれない。

13:30 刈り入れまで、両方とも育つままにしておきなさい。刈り入れの時、「まず毒麦を集め、焼くために束にし、麦の方は集めて倉に入れなさい」と、刈り取る者に言いつけよう。』」

 

実はこのたとえ話をイエスが説明をしておられます。36節からです。これを見ると、この聖書を読んでいる、当時迫害されて苦しんでいるキリスト者たちのために解説しておられることが分かります。今苦しいかもしれないが、神さまが、最後は悪を滅ぼして正しい世界、良い世界にしてくれるよと、そういう励ましのメッセージです。だから「泣きわめいて歯ぎしりする」とか、「悪いものたちが集められて燃え盛る炉の中に投げ込まれる」というイメージは今の自分自身にあてはめてはいけません。

終わりの時代、私たちはどうしても裁かれることを恐れ、自分の中の問題に傷ついていますから、このような厳しい言葉に反応してしまいます。そうならないように注意しないといけません。皆さんには、まずはイエスさまが群衆に語った本来のメッセージをちゃんと聞いた上で、この後半の解釈を見てほしいと思うのです。

ということで今日は前半の、イエスさまが群衆に本当に言いたかった毒麦のたとえはどういう意味なのかを見ていきたいと思います。これもメッセージとしては、はっきりしています。

簡単に言うと、

「確かに、私たちの現実には毒麦がいっぱい生えているけれども、大丈夫だ。無理して抜かずにそのまま共存していても、神さまは最後にはちゃんと素晴らしい良い麦畑を作ってくださる。神さまがそうなさるのだから、信頼しなさい。毒麦ばっかり見つめて、これを抜こうとか、どうしても抜けないとかで苦しまないで、まずは良い麦をしっかり見つめ、いつか完成する良い麦畑を信じて待ち続けましょう」

 

これがイエスさまのおっしゃりたかったことです。

でも後の解説を見て、一本の麦を一人の人を表しているたとえ、というふうに解釈します。でもそういうふうに読むと、福音という視点からはちょっと、変なたとえになります。

この毒麦は最初から毒麦です。頼んで毒麦になったわけでもない。生えてみたら自分が毒麦だった。この毒麦のあなたには救いがないですよ。「今からがんばって良い麦に変わりましょう」と言えないのです。毒麦は良い麦に変わらないからです。

多くの人は「ああ俺、毒麦に生まれちゃった。いずれ俺は抜かれて焼かれるしかない」

そうなります。ここには救いがないのです。イエスさまはそんなたとえ話はしません。

このたとえを読んでまず感じることは、「麦畑が私、私たち」というイメージです。つまり、誰の中にも生える毒麦の話です。神さまは私をまず良い麦畑としてお造りになってくださった。にもかかわらず自分の中に毒麦がある。現実にそれを感じます。確かにその毒麦を抜けば、良い麦畑になれるかと思うかもしれないけれど、なかなかことはそんなに単純じゃない。むしろ、神さまが何か計り知れない大きな摂理の中で、毒麦すらも良い麦畑に役立てようとして、毒麦の存在をお許しになっているのではないか。そう読むことができるのです。

これは、一人の中でもそうだし、たとえの説明にあるように社会の中でもいえるのではないでしょうか。

アウグスティヌスの言葉に「神は、どんな悪も行われないようにするよりも、悪からも善を生まれさせるようにするほうが良いとお考えになった」というのがあります。

毒麦は確かに自分の中に、社会の中にあるけれども、大きな目で見たら、その毒麦すら、私という畑の中で何らかの役割を負っているのかもしれないのです。

普通に考えたら、抜ける毒麦は少しずつでも抜いて、自らを良い麦畑にしたらいいように思います。でも仮に、抜くことに夢中になるあまり、一番本質のこと、つまり、「私は神さまが用意してくださった良い麦畑である。私たちの世界は、本質的には良い畑なんだ」ということを忘れてしまうのです。忘れてしまい私たちは神様の与えて下った本当の恵みを受け入れられないでいるのです。

繰り返します。

本来、私たちは良い麦、良い麦畑。皆そうなんです。でも、いつのころからかみんな、その本質を見失っている。そして教会に来ると、自分の中の毒麦が気になってしょうがなくなります。自分の悪い点を見つめるのです。

「ああ、自分はどうしてこんなに愛のない人間なのだろう。どうしてこんなに変な性質が与えられてしまったのだろう」そう思うのです。

つまり、どんな毒麦が生えているのか、ということを気にしてしまうのです。

純粋な気持ちで自分を見つめて、こんな自分は嫌だなぁと思うのです。

けれども、それはよくなって行きません。真剣にそんな思いと向かいあっていると、だんだん行き詰まっていくわけですね。だって、抜こうったって抜けないのだから。むしろ、無理して一つ抜くと、かえって一つ増えちゃう。白髪と同じです。抜くと増える。自分の欠点を直そうだなんて言って毒麦抜こうと無理をしていたら、逆にいろんな悪が増えていく体験をして、ああもう毒麦は抜けない、もう自分はだめなのだって絶望するしかないのです。

それでもあくまでも抜き続けようとして壊れていくか。毒麦ばっかり見つめている。そのどちらかになりやすいのです。

 

皆さんも、自分の中に毒麦ありませんか。「私にはない」という人いれば、たぶんその人が一番あるのかもしれません。誰だって、毒麦をいっぱい抱えているのです。

だからと言って、それが抜けないから、私はだめだと絶望するのも、抜き続けようとして疲れ果てて壊れていくのも、どちらも間違いなのです。

そうなりやすい私たちを救うために、イエスさまはこのたとえを話してくださったのです。

 

当時の人たちも私たちと同じでした。

当時のファリサイ派は言うのです。毒麦抱えたお前は罪人だ、お前は救われない。毒麦を抜け。でも全て抜くことができません。ああ俺は救われない、生まれてきた意味がないとまで思っていた人が大勢いたのです。だからイエスさまがこのたとえを語った。

「だいじょうぶ。神さまが最後はちゃんと上手に悪い部分も全部抜いて、きれいな麦畑にしてくださる。世の終わりには必ずそうしてくださるし、一人ひとりが神さまのもとに召されていく時にこそ、そうしてもらえる」。

 

いつですか。イエス様の再臨の時に神様はしてくださるのです。再臨の時にこれが行われる。これが聖書の再臨の希望なのです。この福音を信じて、自分はもともと良い麦畑だと受け入れることこそが、今の救いなのです。

自分は毒麦だと思い込んだり、自分の中にある毒麦を抜き続けようとして疲れ果てる必要はないのです。

まずイエス様の福音、「あなたは良い麦だ、良い麦畑だ」、これを信じましょう。

「皆さん全員、良い麦畑なのです。毒麦つきの。」

これが大切なことです。

「皆さん全員、毒麦畑なのです。良い麦つきの」じゃないのです。

似ているようで、全然違うのです。

皆さんの本質は良い麦なのです。確かに毒麦はついている。でも、それを全部抜くことがこの世の仕事じゃない。イエスさまは、天の父なる神様の愛を語って「両方とも育つままにしておけ」とおっしゃった。

私は、この福音に救われました。それで、もはや自分の毒麦ばかり見つめるのをやめましたし、それを抜くことを第一にはしません。もちろん、神様が気付かせてくださったものを神様の力を借りて、少しは抜こうとしたりもします。でも今の私にできることはほんの一部。自分の力で全てを抜ききることはできないのです。

ではどうすればいいか。両方とも育つままにしておいても、神がちゃんとしてくださるって信じること。そうして信じていれば、「確かに私、今は毒麦いっぱい持ってます」って、平気で言えます。「神さまは、こんな毒麦だらけのぼくのことを大好きなんだ」とも、堂々と言えるのです。良い麦をしっかり育てれば、この毒麦は必ず神様がどうにかしてくださる。

イエス様が言いたかったことは、これなのです。

 

それがちゃんとできていたら、このたとえのもう一つの読み方、人の毒麦を抜くなっていう読み方もできるはずです。

多いでしょう、人の毒麦を抜こうとする人。マタイ7章の山上の説教でも言われています。兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気が付かないのか。

そうイエス様は言っています。

「あなた、ちょっと鼻毛が出ていますよ」みたいな感じで。あなたの毒麦、目立ちますよ、抜いたほうがいいですよ、みたいに指摘する人いますよね。自分も鼻毛伸ばして、たくさん毒麦抱えているのに、人の毒麦は気になって気になってしようがない人。しまいには、あの人さえいなければね、なんてその人自身を抜こうとする人。

それで良い世界は実現するのでしょうか。

変なたとえですが、例えばアメリカでトランプさんを抜いたらホントに世界は良くなるのか。そういう問題じゃないって分かっているはずです。次のトランプさんが出てくるはずです。

抜いて、抜いて、抜いていったら何もなくなったっていうのが真実です。神様は毒麦つきの世界をおゆるしになっているのです。私たちはその中で、良い麦を見るべきだし、育てるべきなのです。忍耐強く、“良い麦”を育てるべきなのです。

人の毒麦を抜いて、抜いて、抜いていっても、それは決して良い世界にはならないのです。

 

パレートの法則。80対20の法則。働きアリの法則。知っていますか。

アリは集団で生活しています。その中に、必ず何もしないで遊んでいるアリが何パーセントかいるのです。実験で、その「遊んでいるアリ」を全部取り除くと、今まで働いていたアリのうちの一部が、同じ割合で「遊ぶアリ」になるそうです。

面白いです。ということは、そのままこの遊びアリを抜き続けたら、最後はどうなるのか。当然、全滅します。

「毒麦を抜いたら、良い麦まで抜いてしまう。だからそのままに」。

 

それは、私たちは毒麦とか良い麦とか簡単にいうけれども、そんな簡単に決めつけちゃいけないってことにもつながっているのです。

神さまはおっしゃるのです。「悪いように見えるものも、良いものに奉仕しているのだ。お前たちがこれはいらない、これは役に立たないって言っている、それこそが全体の中でちゃんと役に立っている。勝手に判断せず私を信頼して、みんなが一緒に生きる道を考えなさい」

私たちはそのように招かれているのです。特に、他人を毒麦だと決め付けることについては、私たち、本当に気をつけなければいけないのです。

 

これをもとに、このたとえ話に続編を作るとすればどんな話を作るでしょうか。

ある人が、このたとえ話の続編を作りました。どういう話かというと、

僕が、やっぱりこの毒麦抜きましょうって言ったら、主人が言いました。「いや、両方とも育つままにしておきなさい」。すると僕は言いました。「ご主人様、それはあまりにも甘い。やはり毒麦は毒麦。これをそのままにしておいたら全部毒麦になってしまうかもしれません。私は、どうしてもこの毒麦を許せません。せめて、一番悪い毒麦を抜いていただけませんか」。

すると主人は、「分かった。お前がそこまで言うなら、一番悪い毒麦を抜こう」。

主人はそう言うと、エイッとばかりにその僕を抜きました。

 

いい話でしょ。悪を抜こうって言っている方が悪いという風に解釈した続編です。

神さまが両方ともそのままにって言っているのに、そうはいっても悪いものは悪いと、抜いていく。それこそが私たちの傲慢なのかもしれません。ネットやマスコミを使って行われていることはまさにこれです。

でも、神さまは全部ゆるしてくださるなんて言っていると、人間どんどん悪くなるのじゃないか、改心しなくなるのじゃないかなんて思うかもしれません。私もそう思うことがあります。

でもそこでしっかりと踏みとどまらなくてはいけないのです。

教会が聖書の真理として伝えなくてはいけないことは何か。

第一にするべきは、やはり十字架で示された「ゆるす神」を第一に伝えることです。そこを一番にしていないと、何かがゆがんでしまう、ひっくりかえってしまうのです。人間の集まりで、現代の社会で、心の問題で、教会で、毒を抜いていけば最後は良くなるって思うのは、どこか間違っていることを、このたとえは私たちに教えてくれているのです。

 

私たちの考えでは、都合の悪いものを抜いてしまえ。それは間違ってはいない。

でも神様は言うのです。それでも、「私の愛は、この悪以上だ」私たちが持つべきなのはこれを信じることです。もちろんこれは、大変なチャレンジです。でも、私たちはそれを信じます。悪とか毒とかばかり見ていると、大切なことが見えなくなるのです。その見えないものをこそ、信じなければなりません。見えないけれど、そこに信仰があり、愛があり、希望があるのです。

良い麦は神から与えられたものです。良い麦があるのです。それを神さまがちゃんと最後は実らせてくださるのです。そのような良い麦畑を思い描いて行かなくてはいけません。私たちキリスト者は、このような悪の現場で良い麦を信じて育てるため、神さまの創造のわざに協力するために存在しているのです。

一番大事なことは、どれほどの悪の中であっても神は善だと信じることなのです。

 

ロマ8:26,27

8:26 同様に、“霊”も弱いわたしたちを助けてくださいます。わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、“霊”自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです。

8:27 人の心を見抜く方は、“霊”の思いが何であるかを知っておられます。“霊”は、神の御心に従って、聖なる者たちのために執り成してくださるからです。

 

たとえわれわれは知らなくても、神はちゃんとすべてに心を配っておられることを、信じ続けるのです。祈る時、必ず導いてくださる神様を思う浮かべる、それを感じることが、真の創造を可能にするのです。

私も、この教会も完全ではありません。表向きはどうか分かりませんが、魂の世界では被災地ですし、炎上しているかもしれないのです。

でも神さまが必ず導いてくださるのです。

皆さんが自分自身の中に悪に飲み込まれているように感じていても、そこに善なるものがちゃんと神さまによって蒔かれ育てられているのです。イエス様がおいでになるその日まで、自分の中にある良い麦をしっかり育てていき、おいでのなるのを待ちたいと思います。